第2話 変奏曲 | パルティータ
「いらっしゃいませ、初めての方?」
ピアノバーの店舗の扉を開けると、マスターらしき男性が明るく声をかけてきた。
台風が接近しているこんな日に、わざわざピアノバーを訪れるような客は少ないのだろう。店内はガラガラで、スローテンポでジャズを奏でるピアニストの背中だけがゆらゆらと動いている。
「ええっと、はい。初めてです」
「初めてのお客さんはね、必ず僕の目の前に座ってもらうようにしとるんですよ」
少し地方なまりのあるマスターからカウンター席の中央の椅子に座るように促され、私は言われた通りに席に着いた。雨に濡れたスカートの裾が、冷房の風でひんやりと足にまとわりつく。
カバンからハンカチを出して腕を拭いていると、黒髪でくせ毛のピアニストと一瞬目が合った。もしゃもしゃ髪で隠れて顔はよく見えないけれど、まだ若そうな男性ピアニストだ。
「お客さん、注文はどうされるん?」
「……ごめんなさい、私こういうところに来るのは初めてで、何をどう頼んだらいいかよく分からなくて」
「ほうね。普段、お酒は何を飲むん?」
親し気に方言で喋るマスターが、カウンターに両肘をついてニコニコと私を見ている。こういう態度で接してくれると、こちらも気を遣わずに済むからとても楽だ。
初めて会う人だし、もうこの店に来ることもないだろうし。
そう考えると、自分を取り繕わずになんでも喋ってしまえ! という気持ちになった。
「普段は、ビールを六缶セットで買って飲んでますね。一人暮らしだけど」
「おお、やるねえ。ビールが好きなんじゃね」
「はい。仕事が休みの日は、朝から一人でプシュッと開けて飲んでます。今日は何本までいけるかなって、いつも試してるんですよ」
「豪快じゃ。アルコールは強めでもいけそうじゃね。甘くないやつがええかもしれん」
「甘くてもいいけど、スッキリしたのが好きかな。ちなみにビールは最高で四本しか無理でした。途中で酔っ払って寝ちゃうから」
「休日くらい、好きに過ごしたらええんよ」
「ですよね。ワンルームの、あのしーんとした感じがすごく嫌で。酔っ払って寝たら静寂から逃げられるから、ついいつも飲んじゃうんです」
一体私は、初対面の人に何を重い話をしてるんだろう。マスターは、私のお酒の注文を聞きたいだけなのに。
でも、あからさまに情緒不安定な私のような客を目の前にしても、マスターは表情一つ変えず、大らかな笑顔のままだった。
「オーケー。今日はこんなジメジメした天気じゃけえ、さっぱりスッキリのお酒を準備するわ。ちょっとだけ待っといてね」
マスターが奥に引っ込む。
隣の椅子の上に置いたカバンからスマートフォンを取り出そうとすると、その椅子の背もたれに細くて長い指をした手が乗せられた。見上げると、そこには先ほどの黒髪くせ毛ピアニストが立っていた。
「何か聴きたい曲あります? 今日はお客さん一人だから、リクエストに応じてなんでも弾きますよ」
ジャズの音色が止まった薄暗い店内は、私の嫌いな無音空間に変わっていた。
(曲なんてなんでもいいから、早く弾いて欲しい)
そう口から出かかったけれど、さすがに失礼だと思って言葉を飲み込んだ。
「……すみません、私ジャズにはあまり詳しくないんです」
「ジャズじゃなくてもいいですよ。例えば、何かテーマとか言ってもらってもいいし」
「テーマ? 例えば?」
「そうだなあ……例えば今日なら、雨とか」
(雨、か……)
しとしとと降る日も土砂降りの日も、私のワンルームマンションには雨音一つ響かない。満員電車に傘を持って乗るのも、こうして体が雨で濡れるのも好きじゃないのに、あの無音の空間のことを思い浮かべると、雨音さえも愛しく思えてくる。
「雨……聴きたいです。雨の曲、弾いてください」
「かしこまりました」
ピアニストさんは首だけでペコリとお辞儀をして、グランドピアノの前に戻っていく。
両手をふんわりと鍵盤の上に乗せ、一度天井を見上げて大きく息を吸う。そして、まるで鍵盤に雨粒がポタリと落ちるようにそっと触れ、メロディが響き始める。
滑らかな旋律の向こう側に、雨粒のような断続的な音が連なって鍵盤に降り続けている。
「雨が歌っているみたい……」
「ショパンの『雨だれのプレリュード』よ。良い曲じゃねえ」
ピアノに聴き惚れていた私の横で、いつの間にかマスターがカウンターに肘をついてニコニコと微笑んでいる。
「今日みたいな台風の雨には合わんけどね。どちらかというと今日の雨は、ベートーベンの『テンペスト』っていうところかねえ」
「テンペスト?」
「そうそう。テンペストもぶち格好ええんよ。今度
マスターはそう言って、私に軽くウィンクをした。
黒髪くせ毛のピアニストさんは、
バーの中に降る穏やかで静かな雨音に、私はグラスを持っていることも忘れて夢中になっていた。
―――
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