仲直りのキスをしよう

西出あや

第1話 結婚記念日なのに

『ケンカをしたら、翌朝キスをして仲直りすること』

 これは一年前、わたしたちが結婚するときに二人で決めた、たったひとつのルールだった。

 こんなにも簡単なルールなのに。

 それでも、どうしても守れないときだってあるじゃない?


 これは、そんなわたしたち二人の物語——。



***



「はあ⁉ どういうこと⁉」

 定時ちょうどに仕事を切り上げたわたしは、誰もいないロッカールームで沢田さわだ一颯いぶき——わたしの夫からのメッセージを確認し、思わず大きな声を上げた。

 何ヶ月も前に予約したときからずっとずっと楽しみで、昨晩なんか、なかなか寝付けなかったというのに。

 ……そっか。一颯は、わたしと同じ気持ちではいてくれなかったんだ。

 ドタキャンされたという事実よりも、そのことの方が悲しくて、思わず涙が込み上げてくる。


「結婚式のときはあんまり食べられなかったから、お料理楽しみだね」

「帰りに、駅の向こうのブラン・エ・ノワールでケーキ買って帰ろ」


 はしゃいでいたのは、わたしだけだったんだ。

 ロッカーから荷物を取り出し、パタンと力なく扉を閉めると、わたしはそのままロッカーの扉に頭を預けた。


 一年前の今日、わたしたちはごく親しい友人のみを招いて、幸せいっぱいのレストランウエディングをした。

 そのレストランで、毎年お祝いしようって最初に言ってくれたのは一颯だったはずなのに。


『どうしても外せない仕事が入ったから、また今度仕切り直させて』

『レストランのキャンセルは、俺の方でしておいたから』

『あと、夕飯も食べて帰るから。ほんと、ごめん』


 メッセージの送信時刻は16:35。

 当日の、それもこんな時間に言ってくるなんて。

 もっと早くわからなかったの?

 絶対に明日じゃダメな仕事なの?

 初めての結婚記念日は、一度しかないんだよ?

 言いたいことはたくさんあるけれど、到底返信する気になれず、わたしは重い足を引きずるようにしてそのまま会社を出た。



***



 ガチャガチャッ。

 玄関で鍵の開く音がして、ソファに体を預けたままゆっくりとリビングの掛け時計を見上げる。

 時刻は、午後11時を少し回ったところ。


 カチャッと小さな音がして、リビングのドアが開く。

「ただいま。朱音あかね、遅くなってごめん」

「……」

 一颯の声がしたけれど、返事もせず、クッションを抱きしめる腕にぎゅっと力を込める。

「朱音? ひょっとして寝てる?」

 そう言いながら、一颯が近づいてくる足音がする。

「なんだ、起きてるなら返事くらい——」

「お酒臭い! 近付かないで!」

 わたしの顔を覗き込もうとする一颯に大声を上げると、一颯がビクッと一歩後ずさりする。

「ごめん」

「……ねえ、仕事だって言ってたよね? なんでお酒なんか飲んでるの?」

「まあ、仕事っていうか……後輩の愚痴を聞いてやってたんだよ」

 一颯がぼそぼそと言い訳するかのように言う。

「後輩って、男? まさか、女じゃないよね?」

「どっちだってそんなこと関係ないだろ」

 怒りに任せてわたしが言葉を投げつけると、小さなため息とともに、珍しく少し苛ついた口調で一颯が言い返してくる。


 ため息? ねえ、わたし、ため息を吐かれるようなこと言った?


「わたしよりも……大切な人なんだ」

 怒りに声が震える。

「そんなこと……比べるようなもんじゃないだろ」

「ああ、そう……わかったよ。もういい!」

 これ以上一颯と同じ空間にいたら、きっと泣いてしまう。

 一颯の方を一度も見ずにリビングを乱暴な足取りで出ると、わたしは寝室のベッドに潜り込んだ。

 次から次へと涙が溢れ、顔を押し付けた枕を濡らしていく。

 なんなの? せっかくの結婚記念日なのに、なんでケンカなんかしてるんだろ、わたしたち……。

 胸が押しつぶされたかのように苦しくて、もうなにも考えられない。


 そのまま気付いたら朝を迎えていて、珍しく目覚まし時計よりも早く目が覚めた。

 隣のベッドから、すーすーと一颯の平和そうな寝息が聞こえてくる。

 それがまたわたしの怒りを一気に再燃させる。

 同じ空気を吸っているのも嫌で、わたしはささっと身支度を整えると、朝食もとらずに家を出た。


 とてもじゃないけれど、あの仲直りのルールを守る気にはなれなかった。

 それどころか、一颯と顔を合わせたら、きっとまた嫌味を言ってしまう。

 そんな自分すら嫌で仕方なくて、わたしはひたすら現実から目をそらそうとした。



 いつもより空いた通勤電車に揺られ、会社の最寄り駅のひとつ手前の駅で降りると、駅前の喫茶店の扉の前に迷わず立った。

 ダークブラウンの扉を開けると、カランコロンとドアベルの優しい音色が耳に届くとともに、ふわりとコーヒーの香りに全身が包み込まれる。苦みの中に、甘みも感じる。

 店内をぐるりと見回すと、まだ7時を過ぎたばかりだというのに、8割方席は埋まっていた。会社員というより、近所の老夫婦といった風貌のお客さんが多くを占めているようだ。

