第41話 誓い

「試合終了ッ! ギルバート・ヘインズは戦闘継続不可能ッ! 勝者は……ダン・ギャラガーッ!」


いったいなにが起きているのかわからなかった。


審判の叫びと観客たちの絶叫は、ここではないどこか遠い世界から聞こえてきた。


人々が熱狂し、歓声と罵声を叫ぶ中で、ギルバートは血塗れになったアンジェラを膝の上で抱きしめて、泣き喚いていた。


「アンジェラッ! アンジェラ……ッ! ああ、なんてことだ。イヤだ。アンジェラ、死んじゃイヤだ!」


髪を振り乱し、涙と鼻水で顔をグシャグシャに歪めながら、ギルバートは淡い燐光を上げていくアンジェラの身体を激しく揺すっていた。


頭の中ではこれまでの一連の流れが、狂ったようにフラッシュバックしていた。


アンジェラと〈隻眼のゴブリン〉の一瞬の交差。


敵の浅い攻撃を避けて、アンジェラの黒い尻尾を槍のごとく突き刺したこと。


勝利を確信し、〈隻眼のゴブリン〉の極上のマナを吸い上げたときの至福の快感。


そして――突然の爆発とアンジェラの墜落。


なにが起こったのかわからなかった。


いや、頭ではわかってはいたが、身体が理解するのを拒んでいた。


ギャラガーが勝った、ダン・ギャラガーが勝った! という悲鳴にも似た歓声がどこかから聞こえてくるが、そんなことはどうでもよかった。


勝敗など、そんなものは始めからどうでもいいことだった。


彼女とひとつの魂になって、この世界に溶け込んでいく。それだけが、ギルバートの人生のすべてだった。


孤独だった。ずっと孤独だった。


それが彼女に出会って、愛を知り、この世界に足を踏み入れたことによって、他の魂と繋がることの喜びを知った。


ギルバートにとって、戦いとは、快楽とは、そういうものだった。


他者との交歓。魂の歓喜。そして彼女の愛の温もり。


それを求めて、これまでずっとやってきたが……。


(その結末がこれか)


アンジェラの血に濡れた己の手を見つめて、ギルバートは絶望した。


覚悟はしていたつもりだった。


自分が気持ちよくなるために、愛する彼女を危険に晒して戦う矛盾については、十分に理解しているつもりだった。それでも、彼女ともっともっと深く繫がりたいという欲望を抑えることができなかった。だからこそ、いざというときの覚悟はしていたつもりだった。


――その結果がこれか。


ワナワナと唇を震わせながら、ギルバートはアンジェラを膝の上に抱いた。アンジェラの身体は人形のように軽かった。まるで中身がスカスカの空洞になっているようだった。


――抜けていく。


彼女の魂。


ギルバートが注いだマナ。


二人でともに過ごした日々の輝き。


それらのすべてが、彼女の身体から抜けていく。


ギルバートにできることはなにもなかった。回復カードはダンとの試合で使い切ってしまっていた。マナはまだ少しだけ残っているが、焼け石に水だった。マスターのマナには少しだけソウルを回復させる効果があるが、アンジェラの傷は致命傷だった。残り滓のような今のギルバートのマナを与えてやったところで、もうどうにもならなかった。


「アンジェラ……」


ワナワナと唇を震わせて、愛する彼女の名を口にした。


すると、彼女はうっすらと目を開けて、口元に微笑みらしきものを浮かべた。


「マス、ター……」


血塗れの手がギルバートの頬に添えられた。子供の頃から何度もギルバートの頭を撫でてくれたその手は温もりを失っていた。死人のような冷たさだった。


その手を温めてやりたくて、ギルバートはアンジェラの手を握った。


ギルバートの膝の上でそっと微笑む彼女の頬に、一滴の涙が落ちた。


一滴こぼれると、もう止まらなかった。


涙は次々と彼女の白い顔に落ちていった。


最後に泣いたのがいつかは覚えていない。父や義母の前でこんなに泣いたことはなかった。


だが、消えていくアンジェラを抱いて、ギルバートは泣いた。母親を失う子供のように泣いた。


――しかし。


ギルバートは子供ではなかった。男だった。


ギルバートは彼女を愛する一人の男であり、ともに生きて、ともに死ぬと覚悟を決めた彼女のマスターだった。


(君一人で行かせはしない)


