女王の帰還

岸洲駿太

女王の帰還

 インド・パキスタンの分離独立が決まった年、僕は彼女と出会った。


 後から思うとそれは幸運とは言い難い、心の傷と深い哀しみにつけ込むような形であったのだけれど、僕は彼女との関係を「大人たち」が眉をひそめるような早さで深めた。


 それでも、彼女が彼女の王国について話してくれたのはつい最近、色々な事情から林檎の木で作られた衣装箪笥のある田舎の古い屋敷に住み始めてからだった。


 僕よりも少し年下の彼女は戦時中、この屋敷に疎開して兄弟妹たちと過ごした。

 それは失われてしまった多くのことの中でも特に深いところにあって、初めは彼女自身にとってもそれを思い出しているのか、新たに創造しているのかわからないようだった。


 今の自由主義みたいね、と彼女はいたずらな顔をして言った。僕が短い復学期間の中で見聞きして、議論して、そして今は目を背けていることを彼女は時々話題にする。


これは僕らの一種の倒錯かもしれない。


 僕が彼女の過去を探りたくなって、ドキドキしながら彼女の古傷に触れるとき、彼女も僕の戦時中や復学中のことを仄めかす。


 僕も人のことを言えないけれど、彼女は学徒としては酷く未熟だった。戦争で失われたものを取り戻そうとして焦って、単語の意味もわからないまま思想を先鋭化させて、結局は運動の中で孤立していた。


──精神を病んでいるんじゃないか?


 友人達は思想の左右を問わず心配し、彼女のいないところで僕へ「治療ケア」について忠告した。そのたびにそれらしいことを返しながら、僕は心に汚泥をこびりつかせた。


 確かに僕は彼女の隣にいてよく行動を共にしていたが、僕らは主人と従者ではない。たとえ彼女の心が本当に壊れてしまっていたとしても、彼女の心をどうこうする権利は彼女にしか無いはずだ。


僕らはファシズムに勝ったんじゃないのか?


 この国ではまだ配給が続いている。

 図鑑にも載っていないような南アフリカの魚の缶詰を食べ終えたあと、僕は彼女がぽつりぽつりと語る王国の物語を書き留める。


 それはアカデミーで高尚とされた話題──植民地の今後や、ヒロシマの新型爆弾、アメリカとソヴェトの優劣──よりもずっと血の通っていることのように思えた。


時にはそれを田舎道を散歩しながら聞いた。


 遺産や恩給を食いつぶして暮らす僕らを働き者の農夫達が冷ややかな目で見ることもあったけれど、最近はそうでもない。


たぶん、彼女の新しい魅力のためだろう。


 ロンドンにいた頃の彼女はとにかくせわしなくて、まるでその場に踏みとどまるために全力疾走しているみたいだったのだけれど、お屋敷に移り住んで物語を話してくれるようになってからはすっかり穏やかになり、ただ挨拶をするだけで出会う人を笑顔にするような魅力を湛えるようになった。

 泣きわめく赤ん坊も言い争う酔っぱらい達も、彼女が現れると借りてきた猫のようにおとなしくなった。


 きっと、事故で家族を失う前、僕と出会う前の、兄弟妹たちと王国に君臨していた時もこんなふうだったのだろう。


 そんな彼女の一面に触れて、君がかわりに戴冠したらどうだい?なんて、女王即位のラジオを聞きながら冗談を言ったこともあった。そうすると彼女は困った顔で、自分のアクセサリーひとつ自由にできない女王様にはなりたくないわと答えた。


 僕は自由主義について「良心と理性によって言動する」ことだと信じていて、きっと彼女もそうだったと思う。


 もしも、イギリスがより洗練された自由主義の国であったら、王室もより開かれたものになって、例え王や女王、その配偶者や子どもたちが間違えたり騙されたりして責任を忘れ自分の思うままに言動したとしても、国民はそれに右往左往することなく、良心と理性をもって受け止めることができるようになるだろう。


