亜沙

紫陽花 雨希

本編

 一生忘れられない光景というものがある。

 日々忙しく生活している間は胸の奥にしまい込まれているのに、日曜日の夜、ふっと目の裏に浮かんできて私の心を蝕む。

 私の古い友人である亜沙(あさや)は、魂の半分を精霊に喰われた子だった。そのために、体と心の一部が不自由だった。

 私と亜沙が出会ったのは、村の子どもたちを集めて狩猟や採集を教える小さな学校だった。

 十一歳になったばかりだった私は、生来の気難しさのために周囲に馴染めず、いつも青空教室の隅っこでセンダンの木にもたれかかってぼんやりとしていた。

 そして、一つ年下の亜沙はそんな私の隣でずっと本を読んでいた。彼女の両足は動かない。だから、授業に加われなかったのだ。

 私はなるべく、人と関わらないことにしていた。幼い頃からささいなことで癇癪を起こして相手を傷付けてしまう性で、それを避けるためには最初から近付こうとしなければ良いのだ。けれど、ずっと隣にいる亜沙のことは気にせずにはいられなくて、時々そっと彼女の柔らかそうな髪を眺めていた。指先で触れたら、飴細工のようにほどけてしまいそうだった。彼女は、美しかった。

 ある日、私がぼんやりと空を見上げていると

「ねえ、」

と聞き慣れない声がした。驚いて声の方に振り向く。草原の上にぺたんと座り込んでいる亜沙が初めて、本当に初めて、私の目をのぞき込んでいた。

「ねえ、見て」

 亜沙が、長袖のブラウスの袖をめくった。白く透明感のある肌に、深く新しい傷がえぐれていた。

 私はぞっとし、そしてどうして彼女がいきなり私に話しかけてきたのかを考えて不安になった。

「誰が付けたか分かる?」

「いじめっ子の××君」

「違う」

「もしかして自分で?」

「違う」

 亜沙は、そのお人形さんのような端正な顔にすっと微笑みを浮かべた。

「私のお母さんだよ」

「あの人が……?」

 亜沙の母親は、お洒落で快活で、学校によく来てはみんなにお菓子を配ってくれる。その聡明さのために、村の女たちの中でも一目置かれている人だ。

「あの人はね、自分を怒らせたことに怒るからどうしようもないの」

 亜沙の言っている意味は、私には分からなかった。

「ねえ、私の魂が赤ちゃんのときに半分、精霊に喰われたって話聞いたことある?」

「あなたのお母さんが言ってたけど……実際、精霊はよく悪さをするよね。夏に水を枯らしたり」

「バカじゃないの」

 亜沙がつばを吐いた。

「精霊なんているわけない。もっと論理的に、現実的に考えてよ」

「え……」

 戸惑う私に、亜沙が冷え切った目を向けてくる。

「日が暮れたね。もうみんな帰っちゃったし、あなただけに教えてあげる」

 亜沙がごくりと息を呑んだ。

「私、歩けるの」


 燃えるような夕焼け。半熟卵の黄身のような太陽から、こぼれ落ちる光。そのオレンジ色の空に向かって、立っている亜沙の背中。髪が風に巻き上げられて、激しく波打つ。

 怒っているような、とても強い感情をたぎらせているような彼女の背中からふっと力が抜け、そして、前に向かって崩れ落ちた。

「亜沙!」

 私は叫ぶ。そして、目を覚ました。温かいものが、頬を伝った。


 その日、亜沙は村の外れの崖の下で変わり果てた姿で見つかった。彼女が歩けないことは周知の事実であり、使用人から彼女に日常的に暴力をふるっていたことを告発された母親が犯人として罰せられることになった。


 あれから二十年が経つ。私は村を出て、栄えた都市で働きながら一人暮らしをしている。

 それなりに充実した生活のはずなのに、日曜日の夜になると、亜沙の背中がまぶたの裏に浮かんで、ひどく胸が痛む。

 もしかしたら私は、村の子ども達から外れた所で毎日一緒に過ごしている彼女に、仲間意識を感じていたのかもしれない。

 亜沙が秘密を打ち明ける相手として私を選んでくれたのは、彼女にとっても私が……

 ……もう、やめよう。

 私は彼女を救えなかった。

 それだけが、事実なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

亜沙 紫陽花 雨希 @6pp1e

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る