「お好きなお席へどうぞ」

 ベージュ色のコックシャツに黒いミドル丈のエプロンをつけた店員さんに声を掛けられ、窓際の小さな一人用の丸テーブルの席へと腰を下ろす。

 テーブルの上には、ラミネート加工されたモーニングのメニュー表が置かれていて、さっそく目が釘付けになった。

 昨晩はなにも喉を通らなかったけれど、さすがに空腹を感じる。


「お待たせしました」

 分厚い玉子焼きの挟まった玉子サンドに、サラダとスープ付き。

「ごゆっくりどうぞ」

 持ち手付きのカップに入ったコンソメスープを一口口に含むと、ゆっくり飲み下す。空っぽの胃袋に、じんわりと染みわたる。

 続いて大口を開けて玉子サンドにかぶりつくと、たまご焼きの甘めの優しい味に、思わず笑みがこぼれ、無意識のうちにふっと顔を上げていた。


 だけど、目の前にいて欲しいと願う人は、そこにはいない。

 そっか。わたしたち、まだケンカ中だったっけ。

 自分の無意識の行動をなんとなく気恥ずかしく思いつつ、そのまま周囲をちらりと見回すと、一番人気のモーニングメニューなのか、ほとんどの人がわたしと同じものを頼んでいるようだった。

 今度、一颯と一緒にまた来ようかな。

 ……って、まだ仲直りするって決めたわけじゃないけど。

 隣の席の白髪交じりの老夫婦が、楽しげに談笑している。

 結婚一年目でこんな状態のわたしたちが、こんなふうに一緒に歳を重ねたりできるのだろうか。

 普段ならなにも感じずに素通りするはずの他人のありふれた日常のひとコマが、なんだか自分には永遠に手に入らないほど幸福に満ちたもののように思えた。



***



「ねえ、聞いた? 営業一課、また休職者が出たって」

「ああ、あの例のクラッシャーがいる部署?」

 昼休み、トイレの個室の中まで噂話が聞こえてくる。

 声から察するに、わたしの所属する経理部のお隣の総務部の子たちに違いない。

「そうそう。去年あんなことがあったじゃん? だから、沢田さんがまた同じことが起こる前にって、無理せず休むように説得したらしいよ」

 突然聞こえた一颯の名前に、ドクンと心臓がおかしな動きをする。

 ひょっとして、昨日のドタキャンって、それが理由だったってこと?


『去年のあんなこと』——社内の人なら、誰でも知っている。

 あの悲劇を繰り返さないようにと、企業内カウンセラーが置かれることになり、ある一定の残業時間を超えると、カウンセリングを受けることが義務付けられた。

 まあ、カウンセリングを回避するために、残業時間を調整して虚偽の申告をする事例が後を絶たず、逆効果だという話もあるのだけれど。

 もちろん長時間労働だけじゃなく、営業一課にいるという噂の『クラッシャー』のように、パワハラやモラハラで部下や後輩を精神的に追い詰める人間がいること自体がすでに問題なのだと思うが。


 そっか。一颯、後輩が苦しい思いをしているのに、気付いてあげたんだ。

 だけど、そんな大事なことなら、ちゃんと言ってくれればよかったのに。

 ちゃんと言ってくれていたら、わたしだってあんな言い方しなくて済んだのに。


「でもさ、それじゃあ、今度は沢田さんがヤバくない?」

「でしょ? わたしもそれ思ったー。あの人、穏やかで人当たりいいし、普段は敵を作らないタイプだから、そういうパワハラ上司のことも、なんとな~くうまくかわすのが上手だって話だけどさ。ターゲットにされたら、さすがにヤバいよね。沢田さんが病んだら、『一課の終わり』だってみんな言ってるらしいよ」

「ちょっとお、なに『うまいこと言った』みたいな顔してんのよ。っていうか、それがわかってるなら、クラッシャー異動させればいいのに。人事部長、なにやってんの? ちゃんと仕事してる?」

「クラッシャーだけど営業成績は断トツだから、そうもいかないみたいなんだよねー。そこが会社の難しいところ」

「うわぁ。それじゃ奥さんの朱音さんも、気が気じゃないだろうね」


 こんな大事なこと、なんでわたしだけが知らないんだろう。

 夫婦なのに。夫婦のはずなのに。

 ドクンドクンと大きく打ちはじめた心臓の鼓動が全然収まってくれない。



***



 同期入社の一颯との出会いは、新人研修のときだった。

 たまたま同じ班になったわたしたちは、名刺交換の仕方や電話の取り方などの社会人としての基本的なマナーから、会社の扱う商品知識まで、様々な研修を一緒に受けた。

 ノリのいい社員が多く、なかなかついていけないわたしの隣で、いつも穏やかに微笑んでわたしに安心をくれていたのが一颯だった。


 そんな彼の穏やかさは結婚したあとも変わらず、彼が本気で怒ったところを、わたしはまだ一度も見たことがないかもしれない。

 そんな彼が昨日、一瞬だけど、初めて怒りの感情をわたしに見せたのだ。

 なのに、わたしは気付けなかった。

 いや、気付かないどころか、それに対してさらに腹を立ててしまった。


 ああ、なにをやっていたんだろう。

 一颯が怒りを露わにするくらい大変な状況だということに、どうして気付けなかったのだろう。

 自分の仕事をこなしつつ、心を病んだ後輩のために行動し、パワハラ上司にも対応して。

 そんなの、絶対大変に決まってるじゃない。


 ……このままじゃ嫌だ。帰ったら、もう一度ちゃんと話そう。彼の話を聞こう。

 そして、絶対に仲直りしよう。

 一颯の好物を作って、一緒に結婚記念日のお祝いもやり直そう。

 それで、来年も再来年も一緒に記念日を祝うの。

 ケンカしたら、ちゃんと話し合って、仲直りのキスをして。

 それで、お互い白髪のおじいちゃんとおばあちゃんになるまで一緒にいるの。

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