第二章 こころおぼえ(一)

時はひと月前までさかのぼる。

 

「では、海斗うみと幻神大綱げんしんたいこうを音読しなさい」

――まずい。これは本当にまずい。

村に一つだけある学舎まなびやの一室で海斗は一人、危機に瀕していた。

なぜなら、海斗は今日に限って教科書を忘れて来ている。隣の人の教科書を見せてもらうという手を思いついたが即刻頭から消去した。どうせ、教科書が海斗の手に触れる直前でひっこめられるか、海斗が教科書をつかむ前に相手が手を離し、教科書が床に叩きつけられるかのどちらかだ。そして、そんなクソつまらないことをやってみんなを笑わせたやつが人気者になるのだからこの世のことわりはどうかしている。海斗は心の中でため息をついた。今までいったい何人の人気者を輩出してきたか。そろそろ褒められてもおかしくはない。

 海斗は考えるのを諦めた。ゆっくりと、うつむき加減で椅子から立ち上がり、震える声で言う。

「すみません、先生。教科書を忘れてきました」

先生の口角が上がる気配がする。

「あら、そう。それじゃあ、授業は受けるつもりがない、ということでよろしい?」

海斗は悔しくてたまらなかった。

――クソ、こいつ、俺が教科書を持ってないことを確認した上で指名しやがった。

「すみません」

「では、今すぐ教室から出ていきなさい」 

「……はい」

教室がわらう。

海斗は渋々しぶしぶ荷物をまとめ、みんなの嗤い声を振り切るように教室を出た。あの教師は海斗のことが嫌いらしい。ことあるごとに教室から追い出そうとする。どうやら死んだ両親と関係しているらしいが詳しい事は知らない。

――今日はあの教師の日だから、忘れ物をしないように再三持ち物を確認してきたのに。

「なんだよ、幻神大綱って。大綱のくせに本文短えし、内容ゴミだし、結局何言いたいのか全くわかんねえよ!」

道端の石を蹴りながら、意味不明な方向に八つ当たりをする。

行くあてもなくふらふら歩いていると、一際強く潮風が吹いた。

海斗の住んでいる村――海青村かいせいむらはその名の通り海のそばにある。そのため、塩の生産が盛んで、山村さんそんとの商売も上々のようだ。常に潮の香りがするこの村は高床式の住居が立ち並び、村民も陽気で活気のある村だった。村民の多くは健康そうな日に焼けた肌をしており、海斗のように海にちなんだ名前が付けられる。ここからでも、砂浜で忙しそうに塩作りをしている大人達の姿がよく見えた。

「子供は学舎に行く時間じゃないのかね?」

突然話しかけられ、海斗は文字通り飛び上がった。

振り返れば、そこにはなんと村長が笑みをたたえて立っている。儀式やうたげの時しか姿を見せないので、こんなに間近で村長を見るのは初めてである。海斗は場違いにもその姿に感銘を受けた。

「ごっ、ごめんなさい!」

「いやいや、謝って欲しいわけではないぞい。教科書を忘れたくらいで教室を追い出されるなんぞ、お主も不幸よのう」

ほっほっほ、と愉快そうに笑う目の前の老人。

……ん?ちょっとまてよ。今この人、だいぶ聞き捨てならないことを言ったような。

村長は相変わらず、ニコニコしながらこちらを見ている。海斗は途端にその笑顔が怖くなった。

「ええと、なぜ俺が教科書を忘れたことをご存知で?」

「ん、なぜかじゃと?知りたいか?」

「知りたいも知りたくないも、とりあえず明日の俺の致命的な睡眠不足をどうにかして欲しいですよ」

村長に結構生意気な口をきいてしまった。しかし、それを村長は嬉しそうに笑い飛ばした。

「ほほほ。なかなか度胸がある子じゃのう。わしの見越した通りじゃ」

――こんな問題児に見越されることが残っていたとは。

「よし。特別に教えてしんぜよう。なぜなら、わしが今、そなたの教科書を持っておるからじゃ」

……このジジイついにボケたのか?

危うく口に出しそうになり、慌てて口を押さえる。

「あの、なにもかも意味がわからないんですが」

「つまりは、君は教室から追い出されたということじゃな」

「……。なにしてくれてるんですか。村長」

思ったより、冷たい声が出た。村長はというと、いつの間にやら右手に持っている教科書を振って見せてきている。表紙の右下の隅の方に汚い字で、海斗、と書いてあるのがはっきり見えた。

「お主の名はこう書くのか。なんと読むのじゃ?」

「別にひねりも何もないですよ。うみとです」

「そうか。良い名ではないか。確かわしの大叔父と同じじゃぞ」

「そ、そうなんですか?」

――まぁ、この村ではありがちな名前だしな。

「そうじゃ。ただし、お主とちがって「あおと」と読んでいたらしいがの」

――あ、あおと!?「海」が「あお」!?

