乳母車譲ります

相草河月太

乳母車譲ります

「いいんじゃない、これ」

 子供のために引っ越したばかりのマンション。リビングでくつろいでいると夫がスマホを見せてきた。臨月の近い友美は、自分の大きなお腹を意識しながら体を寄せてのぞきこむ。地元でいらないものをやり取りする交換サイトのページで、『乳母車譲ります』の文字があった。

「えー、初めての子供なんだし、買おうって言ってたじゃん」

「でもさ、これドイツ製のかなり高級なモデルだよ。新品買ったら十万近くするぜ。それがただでもらえるって、すごくない?」

 確かに出費続きのうちで、今そんなに高い乳母車を買う余裕はない。

「でもさあ」

 それでもせっかくなら新しいのがいいと思っていた友美は不満をあらわすが、テンションの上がった夫に、気に入らなかったら買えばいいじゃん、と押し切られ、譲ってくれる相手と会うことになった。


 自分が約束をしたくせに、いざその日になると夫はどうしても外せない用事だとかで、交換には結局友美一人で行くことになった。幸いに歩いて数分の距離で、重いお腹の友美でも問題ない。数隻のボートが浮かぶ公園の池の、脇の売店の近くにあるテーブルがいくつか並んだ休憩コーナーが待ち合わせ場所だった。

 いつもそうなんだよね、と夫の勝手さにあきれながら、友美は空っぽの乳母車を横に置いて座っていた女性に声をかけた。

「あの、黒崎さん、ですか?」

「はい。あ、韮澤さんですね、サイトで約束した」

 相手の女性、黒崎は友美よりかなり若い、まだ20代前半にしか見えない人だった。黒髪の綺麗なストレートで色が白く、かぶっている大きな花飾りのついたガーリーな帽子がよく似合っている。

 さらに驚いたのは、彼女が5歳くらいの子供を連れていたことだ。とてもこんな子がいるようには見えない。目のクリクリした利発そうな子で、買ってもらったチョコアイスを口元にベッタリつけて食べながらこちらを見上げるのがかわいい。

「リオン、よかったね、このお姉さんの子供が、この乳母車使ってくれるって。ね、嬉しいね」

 黒崎は子供にそう笑いかけてから、私を見る。虹彩の色が日本人には珍しいほど薄く、それが触ったら壊れそうなほどに繊細な印象をあたえる。

「あの、座ってください。よかったらぜひ、韮澤さんに使って欲しいです。ご予定日はいつなんですか?」

「ありがとうございます、来月なんです。でも、本当にいいんですか?」

 友美は改めて乳母車を見る。

 夫が興奮しただけあって、一目で高そうだなとわかるデザインだった。素材も作りもほんとうにしっかりしているしセンスもいい。黒崎さんが使い方について説明してくれたが、扱いも簡単で便利そうだった。

 中古はどうもな、と思っていた友美もすぐに心変わりしてしまう。

 これを持って歩いていたら、この辺りならかなりうらやましがられるだろう。

「あんまり高級なものなので、無料でもらってしまうのは」

「いいえ、いいんですよ。ぜひ、誰かに、韮崎さんに使って欲しいんです」

 友美が遠慮する様子に、黒崎は強く首をふる。そして、乳母車を見てつぶやく。

「うちには、もう必要ないですから」

 その横顔がやけに寂しそうだった。


「なあ、この乳母車にしてよかっただろう?」

 夫は自分のお手柄とでも言わんばかりの笑顔だ。

「うん。確かに、まあ」

 そう答えながら、友美の表情も笑みが溢れている。この頃すっかり日課になった休日の、夫と友美と生まれたばかりのユウタとの、親子3人での散歩中だ。

 さっきもすれ違った知り合いに、乳母車の良さを褒められたところだった。そうやって褒められるのは一度や二度ではない。買い物や友達とのランチでも乳母車を持っていけば皆、目を輝かせて食いついた。褒めてくれないちょっと距離のあるママ友でも、逆に妬ましく思ってチラチラ見てくるのがわかる。

 そうやって人に羨ましがられて過ごすのは、普通の家庭の平凡は主婦として暮らす友美にはなかなかないことで、夫と一緒になんだかセレブにでもなったような誇らしげな気分を味わっているのだった。

