第2話 仲直りのキスがしたい

「ただいま」

 誰もいないとわかってはいるけれど、真っ暗な家の中に向かって声を掛ける。

 だって、ここがわたしの帰るべき場所だから。


 パチンとリビングの電気を点けると、ローテーブルの上に見慣れない物を見つけた。

 なんだろう、と近づいてみて、ハッと息を呑む。

 手のひらサイズのガラスドームの中に、真っ赤なバラが一輪。バラの周囲は、ゴールドとシルバーのリボンで飾り付けられている。

「うわぁ、かわいい」

 手に取って、照明にかざして見る。

 多分、プリザーブドフラワーというやつだ。

 わたしがあまりにズボラで、生花のお世話すらまともにできないっていうことを知っているから。


 それから、封筒に入った手紙も添えられていた。

 封筒から便箋を取り出してそっと開く。

 さっと一読すると、もう一度最初からゆっくりと読み直す。

 多分、昨日ケンカをする前に用意してくれていたのだろう。

 この一年間の思い。そして、これからのこと。

『これからも、末永くよろしくね』

 その一文で締めくくられた手紙を、ぎゅっと胸に抱きしめる。

 今すぐ一颯に会いたい。

 会って、ぎゅっと抱きしめたい。

 わたしも、ずっとずっとよろしくねって伝えたい。


 そのとき、電話の着信音が、室内に冷たく響いた。

 誰だろう? 知らない番号だ。

 普段なら絶対にスルーするはずなのに、なんだか胸騒ぎがして、おそるおそるスマホを手に取った。

「……はい」

『沢田一颯さんの奥様でいらっしゃいますか?』

「はい。そうですけど」

 男性の淡々とした声に、若干戸惑いながらも、そう答える。

『ご主人が、坂江町の交差点で事故に遭われました。我々救急隊が到着したときにはまだ意識がしっかりしていたので奥様の連絡先を預かったのですが、先ほどからこちらの呼びかけに応答がなくなりました。今、搬送先の病院を探していて、決定次第救急搬送します——』

 頭の中が真っ白になる。


 一颯が……事故?

 どうして坂江町の交差点なんかに?


 最寄り駅を挟んで、自宅とは真逆の方向だ。

 幸いすぐに決まった搬送先の病院名を、手に持っていた封筒の端に震える手で書きつけると、カバンを手に、よろよろと玄関へ歩いていく。


 応答がなくなったって、いわゆる意識不明の重体ってこと?

 ケガって、そんなにひどいの? 助かるの?

 もしもこのまま話すこともできずにお別れのときが来てしまったら、あの会話が最後ってこと……?


 嫌だ。無理。そんなの耐えられない。

 ううん、きっと大丈夫だよ。だって、救急隊が来るまでは意識だってはっきりしていたんでしょ?