「……」

「……」

――なんの時間だ、これ。

海斗は見失いかけていた本題をやっとのことで引きずり戻した。

「そんなことよりも村長、ちゃんと説明して下さい」

「何をじゃ?」

「ナニヲジャ?ではありません。何であなたが今ここにいるかですよ」

「ああ。まあとりあえず詳しい話は後にしてわしの屋敷に来てくれんかね」

「へ?」

村長はそう言うと、意外にも強く海斗の腕を掴み、村長の屋敷に向かって歩き始めた。

海斗はもう抵抗する気も起きず、ただ引きずられるに任せた。

 


 村長に引きずられながら聞いた話によると、どうやら村長は海斗が寝ている間に海斗の家にし、教科書をらしい。

――このじいさん、実はなかなかのやり手だな。あの先生の性格も完全に理解してるし。

それが、話を聞いた上での海斗の感想だった。

もちろん、口には出さなかったが。

「それでじゃな、海斗よ。本題はここからなんじゃ」

「その本題とやらは、こんな大衆の面前で話して良いもんなんですか?」

海斗は教科書を事実を知った瞬間から、この老人に対する尊敬の念は綺麗さっぱり消え失せていた。

「ふむ。それもそうじゃな。では、話は屋敷に着いてからにしよう」

今も、道を歩いている村民はもちろん、道に面した家々からも興味津々にこちらを見る目がある。

普段見ることのない村長とその村長に引きずられる少年、という異様な光景はとりわけ人の目を引くらしい。

「えーと、村長。俺自分で歩けますよ。道に死体を引きずったような跡ができてますし」

実際は人の冷たい視線に耐えかねただけである。

「おお!たしかに人殺しにはなりたないのう。」

そう言って、村長は唐突に海斗を掴んでいた手を離す。

「うわっ、いてっ」

海斗の頭は容赦なく地面に叩きつけられた。

――このジジイ、ほんとに俺を死体にしようとしてないか…。

じんじんする頭をさすりながら、海斗は借りるたびに床に叩きつけられてきた教科書を思わずにはいられなかった。

そうこうしているうちに、村長の屋敷の手前まで来た。しかし海斗は、長い階の前に見慣れない屈強そうな大の男が二人いるのを認めるとすぐさま村長に質問した。

「村長、あの人たちは何なんですか」

「ほっほっほ。心配はいらんよ。あの二人はわしの護衛じゃ」

――この人、護衛の一人も付けずに俺のところまで来たのか。

「なんで、あんな所にいるんですか」

「わしをためじゃな」

「……」

――あぁ、だめだ。もう意味がわからない。

海斗は内心で頭を抱えた。もう、質問する意義すら感じなかった。この老人と一日でも行動を共にすれば、海斗の頭がぶっ壊れるのは確実のようだ。

「村長、おかえりなさいませ」

護衛の一人が低い声で言い、二人してその場にひざまずく。

「ただいまじゃ。この子が例の子じゃよ」

「なるほど」

護衛達の目が海斗へと向かう。その目は武人らしく、鋭く凛としている。

海斗は、わーわーうるさい頭を意地で黙らせ、全神経を挨拶に全振りした。

「はじめまして。海斗といいます」

「はい、よく存じ上げております」

――存じ上げられているのか。

「さ、こちらへ」

そう言って護衛の一人は前を先導してきざはしを登り始めた。もう一人はどうしたのだろうと思い、海斗は後ろを振り返る。が、そこには目を疑いたくなる光景があった。

なんと、村長が残り一人の護衛に負ぶわれていた。

護衛は当然の顔をして、階を登ってゆく。

――「運ぶ」ってそのまんまの意味かよ。確かに老人にこの階はきついかもな。

しかも、負ぶわれている村長が威厳そのものの顔をしていたので、海斗は必死に笑いを噛み殺しながら後をついていった。


 

「そこでじゃ、海斗に麓陽村に行ってもらうというのはどうかと思うたのじゃが、皆いかがか」

「私は賛成です。あそこの村長の息子も海斗と同い年だったはずですよ」

「私も賛成である。海斗にとっても良い機会だろう」

「僕も始めは流石に幼すぎるのではないかと思っていましたが、本人を見て安心いたしました。この子なら大丈夫でしょう。気の強そうな顔してますし」

――なんか、勝手に話が進んでいる。

村長の屋敷の一室である。召集された豪族達が村長と話し合い、なにか決め事をするようだ。

海斗は屋敷に着いて早々、かわやを借りに席を外していたので、話が全くもってわからない。

「あの、ただいま戻りました。村長」

「おお、戻ってきたか。して、厠はどうじゃった?」

海斗は厠の感想を尋ねてくる人に初めて出会った。

「え?厠ですか?ええと、とても綺麗でした」

「そうか、それは良かった」

――反応、薄っ。

「では、ここからは本人を交えて話を進めるとしよう」

――何なんだ、このじいさん。

「海斗。隣の麓陽村は知っておるかね」

「……はい。存じ上げております」

あまりに自分勝手な話の進め方に海斗は顔をひくつかせながらも、至極丁寧に返事をした。

麓陽村。海青村の隣村でありながら近場で唯一どの村とも交易をしていない村。他の村との交流がないところを見ると、自給自足の生活をしているようだ。海青村の近辺や街道でさえその村人の姿を見た者はいないという。よって、うちの村からの評価は一貫して、不気味、の一択だった。