 それもこれもこの乳母車のおかげだと思うと、高級品というのは本当にすごい。

 ただ一つ、この乳母車は高級品なのに、走らせるとタイヤがかすかに軋むような音を立てる。夫は気づかないというし、知り合いにわかるような目立つ違和感でもないのだが、一人で静かな路地などを押していると確かに聞こえる。

 一定のリズムで、まるで何かを歌っているような。

 それが最初からずっと気になっていたのだが、ユウタは平気そうで、それどころかこの乳母車に乗っているととてもおとなしく気持ちよさそうなので、友美も最近はむしろいいのかなと思い始めている。そんな程度の音だった。


「あ、黒崎さん」

 池の脇の遊歩道を散歩中に立ち止まって、友美が夫と一緒に水筒の水を飲んでいると、少し離れた後方に見覚えのある帽子の子供連れの女性の姿が見えた。

 友美にはなんとなく、向こうもこちらに気づいていてしばらく見ていたのではないか、というような気がしたが、声をかけてこなかったのは遠慮したからだろうか?

「あ、韮崎さん、お久しぶりです。早速使ってくれているんですね」

 黒崎は線の細い顔に笑みを浮かべてこちらにやってきた。相手の若さと美人さに、夫が戸惑っているのがわかり脇腹を小突く。

「ほら、この乳母車を譲ってくれた黒崎さん。ちゃんとお礼言ってね。リオンくん、だよね。久しぶり」

 黒崎と手を繋いだリオンは友美が笑いかけるのをキョトンと見ている。夫が妙にオドオドしながら声をうわずらせているのが鬱陶しい。この人は美人相手にはすぐこういうふうになる。黒崎は夫を軽くあしらうと、乳母車に近づいて覗き込んだ。

「わあ、かわいい。男の子ですよね、何くん、ですか?」

「ユウタです。この乳母車、本当にありがとうございました。ものが良いからみんなに褒められるし、何しろユウタが気に入って。これに乗ると本当におとなしいんですよ」

「そうですか。ユウタくん、気に入ってくれてよかった」

 黒崎が笑顔でじっと見つめるのを、目を覚ましたユウタが見つめ返している。

「あ、珍しい。普段は乳母車乗っちゃうと寝てることが多いんですけどね。なんか揺られるのが気持ちいいのか。起きたみたいね」

「私が来たから、かしらね」

「え?」

 黒崎はリオンを乳母車に寄せると、二人でユウタを覗きこんでいる。リオンが差し出した指をユウタが小さい手で掴む。

 その距離感がなんだか近すぎるような居心地の悪さを友美は感じる。初めて会ったはずなのに、ユウタの目線が二人を、特に黒崎を認めてわかっているように感じるのだ。

 ぞくり、と理由もなく友美の背中が震える。

 黒崎が唇だけで何かをつぶやいた。

「※※※」

 気味が悪くなって友美が声をかけようとした瞬間、黒崎が立ち上がった。

「どうもありがとうございました。お邪魔しちゃって」

「いえいえ」

 なんだか妙な気配に呑まれ言葉のでない友美の代わりに夫が締まりのない笑顔でぺこぺこ頭を下げる。リオンの手を引いて歩き出した黒崎が振り返り、こちらを、ユウタを見て手を振って言った。

「またね」


 ちょっとした違和感を感じたものの、説明できるような具体的なものではなかったので、友美はそれからも乳母車を使い続けた。

 夫が喜んでいたのもあるけれど、乗っているユウタが気に入っていたからだ。

 子育てで一番苦労するのは夜泣きだと聞いていたけれど本当にそうで、ユウタも突然目を覚まし泣き出すことが多かった。お乳やおしめの世話だけではない、理由のわからないグズリをあやすのは大変だった。ほとんど眠れていない体で飛び起きて、抱いてゆらしながら声をかけてもなかなかおさまってくれない。夫が協力してくれないというわけではないのだが、夫のあやし方ではいつまでたっても泣き止まないので結局友美が起きて抱っこすることになる。

 そんな中、昼間乳母車に乗っている時にはよく眠ることを思いだし、夜にぐずり出した時にも乗せてみると、どういうわけか泣き止んでおとなしくなった。

 それからは部屋のなかでも、厚めのクッション材を敷いた上を乳母車にユウタ乗せてコロコロと往復させるようになった。ユウタは乳母車の上ですぐに静かになり、じっと何かに思いを寄せるような表情をしたあと、ぐっすりと眠ってくれるのだった。

