第3話 夜想曲 | ノクターン

 半年前に上京してくる前、私は名古屋で働いていた。

 学生時代から付き合っていた曽根そね祐介ゆうすけとは、上京前に一年間ほど遠距離恋愛が続いていた。遠距離になってからは会う頻度が減ってしまったけれど、八年近くも一緒に過ごした二人の時間は何物にも代えがたい大切なものだった。


 東京と名古屋という物理的な距離はあっても、私たちの関係が崩れることはないと信じていた。


 彼からプロポーズを受け、私は勤め先の会社の東京本社への異動願を出した。何カ月も待ったところでようやく東京でのポジションが空いて異動できることになり、都内で彼と一緒に住む部屋も探した。


 生まれた時から名古屋を一歩も出たことのなかった私にとって、東京での新生活は今までにない大きなチャレンジだった。それでも、祐介と一緒に過ごす週末を想像しただけで、全てが上手くいくような気がしていた。


 名古屋での仕事の引継ぎを終えた私は、新幹線に乗り込み、彼にチャットメッセージを送る。


『二十時過ぎにはそっちの最寄駅に着くと思います。スーツケース重い!』


 私のそのメッセージに、彼からの返信は来なかった。


 最寄駅に到着して、彼に電話しても繋がらない。仕方なく私は重いスーツケースを一人でガラガラと押しながら、二人で借りた新居に向かった。


 彼が私を裏切ったということを知ったのは、そのたった二日後のことだった。

 新居にいるはずの祐介は、どこにもいなかった。

 何度もかけ続けてやっと繋がった電話の向こうで、祐介は力なく言ったのだ。


琴子ことこといると、いつも俺が責められているような気分になる。これからずっと一緒に住むと思うと、不安になった」


 プロポーズをしてくれたのは、ほんの半年前なのに。

 祐介が、東京に付いて来てくれって言ったのに。

 なぜ突然、私から離れるの?

 この新居だって、つい先月一緒に契約したばかりでしょ?


 頭の中が疑問符だらけで、私は電話ごしに声を荒らげた。


「どうして? 結婚しようって言ったのは祐介ゆうすけだよ?」

「……そういうところだよ。気に入らないことはなんでも俺のせいにするじゃないか。確かに一度は琴子と結婚しようと思ったよ。だって八年間も一緒にいたし。でも、やっぱり耐えられない。このまま別れて欲しい」


 実家を離れて一人で上京し、初めての土地で初めての仕事。祐介がいるから東京でも頑張れる。そう思っていたのに。

 結婚を控えて幸せだった日々が、突然のように崩れた。



「そんなことがあったんかあ……。琴子ちゃんも苦労しとるんじゃねえ」

「そうなんですよ。新居を勝手に解約されて、急いで一人暮らし用のワンルームマンションを探して引っ越ししました。とにかく急いでたから、幹線道路のど真ん前の、空気の悪い狭小ワンルームですよ」


 あの台風の夜以来、私はPIANOピアノ BARバー ALONEアローンの常連客になった。雨が降った日は大樹さんの『雨だれ』が聴きたくなって、会社帰りに店に寄ることにしている。


 雨の日は、ALONEアローンにはお客さんがほとんどいない。大樹さんのピアノは、私がいつも独り占めだ。


「それにしても、なんでその彼氏は突然別れて欲しいなんて言い出したんかねえ」

「ああ、それはもちろん浮気です。彼が務める会社で同じ部署にいた若い社員の子と付き合うことになったんですって」

「ええっ! それは酷すぎるじゃろ! それにしても、琴子ちゃんはなんでその男が浮気してるって分かったん?」


 マスターはカウンターの上を拳でトントンと叩きながら、悔しそうな顔をした。


 半年前にはとてもじゃないけど、祐介の浮気のことなんて他人に話せなかった私も、今はこうしてマスターにペラペラと祐介とのことを話している。


 私の心の傷は、いつの間にか他人に話せる程度には回復したみたいだ。

 乾いてひび割れた心にポタンと雨粒が落ちて、少しずつ染み込んでいく。

 そんな風にして、私の壊れた心もゆっくりと満たされていくのかもしれない。


「実は、一度直接、彼に会ったんですよ。家具とか貯金とか、そういうのをどうするかっていう話のために。で、彼がお手洗いに立った瞬間、スマホをこっそり見てやりました」

「琴子ちゃん! やるねえ。彼のスマホ、なんか情報あったん?」

「私に別れ話をした日、浮気相手に対して、『今、別れ話終わった。詳しくは夜話す』って早速メッセージ送ってました。それを見て、私ったらもう完全に絶望しちゃって。私と住むはずだった新居には戻らず、ずっとその浮気相手の家に転がり込んでいたみたい。さすがにショックが大きくて、そのまま何も言わず、お金だけ置いて店を出たんです」


 祐介とは、それ以来一度も会っていない。


 無音の空間で暮らす私と、若い恋人が待つ家に帰る祐介。


 私たちは、すっかり別の世界の人間になってしまった。

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