「麓陽村がどうかしたのですか」

「いや、あの村と交易を始めてみようと思うてな」

……この人、正気か。

「え?だって今までどんな商いの誘いにも乗ってこなかったんですよね。いまさら、応じるとは思えないんですが」

「それがじゃな、塩が欲しいらしいんじゃ」

麓陽村はその名の通り山の麓にあるため、自力での塩の生産は難しい。海青村から意外と近いが、山に囲まれているので海青村以外からの接触はできない。他の村との交流がないのは地理的な理由もあるようだった。

「とても、怪しいですね」

――いくらなんでも急すぎる。

「こちらとしても麓陽村の質の良い木材は欲しかったところなのじゃが、なにせあの麓陽村じゃからのう」

塩作りには水分を飛ばすための大量の木材がいる。

「何か裏があると?」

「それが何とも言えんのじゃよ」

麓陽村は不気味ではあるが決して攻撃的なわけではない。ただ単純に情報が少ないのだ。

「そこでじゃな、海斗にあそこの一人息子と仲良くなってもらい、少しでも情報を集めようという算段なのじゃがどうかね?」

「なるほど、計画は分かりましたけどなぜ俺が?」

あの学舎には海斗より頭の出来が良くて教室を追い出されたことのない優秀な同い年がわんさかいるのだ。なぜ村長が海斗を選んだのかはなはだ疑問だった。

「海斗、今のわしには学業しかできないは必要ないのじゃよ」

そう言って村長は楽しそうに笑った。

 


 そうしていろいろ具体的な予定を聞かされた後、海斗と村長と数人の豪族達で構成される一行の出立は三日後と告知された。

不安は大きかった。ただ、いつも海斗を馬鹿にしてくる先生やその生徒達を見返す良い機会だとも思っていた。通常、他の村との交易の場に子供が同席することは許されない。つまり、海斗だけが特例なのだ。

「なんか俺、村長に気に入られてるみたいだし、この調子でいけば、後継ぎの線もあるかもなぁ」

今の村長には子供がいない。しかもなかなかの年齢であるので、村でも後継ぎを指名したほうが良い、と言う声がちらほら聞こえるようになっていた。

海斗は村長になった自分を想像し、優越感に浸る。しかし、その優越感も長くは持たなかった。

麓陽村に行く前日になると、海斗の中ではどんな感情よりも緊張が勝つようになり、夜も眠れないほどだった。

門をくぐった瞬間矢を射込まれたらどうしよう、とか、商談の最中にいきなり後ろから切りつけられたらどうしよう、とか、やけに物騒な考えが頭の中をぐるぐる回る。

その結果、海斗は出発の日を完全なる睡眠不足で迎えたのであった。


 

 その日は朝から海斗達を見送る村民で村の門はごった返していた。嬉しそうに手を振って声援を送る者、相手の村が村だけに不安そうな顔をしている者、人や荷物を麓陽村まで運ぶための馬を物珍しそうに眺める者など、その顔はさまざまだった。

今日、海斗達が麓陽村に行くことはもうすでに村長間で話がついているらしいので、村へ着けばそれなりに歓迎はされるはずだ。ただ、海斗の不安は尽きない。なにせ、あの麓陽村だ。歓迎されるのは最初だけで、その後は監禁でもされるかもしれない。そんなことを思ってしまうほどにあの村に関する情報はほとんど無いに等しかった。

また自分達が暗殺されている映像が頭の中に流れ始めたので海斗は自分の顔を手で叩き、気合を入れ直す。

交易――特に交渉をしに行く場合は長く滞在するのが普通だ。つまり、海斗達は最低でも一週間ほどは海青村に帰ってくることができない。

海斗の両親は早くに死んでいるので、親と離れるのが辛いという感情は湧いては来なかったが、やはり住み慣れた土地を後にするのは少し寂しい。でも、羨ましそうにこちらを見る同級生や驚いた顔の教師を馬上から眺めるのは少し小気味が良かった。

「では、行って参る」

その村長の言を合図にして、列になった馬達が歩き出した。

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幻影の華 知瑪坂 斎 @kamenote3

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