 友美はずっと気になっているかすかな軋みをくらい部屋で聞きながら、言いようのない不穏さを感じるのだが、それでもユウタが寝てくれることを優先して、その乳母車を押し続けた。

 

 黒崎とはそれからも度々外で顔を合わせた。

 頻度こそ高くないが、出会う時には必ず友美が相手に気づいた。買い物に出かけたスーパーの通路の角や、定期検診の病院の待合室。親戚に会うために遠出した電車の乗り換え駅で。

 友美が必ず乳母車にユウタを乗せている時で、少し離れた遠くに立っている黒崎に気づくのだ。

 友美は、自分が気づいて声を掛けるまで、相手がこちらをじっと見ているのではないかと感じていた。もし友美が気づかなければ、黒崎はそのまま友美のことを見続けているのではないか、とも。

 声を掛けると黒崎は笑顔で近づいてきて、そしてユウタのことを覗き込む。

 ユウタの方も、黒崎を見ると自然な笑顔を浮かべる。そして黒崎は友美とは上の空のような会話をしながら、リオンとユウタと3人でじっと見つめ合っている。

 友美は外出すると黒崎の視線を感じ姿を探すようになってしまった。歩いている時に急に後ろが気になり振りかえって、夫に不審がられるほどだ。 

 もちろん常に黒崎がいるわけではない。出会う頻度が高くなっているわけでもない。探そうが探すまいが、一定の割合で出会うだけで、言ってみればただ生活圏がかぶっていて偶然会うだけだ。しかし、友美にはそうは思えなかった。

 相手はこちらを見ている。

 どう言う理由か知らないが、乳母車をあげただけのこちらを過剰に気にして、執着している。

 夫に一度話かけたがまるで取り合ってくれず、逆にこちらを育児ノイローゼ扱いし始めたのでやめた。友美は自分でもややおかしいかもとは思っていたから。

 普通はそんなわけはないのだから。


 裕太が生まれて1年が経とうとしていた。

 一時期に比べれば友美の体調も精神状態もだいぶ良くなった。ユウタの夜泣きの頻度も減ったし、ぐずったときには乳母車に乗せればいいと言う対処法も覚えて楽になった。ようやく夜、数時間でもぐっすり眠ることができるようになって、体調も戻ってきていた。

「韮澤さん」

 急に声をかけられて友美は飛び上がる。真っ昼間、絵本を借りにきた図書館の日差しあふれる入口で、絵に描いたようなのどかな景色を前に、寒気で首筋が逆立った。

 前とは別だが同じように大きな花飾りのついた帽子を被った、黒髪の女性。

「く、黒崎さん」

「驚かせてしまってごめんなさい。姿を見かけたものだから」

 油断していた、と友美は思った。最近見かけなかったからすっかり安心してしまっていた。この人のことは自分の気にしすぎだったんだ、と思おうとしていたのに。

 そんな友美をよそに黒崎は遠慮も見せずに乳母車に近づき体を曲げてユウタを覗き込む。近すぎる、と友美は思った。

「大きくなったわねえ、本当にかわいいわ。もう一歳よね?」

「はい、もうそろそろ。あれ、そういえば今日はリオンくんは?お友達と一緒ですか?」

 バウワウと声になりそうでならない言葉をユウタが発している。黒崎はそんなユウタに笑顔を向けたまま答える。

「ああ、リオンはもういないの」

「え?」

「夫が連れて出て行ったから」

「あ、ごめんなさい」

「ねえ、それより、言葉はもう話せるの?何か言ったかしら?」

 なんでもないというように答える黒崎の様子に飲まれ友美は、この人はやはりおかしいと思いながら返事を返していた。

「あ、まだなんですよ。もうちょっとだねって夫と話しているんですけど」

「そうかしら?ね、何か喋りそうよ。ほら。そう思ったから声をかけたんだもの」

「はい?」

「ね、そろそろでしょ?ほら?」

 黒崎が差し出す指を掴んだユウタは、アウアウとうめいたあと、黒崎をみながら言った。

「マア、マ」

「よくできました」

 どこまでも優しい、それでいて壊れてしまったような満面の笑みを黒崎は浮かべている。

「え?あの、ちょっと」

「ごめんなさい、私用事があって」

 黒崎は友美の困惑を無視して立ち上がり、ユウタに向かって手を振る。

「またね」

 そして唇だけで付け足した。

「※※※」


 それから黒崎ははっきりと友美につきまとうようになった。

 離婚してリオンとも今は一緒ではないというのは本当なのだろう、姿を見せる黒崎はいつも一人だった。友美は黒崎を避けるよう行動パターンを変えるのだが、すぐに見つけられてしまう。