 田舎道にライオンが現れたのは、たまたま僕が話し手にまわり、そんな講釈を垂れていた時だった。


 当然、僕は獣の出現に身構えてどうにかして逃げる方法を考えたのだけれど、彼女はそうではなかった。


 彼女は大きな立髪を風になびかせたライオンに丁寧な挨拶をすると、彼の問いに応えてイギリスのものでは無い国の法律について話始めた。


 僕は呆然としてしまいその詳細で複雑な問答を書き留めることはできなかったのだけれど、それは大まかに言って罪と許しに関する問答だった。


 問答、そう、ライオンは確かに彼女と会話していた。彼女の永久に失われたはずの王国の物語のように。


僕は本当に彼女に向き合っていただろうか。


 結局のところ、僕は彼女の王国について聞く時、英国にいてインドやパレスチナ、あるいは次の世界大戦の話をする時よりもさらに無責任な立場にあった。


 彼女が最近とくに自問していた、その王国の滅亡やそれに彼女が立ち会えなかった理由についても、それほど真剣に考えなかった。


 彼女の王国はすでに僕らから切り離された世界なのだと、そう思っていた。


 そしてライオンが現れて、彼女は答えを得たようだった。ライオンは朝霧の最も濃くなる頃、本当に最後の機会が訪れると言って夜の帳の向こうへ消えた。


 夕食を終えた後、彼女はすぐに眠った。ライオンに会う前、彼女と僕が近所の人たちに分けてもらった食材で一緒に作ったお菓子を僕はひとりで食べた。


 そのお菓子がなんだったかは忘れてしまった。口に入れるものがプリンでもターキッシュ・デライトでも構わない、そんな気分だったから。


 深夜、ひとりスコップを手にして玄関から出た僕の前にライオンは現れた。


 出来すぎた話だが、彼はそういう存在だと聞いていたからこそ、僕は彼が現れることを確信して前線にいた時のようにスコップを持って扉を開けたのだから、それは不期遭遇戦ではなく決闘というべきだった。


麗しき乙女を巡る決闘!!

……そんなカビ臭くて堂々としたものではなかった。


 どんなに綺麗事を言っても僕は19世紀を引きずった兵役帰りで、心の汚泥を取り除く方法をスコップを持ち出す以外に知らなかったというわけだ。


 ナチスがヨーロッパ全土にやったように、祖国が植民地の運動に対してやってきたように、自発的に行動しようとする彼女を説得するのではなく、その水先案内人を排除することで彼女を引き止めようとした。


 慰めになることがあるとすれば、自分がスコップを使うまでもなく彼に説き伏せられたことだろう。


 彼は彼女から聞いていた通りの良心と理性をもった存在で、感情的になっていた僕との問答に根気よく付き合ってくれた。


 兄弟妹の中で彼女がひとり残されたのは、彼女の責任によることばかりではなかった。


 影から脱し、真なるものになった王国を永遠のものとするには、逆説的ではあるが、それを完成させてはならなかったのだ。


 王国の完成には彼女の完成が必要で、彼女の完成には王国の完成が必要だった。


 まことの国の女王としての彼女は設計上の遊びとして注意深く意図的に除かれた機能であり、基本構造の動作確認が十分に済んだ後、改めて取り付けられる「アクセサリー」だった。


 汚水の中で生きられない魚がいるように、綺麗すぎる清水の中で生きられない魚もいるのだと彼は言った。


 まことの国の為のより古い法に適うように、他より長く影の中に残された時、その魂が清水の清らかさに耐えられなくなるほど汚水に慣れてしまわない者が不可欠だった。


 黙って聞いてりゃ薄汚れた世界、ただ陰鬱になって泥をかけ合いながら沈んでいくことしかできない影の国、と好き放題言ってくれる!


 僕らの世界の歩みは、この国で紡がれてきた歴史は、あの戦争は、間違っていたと言いたいのか!


 彼はその問いには答えず、終わりを見つめなくてはならないと言った。軽薄にも、彼女を失うくらいならば死んだほうがマシだなどと意味の無い軽重を問うて騒ぐ僕を、彼はなおも諭し続けた。


 残された者の苦しみを癒し、自分を見つけ出すのを助ける者が必要だった。油を拭き取るウエスのように、汚れを引き受けてそれをペン先のインクとし、影の中で生き続ける者が。それは生贄の供物などでは無い。


 軍に志願した時、なにも恐れていなかったのは僕が無知だったからで、自分が学校に通っているころを台なしにして何をしようとしているのか、わかっちゃいなかった。

 ソンムやガリポリに行ったおじさんたちの話すアルコール臭い言葉が含んだ影について考えもしなかった。


僕はその時からまるで成長していない。


 ずっと後になってようやく、僕は彼女に救われていたのだと気づいた。戦争が終わって、昔以上に寡黙になって、イデオロギーの中でしか人付き合いができなくなっていた僕の学芸会のような親切を受け入れてくれた彼女。ロンドンで腐りかけていた僕を田舎に連れ出してくれた彼女。地元の人たちと僕を引き合わせてくれた彼女。別れたくなどなかったが、本当におとなになる時が、避けられない終わりとして僕と彼女に迫っていて、出会いから今までのことはモラトリアムでしかなかったと知らされた。


 景色がぼんやりと白み、世界が光と影に分かたれる間際、遠くから角笛が響いて彼女が玄関から出てきた。

 屋敷のどこにあったのか、ひと目で近代織物工業の産物では無いとわかる素朴だが丁寧に作られたドレスを着て、すっかり化粧っ気を無くした幼な子のような顔で、彼女は僕に別れを告げた。


「今までありがとう」

「それが君が着たい服なんだね」

「そうよ、ずっと忘れていたけれど、貴方が思い出させてくれた。さようなら、ジャック。貴方もきっと大丈夫よ!」


 ライオンではない姿に変わった彼が、蘇った女王のつゆ払いに去り、問答という名の僕への治療ケアは打ち切られた。


 彼女の足取りを止めることのできない僕はスコップを手放して、あるはずもない希望にすがってただ懇願した。


「僕も連れて行ってくれ、スージー!」


その微笑みを僕はいつか忘れるのだろう。


 優しの君は二度と振り返ることなく確かな足取りでもって霧の中へと、大英帝国の歴史から消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女王の帰還 岸洲駿太 @omayhen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る