第4話 諧謔曲 | スケルツォ

 地方への出張の帰り、会社に戻るのが面倒で自宅に直帰にした。

いつもより早い時間に最寄駅に着いて、時計を見るとまだ十九時だった。


(寝る時間まで、あと四時間以上あるなあ)


 ふと空を見上げると、雲はほとんどなくて月が綺麗に見えている。

 雨の一粒も降る気配はないけれど、このまま一人であの部屋に帰る気にはなれなかった。


(晴れた日に行くのは初めてかもしれないけど……行ってみようかな)


 駅前の横断歩道を渡って、ビルの地下階段を下り、いつもとは少し雰囲気の違うALONEアローンの扉を開いた。


「いらっしゃいま……あ! 琴子ちゃん、今日は晴れてたのに珍しいね」

「マスター、こんばんは。出張帰りで時間が早かったから、つい寄っちゃった。晴れた日ってこんなにお客さんいるんですね」


 いつも閑散としている店内には、カウンターだけでなくテーブル席にまでお客さんがたくさん入っている。いつもはソロでピアノを演奏している大樹さんも、今日はバンドを従えて聴き慣れないおしゃれなジャズを奏でていた。

 私はカウンターの端っこに座り、隣の席に荷物を置いた。


(大樹さん、まるで別人みたい……)


 いつもは穏やかで心に染みるような音を出す大樹さんが、頭や足を動かして楽しそうにリズムを刻んでいる。


 初めて見る大樹さんの一面、初めて見る盛況のALONEアローン


 これだけの音や人の声に溢れているのに、私はなぜかまた、無音空間に閉じ込められたような気持ちになった。


 そこにあったはずの自分の居場所が、突然奪われたような感覚。

 それは、祐介から別れを告げられたあの時の指先から血の気が引いていく感覚と似ていて、私は急に呼吸が苦しくなった。


「マスター、なんだか出張で疲れたみたい。お店も混んでて忙しそうだし、今日は帰りますね」

「ありゃ、それは残念じゃねえ。琴子ちゃん顔色も悪いし、ゆっくり休みんさいね。今日はこのあと、をテーマにしたピアノメドレーをやるんよ。また今度来た時に大樹にリクエストしてみて」

「うん、ありがとう。また来ます」


 店を飛び出して階段を地上まで駆け上がり、自分のワンルームマンションに向かって歩き出す。


 勝手にALONEアローンを自分の居場所のように感じていた。美しい音に溢れたあの空間も大樹さんのピアノも、自分だけのためにあるものだと錯覚していた。

 一体いつから私は、こんなに他人に依存する欲張りな人間になってしまったんだろう。


 あの日、大樹さんの奏でる『雨だれ』が私の心の傷に静かに染み込んで、満たしてくれて。与えられることが当然だという気持ちになっていた。

 見知らぬ土地に独り放り出された私に神様が与えてくれた、プレゼントなんだと思っていた。


(結局私は、全部人に頼っていたんだな……)


 祐介の姿が、ふと頭に浮かぶ。

 東京に引っ越してきても、祐介が私を支えてくれるから大丈夫だろうと期待していた。

別れたあとに狭くて音のない家に閉じ込められているのも、すべて浮気した祐介のせいだと心の中で彼を責めていた。

 私が勝手に祐介を生きる軸に置いたくせに、その軸がブレたら祐介のせいにして拗ねていた。


 その上、今だって。

 PIANO BAR ALONEにお客さんがたくさんいることにショックを受けて、いつもとは違うジャズを奏でる大樹さんに、勝手に怒りを覚えている。


(私って、なんて自分勝手なんだろ)


 自分の未熟さに気付いて、おかしくもないのに苦笑がもれる。幹線道路を横切る歩道橋の上で手すりに手をかけたまま、足元を通り過ぎていくトラックや車の光をぼんやりと目で追った。


 もっと自立しなければ。

 元々は祐介と一緒に住むために上京したけれど、せっかく来たなら東京の生活も、新しい仕事も、楽しんでやってみたらいいんだ。

 無音空間が嫌なら引っ越せばいい。やってみてダメなら、名古屋に帰ったっていい。


 自分の生き方は自分で決めて、誰かのせいにするのはもうやめる。


 私の人生は私のもの。

 私の過去も現在も、そして未来も、守ってあげられるのは私しかいないんだから。


 よし! と気合いを入れて、私は歩道橋を自分の家に向かって歩き始める。

 すると、歩道橋の端に誰かが立っているのが目に入った。しばらく私のほうを見つめていたその人は、何かに気が付いたように歩き始める。真っすぐに私に向かって来るその人の顔には、見覚えがあった。


 ――祐介だった。

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2024年12月12日 22:00

雨音はプレリュード 秦 朱音 Ι はたあかね @書籍発売中! @akane_mura

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