 明らかに普通ではない執着だった。

 しかし出先で一人でいる時に、相手を無視したり近づかないようキレてみせたりすることは思ったよりも難しかった。

 相手は美人で、見た目も態度も普通なのだ。そして付きまとうといってもあくまで日常生活の範囲内で出会っているにすぎない。店や公共の空間で出会う黒崎に声を荒げては、こちらが過剰反応をしているおかしな人間に見られてしまう。

 それに友美は相手が本当におかしいと思いたくなかった。そう思ってしまうと、きっと恐怖に押しつぶされてしまう。だからこちらもやんわりと、迷惑だということが伝わるように態度に出してみるが、それは黒崎には通じなかった。

 今日は会いませんようにと祈るように外出し、出会ってしまった黒崎がユウタに近づき、頬をなで、声をかける様子を不穏な思いで見つめる日々だった。


 半年ほどたったある日、立ち寄ったパン屋で若いカップルに声をかけられた。

「この乳母車いいですよね」

 その反応にすっかり慣れていた友美は笑顔で会釈を返す。

「僕たちもこれにしようかなって思ってるんですねよ。このあたりで見かけるのは二人目です」

「そうそう、3年前くらいかな、見たの」

 ふと、気になって友美は尋ねる。

「あの、それって帽子を被った黒髪の?」

「ええ、そうです。すごく若い美人の方で」

「もう、美人に弱いんだから」

 笑い合っているカップルは、それ以上詳しく黒崎のことを知っているわけではないようだった。

 そうか、近所に住んでいるわけだから、こっちが黒崎のことを調べることもできるんだ。どうしてそういう考えに至らなかったんだろう、と思いながら、友美には気になったことが別にあった。

 3年前にこの乳母車を使っている黒崎を見た、と今のカップルは言っていた。友美が譲ってもらったのが1年半前だから、さらに1年半前。最初にあったときのリオンくんが5歳くらいだと思うから3歳半くらいか。

 おかしくはないのだけれど。

 何かが気になって、家に帰った友美は乳母車のモデルについて調べてみた。あまり機械が得意ではないため、型番や形式の表示を探すのに苦労しながらどうにか見つけ、メーカーの販売サイトで検索する。

 ヒットした製品をみてみると、それは4年前に発売されたものだった。

 気になる。

 あの時リオンくんは確かに5歳はいっていたと思う。4歳だったとしても今5歳半。1年や2年でわざわざ新しいモデルに買い替えるだろうか?経済的に余裕があれば不思議ではないのかもしれない。使い勝手や用途別で何台も持っていただけかもしれない。

 ただ。

 黒崎の行動や執着から、友美には別の疑念がわいていた。

 この乳母車を使っていたのは、別の子なのではないだろうか?


 ユウタの夜泣きが再発した。2歳を前に、以前よりもひどいくらいだ。

 理由はおそらく、乳母車を使うのをやめたことにある。

 友美はこの半年ほど黒崎について調べていた。近所だとは言っても収入や生活圏に大きな格差のあるいわゆる「山の手」に当たる地域の住人だった黒崎とは、元々の行動範囲があまりに違っていて、身近で訪ねても驚くほど知っている人がいなかった。

 ママ友のさらに友達や、無理して通よいはじめた地元のブランド化粧品店の販売員、高級食材を扱うセレクトショップでできた知り合いなどから、ようやくあつめた情報はやはり、というか不気味なものだった。

 黒崎にはリオンの下に、生きていれば今4歳半になる子供がいたらしい。

 当時は弁護士をしている夫と黒崎、リオンと下の子の4人で外出する姿をよく見かけたそうだ。その子供が乗っていたのが、譲り受けた乳母車に間違いなようだった。

 その子が急な病で突然に亡くなって、黒崎は大きなショックを受けたようだ。夫が介抱するように寄り添いながら憔悴した様子で外を歩く姿は見ていられないほどだったという。それから回復して落ち着いたかと思われたのが2年ほど前、つまり、友美が乳母車を譲り受けた時期だ。