 一颯が死んじゃうなんて、そんなこと、絶対にありえないよ。


 がくがく震える膝に喝を入れると、脱いだばかりの靴をもう一度履く。

 気ばかり焦ってなかなか鍵穴に入ってくれない鍵をなんとかかけると、わたしは大通りでタクシーを拾った。



***



 時間外窓口で沢田一颯の名前を告げると、すぐに案内された。

「ここでお待ちください」

 扉の上には、『手術中』の赤いランプが煌々と灯っている。

 通路脇に置かれた長椅子に腰を下ろすと、ぎゅっと両手を握り締める。

 なにかを考えようとするとどうしても悪い方にばかり考えてしまいそうで、ぐちゃぐちゃな心のまま、ただ呆然と扉を見つめ続けることしかできなかった。


 どれくらいそうしていただろう。

 手術中のランプが消え、扉が開くと、わたしは反射的に立ち上がった。

 ストレッチャーに乗せられた一颯が出てきて、わたしの目の前を通過していく。

「沢田一颯さんの奥様ですね」

「……はい」

 ぼーっとしたまま彼を見送っていると、手術を担当したとみられる医師に声を掛けられ、わたしは小さくうなずいた。

「あのっ、一颯は助かった……ってことですよね?」

「最善は尽くしました。が、事故で頭を強く打たれたようなので、後遺症の有無に関しては、現時点ではなんとも言えません。今は、とにかくご主人の目覚めを待ちましょう」

「はい……わかりました。ありがとうございました」



 その後、ICUに運ばれた一颯の元へ行くと、心電図のモニターや点滴のチューブ、酸素マスクが装着された状態で、ベッドに静かに横たわっていた。

 医療ドラマなんかじゃない。これは、現実なんだ。

 心電図モニターで、一颯の心臓が規則的に動いていることが目視できる。

 一颯はちゃんと生きてここにいる。それだけが、心の支えだった。


 一颯の目覚めに立ち会いたくて、一颯の左手をずっと握り締めたまま、気付けば夜明けを迎えていた。

 まだ一颯の意識が戻る気配はない。

「……会社に連絡してこなくっちゃ。ごめんね、一颯。すぐ戻るからね」

 後ろ髪を引かれる思いでICUを出ると、わたしは待合室へと向かった。


 一颯の事故のこと。それから、今日は一颯に付き添うためにお休みしたい旨を電話で伝えた。

『そう……大変だったわね。こっちのことは大丈夫だから、心配しないで。気をしっかり持ってね、朱音さん』

 電話口の主任が元気づけるようにそう言ってくれて、思わず涙が出そうになった。



 一颯の元に戻る途中、看護師さんに声を掛けられた。

「沢田さんの奥様ですね」

「はい。そうですけど」

「今、ご主人のお荷物の確認をお願いしてもよろしいですか?」

 事故後、一緒にここまで運んでくれていたらしい。

「わかりました」

 こくりとうなずいて、看護師さんの後について、別室へと歩いていく。


「こちら、沢田一颯さんのもので、お間違いないですね?」

「はい。夫の……鞄に間違いないです」

 鞄に残された生々しい事故の跡に、思わず目をそらしたくなる。


 この鞄は、結婚する前にわたしが誕生日プレゼントとして一颯にあげたものだ。

 いまだに大切に使ってくれているのは嬉しいのだけど、持ち手のところがすでにボロボロになっている。

「そろそろ買い替えたら?」と何度か言ったのだけど、「いやこれ、使い勝手が良すぎてさ。別の候補がなかなか見つからないんだよね」と言っていたっけ。

 そんなことを言っていないで、早く別のを買えばいいのにって思っていたのだけれど。そんなに気に入ってくれているのなら、また同じものをプレゼントしよう。

 だって、こんなになってしまった鞄では、さすがに仕事には行けないから。

 ちゃんと新しいものを用意してあげなくちゃ。


「では、なにかありましたら、お声掛けくださいね」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

 看護師さんに会釈してから、もう一度一颯の荷物の方を見た。


 ……これだ。間違いない。一颯が、最寄り駅から家とは反対方向に行った理由。

 わたしの大好きな洋菓子店、ブラン・エ・ノワールのケーキの箱が、ぐちゃっとひしゃげている。

 結婚記念日の日、レストランで食事をしたあとに、ちょっと寄り道をして、ここのケーキを買って帰ろうねって約束をしていたから。

「なんで……一人で行かないでよっ……一緒に行くのを楽しみにしていたのに……」

 両手で顔を覆ってしゃがみ込むと、わたしはずっと我慢していた嗚咽を漏らした。


 わたしがちゃんと今朝仲直りをしていれば、きっとこんなことにはならなかった。

 きっと一颯が一人でケーキを買いに行くことはなかったに違いない。

 わたしのせいだ。わたしのせいで一颯がこんなことに……。

 ごめんね、一颯。本当にごめんなさい。

 お願い、戻ってきて。ねえ、ちゃんとごめんなさいって言うから。

 仲直り、ちゃんとするから。だから、ねえ、戻ってきてよ。


 一颯の元に戻ってからも、罪悪感にがんじがらめになったまま、わたしは両手で一颯の左手をずっと握り続けた。



『朱音』

 ハッと顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべて一颯が立っていた。

 だけど、なにかがおかしい。

 なんだか向こう側が透けてしまいそうなほど、一颯の姿が儚く見える。

 これは……夢?


『昨日はごめん。朱音の気持ちをないがしろにするような言い方をして』

「ううん! わたしの方こそ。わたし、一颯が今大変だってこと、なにひとつ知らなくて……」

『いや。隠してたのは、俺だから。こんなことを言っても、きっと朱音を心配させるだけだからって。俺一人でなんとかすればいいって思って、愚痴のひとつも朱音の前ではこぼせなかった。なに格好つけてたんだろうな、俺。笑っちゃうよな。……俺たち、夫婦なのに』

「わたしも、ちゃんと一颯の話を聞こうともせず、自分の感情をぶつけただけだった。本当に、ごめんなさい」

『今はこんなに素直に言い合えるのに。なんで昨日はあんなふうになっちゃったんだろうな、俺たち』

「きっと、お互い余裕がなかったんだね」

『ああ。そうかもしれないな』

「これからは、そういうときこそ、ちゃんと話そ? わたしも、ちゃんと聞くから。だから、仲直りしよ? わたしね、おじいちゃんとおばあちゃんになるまで一颯とずっとずっと一緒にいて、楽しいことも苦しいことも、二人で分かち合いたいの。だから……仲直りのキス、しよ?」

 すがるように言うわたしのことを、一颯が黙ったまま愛おしげに見つめてくる。

『……ごめん。そろそろ行かないと』

「行くって、どこに? ねえ、待ってよ、一颯。ねえ、わたしを一人にしないで!」

 必死な呼びかけも虚しく、儚げだった一颯の姿は徐々に薄れていき、最後には小さな光の粒子となって、宙に消えた。



 ハッと顔を上げると、ピッ、ピッ、ピッ、ピッと相変わらず一颯の心電図モニターは規則正しく波形を描き続けている。


 本当に、夢……だったんだ。

 お別れを言いにきたのかと思った。

 よかった……。


 ぎゅっと握り締めた一颯の左手に自分の額を当て、大きなため息を吐いたそのとき、今までなんの反応もなかった一颯の左手が、ぴくりと動いたような気がした。


 え……?


 慌てて一颯の顔を覗き込むと、ゆっくりと一颯の目が開く。

「一颯?……一颯! わたしだよ? わかる?」

 一颯が微かにうなずく。

 うまく動かせないのか、もどかしそうにしながら自分の右手を顔の方へゆっくりと近づけていくと、一颯が酸素マスクを外した。

「朱音。……仲直りのキス……して」

「え、ちょ……なに言ってるの? そんなこと……」

 目覚めの第一声がそれ⁉

 だいたい、こんなところで、そんなこと、できるわけないじゃない。

「だって……先にしたい……って言ったの……君でしょ?」

 そう言って、一颯が笑みを浮かべる。

 そういう不意打ち、反則だよっ……!

 他になにも考えられなくなって、わたしは本能の赴くままに彼の方へと身を乗り出すと、そっと唇を重ねた。


「おかえり、一颯」

「ただいま……朱音」




(了)

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仲直りのキスをしよう 西出あや @24aya

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