 その後再び悪化したようで夫と喧嘩し、別れたのが1年前。それから友美とユウタに付きまとうようになった。

 夫との喧嘩の理由は、黒崎の亡くなった下の子への執着にあるようで、理解できない夫と決定的な溝が生まれたらしい。

 一番ゾッとしたのは、その下の子の名前。

「シオン」

 それを国産無農薬レモンを手にしたセレクトショップの店員の口から聞いた時、友美の脳裏に浮かんだのは唇の動きだけでユウタに話しかける黒崎の姿。

「※※※」

 間違いなく、彼女はユウタに「シオン」と呼びかけていた。

 それでこの一週間、友美はユウタを乳母車に乗せるのをやめたのだ。絶対に何かがおかしいと分かったから。

 しかし、すぐにユウタのグズリが始まった。理由もなく駄々をこね、嫌がり、泣きじゃくる。いや、理由はある。乳母車に乗せてとせがむのだ。はっきりした言葉ではなくても、態度でそうわかる。友美はさらに怖くなって、絶対にユウタを乳母車に近づけなかった。

「いいだろう、乗せてやれば!これ以上泣き喚かすほうがかわいそうじゃないか!」

 ろくに眠れずにいる夫がヒステリックに叫ぶ。説明してもどうせ分かってもらえないと思って、夫には何も言っていなかった。

「いいから黙ってて。乳母車に乗せすぎたのよ、子供は親に抱かれて安心しないとちゃんと育たないの。泣き止むからって何かに預けちゃダメなのよ!」

 いつまでもやまないユウタの鳴き声を聞きながら、友美は必死に戦っていた。黒崎から守ろうとして必死だった。


「最近使ってくれてないじゃない」

 坂道の途中に血走った目の黒崎が立っていた。綺麗な顔に浮かんだ笑顔は異様に強張っていて、笑えない人が無理矢理筋肉を動かしたかのように不気味だった。

 ぐずっているユウタを、抱っこヒモで胸に抱いた私は心底疲れ果てており、相手をする気にもなれず横を通りすぎようとする。怖さよりも面倒臭さがまさっていた。

「ちょっと、無視すんなよ」

 乱暴に肩を掴まれる。

「使うって言うからあげたんだ。返せよ。じゃあ返せよ」

 揺さぶってくる手をもぎ離し、友美は数歩距離を空けて黒崎に向き直る。

「ふざけんな。もらったもんどうしようがこっちの勝手だろ。気味の悪いもんよこしやがって。気持ち悪いんだよ、二度とつきまとうな!」

 溜まっていた怒りをぶつけるように自然に声が大きくなる。

「さっさと消えろ!殺すぞ!」

 思い切り叫んだ友美は黒崎の様子がおかしいのに気づく。目を見開いて、まるで愛おしいものをみるようにこちらを見ている。

 友美は慌ててユウタを両手で抱きしめる。

「これはあんたの子じゃない!私のユウタだ!!」

「ああ」

 黒崎が両手をこちらに差し伸べる。

「シオン」

 友美がユウタをみると、泣き止んでいた。そして首を回して、黒崎の方をじっと見つめていた。

「マーマ」

「シオン!!」

 駆け寄ってくる黒崎を、友美は思い切り突き飛ばした。そしてユウタを抱え走り出す。

「ふざけんな・・・ふざけんな・・・ふざけんな・・・」

 涙が止まらなかった。


 家に帰ると友美は高熱を出した。

 慌てて帰ってきた夫が看病してくれたが下がらず、救急車を呼ぶことになった。

「ユウタを、ユウタ。ユウタを」

「大丈夫だから、友美。大丈夫だから」

「ユウタ、ユウタが」

 子供の名をうわごとのようにつぶやいて、友美は意識を失った。

 目を覚ますと病院のベッドだった。腕に痛みを感じ見ると点滴が左腕に刺さっている。熱は下がったようだ。

 隣には夫が赤い目をしてスチールの丸椅子にすわりこちらを見ている。

 「ユウタは?」

 友美が聞くと、夫は「ちょっとぐずってたから看護婦さんに預けた」と言った。

 友美は点滴を抜くと立ち上がり素足のまま急いで病室をでる。慌てて追ってくる夫に、誰に預けたのか聞く声が大きくなる。

 「おい、まだ寝てろって。あの人だよ、あのポニーテールの」

 友美はツカツカと近づき「あの、私の子供どこですか」と威圧するように尋ねる。

 「え?あの」

 「この人が預けた子供です。2歳の、ユウタ」

 「え?あの子、お母さんが来て連れてきましたよ」

 夫の顔が青くなる。友美は怒りと悲しみで涙が溢れそうになるのを必死に抑える。

 「は?バカな。母はこいつで」

 「だって、子供もママって言って、懐いていましたから」

  悪気もなさそうな看護婦に睨み殺すような一瞥だけ残し、友美は走り出した。

 「あの子、シオンくんって言うんじゃないんですか?」

  看護婦の不思議そうな声が聞こえた。


  裸足で飛び出してきた友美に驚いているタクシーの窓を叩いて、ドアを開けさせる。飛び乗ると、追ってきた夫を制して、

 「あなたは警察に通報して。病院にも、子供が誘拐されたって伝えて」

 「ああ、お前はどこに」

 「家!」

 タクシーのアクリル板を叩いて「出して!」と走らせると、友美は自宅の住所を伝えた。

 祈るように時間が過ぎた。確信はなかったが、きっと家には寄っているはずだ。なぜなら、家にはあの『乳母車』があるから。

 到着したタクシーに、金をとってくると言って待たせ、マンションに飛び込む。階段を駆け上がり三階へ向かう。足の裏が裂け、肺が破けそうなほど全力で走る。

 自宅の玄関が開いていた。

 ゆっくりと中へ入る。

 玄関やリビングの灯りはついていなかったが、奥から光が漏れていた。子供部屋だ。そして微かに、歌うような、ささやくような女の声がする。

 まるで見知らぬ空間になってしまった自分の家に、友美は足音を殺して入っていく。傷口が開き真っ赤な跡を残していくが痛みを感じている余裕はなかった。

 部屋に近づくと、耳馴染みのある軋みの音が聞こえてきた。開いた引き戸の間から中を覗き込む。

 黒崎が、乳母車にユウタを乗せて、部屋をぐるぐると回っていた。幸せそうな笑みを浮かべ、にっこりと笑いかけながら。

「シオン、もう少しだからね。もう少しで全部、お前のところに戻るから。この中は気持ちいいでしょう?ママと過ごした幸せな時間が、いっぱい詰まってるでしょ?ね、ゆっくりお眠り。もう少しだから。もう少し」

 ユウタは気持ち良さそうにすやすやと眠っていた。ここ最近見せたことのない穏やかな顔で。

「キイイイイイイイイイイいいいいいいいいいい!!!!!」

 それからのことは友美は断片的にしか覚えていない。

 奇声を上げて飛び込んで、黒崎に襲いかかっていた。取っ組み合いのやりとりをして、馬乗りになって相手の首を絞めているところを警察に取り押さえられた。「殺してやる、殺してやる」と叫んでいる姿を、近所の人や伺いにきたタクシー運転手に見られていたのはなんとなく覚えている。


 結局、友美たちは引っ越した。友美の実家のそばで、夫もギリギリ通勤できる別の県に。さすがに夫も反対しなかった。

 黒崎は捕まったが、誘拐といっても短時間で衝動的なものとみなされたし、普段の行動が病的だったので精神虚弱を理由に起訴すらされなかった。だから友美から距離を取るしかなかったのだ。

 まだ黒崎が留置場にいる間に、逃げるように引越の準備を終えたマンション前。荷物を積んだワンボックスカーには、見守りにきてくれた友美の母が、チャイルドシートに載せたユウタの横に乗っている。

 友美はあの乳母車を前に立っていた。

 隣には夫がなんとも言えない顔で立っている。友美が手を差し出すと、ため息をつきながら持っていたものを渡す。

 このためだけに買った、大型のスレッジハンマー。

 友美は思い切りそれをふりあげると、力一杯振り下ろした。

「クソッタレー!!!」

 叫びながら乳母車に叩きつける。ドイツ製だけあってなかなか頑丈だが、その分友美の怒りを吸収してくれた。何度も何度も、腕が上がらなくなるまでハンマーを振り下ろした頃には、乳母車は跡形もなく粉々になっていた。

「ふう、ふう、あとよろしく」

 友美は息を荒くしてアスファルトの上にしゃがみ込んだ。これでも気持ちが収まるわけではないが、元凶がバラバラのグシャグシャになったのを見るのは気持ちがいい。

 残骸を夫がビニールに片付けているのを見ていると、持ち上げた破片から車輪が一つ、落ちて友美の足元に転がってきた。

「!」

 友美はそれを手にとって睨みつける。車輪の横に、いく筋もの溝が刻まれていた。年輪のような。レコードのような。

 これが軋みの原因だろう、と友美は直感的に思った。

 きっと黒崎は何かの手段で、思い出が染み込んだ乳母車から、その溜まった情念のようなものを、乗った相手に染み込ませるまじないのようなものを行なったんだろう。

 軋みにしか聞こえない呪文に包まれているうちに、この乳母車が経験したいくつもの思いを自分のものにさせれてしまう。子供であれば、きっとそれは自分の根っこを変えられてしまうような呪いなのだ。

 シオンが経験した黒崎からの愛を無条件に受けつづければ、シオンのようになってもおかしくはない。

 頭を振って友美は立ち上がり、夫の持つ袋に車輪を投げ捨てる。

 もう終わったことだ。

 車に乗って走り出しぼんやりと道路を眺めているうちに、不意に訪れた思いに背骨が冷たくなって、友美は思いきり体を震わせた。

「寒い?」

「ん、大丈夫」

 それは、そう言えばさっき見た車輪の溝、指紋に似てるな、という考えだった。


 20年後。

 あれからはまあ、何事もなくと言ってよいくらいには無事に過ぎ、友美はあの乳母車のことを思い出すこともなくなっていた。

 一人息子のユウタも当時のことは覚えていないようだ。あの時はまだ2歳だったが、もう大学を卒業、就職し、今年の頭から家を出て東京で一人暮らしを始めた。

 夫は相変わらずだが、事件以降夫婦というのとは別の、相棒のような感覚が生まれて、それはそれでなんとなく上手く行っている。

 ある日曜に、友美は久しぶりに友人仲間と東京で夕食を取ることになり、ふと思ってユウタに声をかけると、時間があるから会えるよ、と言われたので、食事会の前に会うことになった。

 行きたいと思っていたカフェでの待ち合わせに現れたユウタは、ほんの数ヶ月会っていないだけなのに見違えるように垢抜けていた。髪型も服も大人っぽくなって、もう子供じゃないんだな、と改めて思わされる。

「あの、さ。今ちょっと付き合ってる人がいて」

 挨拶もそこそこにユウタが切り出した。ははん、妙にオシャレだと思ったらそういうことか。と友美は腑に落ちる。男も女も、付き合う相手でガラッとわかるものだ。

「で、母さんが来るって言ったら挨拶したいっていうんだけど。俺、僕も、その、かなり真剣に付き合ってはいてさ」

「もちろんよ。嬉しい」

「よかった、じゃあ呼ぶね」

 ユウタがスマホで声をかけると、カフェの入り口で待っていたらしい女性が近づいてきた。笑顔で迎えようとしていた友美の表情が、次第に消えていく。

 幅広のツバの帽子に、大きな花飾りが付いている。肩の下まで伸びるまっすぐな黒髪が歩くたびに揺れている。

 あんぐりと口を開けた友美の前に女が立った。

「よろしくお願いします」

 彼女が帽子を外すと、満面の笑顔が見えた。黒崎だった。

「母さん、彼女、黒崎アケミさん」

 友美は言葉が出なかった。どう反応していいかわからない。

 黒崎はユウタに促され、隣の席に腰を下ろす。

 あの時から若かったけれど、20年。確かに年をとったのだろうが、30代半ばにしかみえなかった。そして、美人には磨きがかかっていた。

 この時を待っていたのだろうか。

 ユウタが友美の手から離れるこの時を。そのために美しさを磨き抜いていたのだろうか。

「ちょっと年上だけど、真剣に付き合ってるんだ。結婚も考えてる」

 息子のセリフに、友美の詰まった喉はさらに閉まる。息をするのも苦しくて、肘掛けを掴んで必死に力を入れる。

「そうなんです。いきなりのことでお母様は不安かもしれませんが、私たち、真剣に愛し合ってます」

 そして黒崎がユウタを見つめて、あの時と変わらない愛に満ちた目で見つめて言った。

「ね、シオン」

「うん。かあさん、シオンって俺のこと。なんだか、そう呼ばれるとしっくりくるんだよね」

 友美に向かってユウタが笑いかける。

「なんか昔から、俺、シオンだったような気がするんだ」

 ああ。

 もう、どうしていいか友美にはわからない。視界がぼんやりとして、周りの音が遠のいていく。そんな友美の耳に、あの、懐かしい軋みがきこえたような気がした。

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乳母車譲ります 相草河月太 @tukita-ai

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