頭の中にはいつか見た夢、彼女の記憶のことがあった。


果てしなくどこまでも続く荒野と、そこを彷徨うことを課せられた永遠の責め苦。


自分と出会う前の彼女がどうしていたのかは知らない。それはきっと彼女自身もほとんど覚えていないことなのだろう。


だが、ここで彼女が消えてしまえば、彼女がたった一人であの乾いた世界に戻ってしまうことは確かなことだった。


ソウルは死なない。魂の輪廻から外れて、異界に縛り付けられたソウルたちは、この現世で破壊されても、マスターと過ごした記憶を失ってまたもとの世界に戻るだけだ。


しかし、それは彼女にとっては、死よりも辛いことだろう。


それは彼女と同じように、孤独で愛に飢えていた経験を持つギルバートだからこそ、わかることだった。


ギルバートはアンジェラの血に塗れた手の甲で涙を拭った。眦に力を込めて、自身に残された最後のマナを振り絞った。


マナは魂のエネルギーだ。マナ切れの限界を超えてさらに消費すれば、その先に待ち受けているのはウィザードの死だった。


だが、それこそがギルバートの望んでいるものだった。


(君と一緒に消えてしまえば、僕らはひとつの魂になれるのかな)


そんな馬鹿げた考えを、ギルバートはかつて交わした誓いのために実行に移した。


最期の口づけは甘く、切なく――そして激しかった。


弱々しい力でギルバートを押しのけようとしてくるアンジェラだったが、それをギルバートは無理やり押さえ込んだ。


彼女の身体を抱いて、唇を押し付け、自分の限界を超えた量のマナを彼女の中に注ぎ込む。


一瞬、彼女の身体に力が戻った。だが、その力はすぐに淡い燐光となって、彼女の身体から抜けていった。


(まだだ)


舌を噛み切るような覚悟で思った。


――この程度ではまだ死ぬことはできない。


自分の四肢から力が失われていく。何度も意識が遠くなる。呼吸ができなくて、自分がなにをしているのかさえ定かではなくなってくる。


朦朧とした意識の中で、それでもギルバートは彼女に自分の魂を注ぎ込み続けた。


(が……はッ!)


すると、吐血した。ギルバートは臓腑からせり上がってきた真っ赤な血を吐き出した。


咳き込む。目に涙が滲む。呼吸ができない。


血がポタポタとこぼれ落ちた。


口から血を垂れ流しながら、ギルバートはかつて覚えた愛の讃歌を祈るようにつぶやいた。


「……歓喜と歓楽と愉悦と享楽のあるところ。愛の願望の満足せしめられるところ。かしこに、われを不死ならしめよ」


かつて愛というものを知らなかった男は、自身の血とマナを、口移しで愛する女の中に注ぎ込んだ。


すると、その瞬間だった。


ドクン、と彼女の鼓動が高なった。


いや、それは彼女と胸を重ね合わせたギルバートの鼓動だったのだろうか。


身体から力が抜けていく。底知れぬ凶悪な力によって、魂を引き抜かれているようだった。


存在が奪われていく。ギルバート・ヘインズという魂を構成する力が奪われていく。


(これが死、というものか)


死は、ダンとの試合で潜った漆黒の深海とまったく同じ世界だった。


ダンとの試合でも行かなかったほど深いところへ、ギルバートはゆっくりと消えていくアンジェラの魂を抱きしめて、たった一人で沈んでいった。


そこは静かでなにも音がしない世界だった。牢獄のようでもあり、墓地のようでもあった。すべてのものが死に絶えた、静謐で冷たい世界だった。


夜の闇のような漆黒に、ギルバートは沈み、堕ちていった。


深い、深い、闇の世界だった。


潜って、沈んで、堕ちていって――


そして、もうこれ以上は行けない、とギルバートがぼんやりと感じたそのときだった。


――ギルバートはこれまでに一度も聞いたことのない声を聞いた。


(そんなにこの子を救いたいの?)


幼女のようでもあり、娼婦のようでもある声だった。妖艶で無垢で淫らなその声は、どこかアンジェラに似ていた。


――うふッ、と。


その声は嗤ったようだった。


(救ってあげる……)


その瞬間――


深く暗い、闇の世界に、一筋の光が差してきた。


その光に向かって、ギルバートは手を伸ばした……。


「マス、ター……?」


「……アンジェラ?」


気づけば、そこはもとの世界だった。


クリスタル・パレスの試合会場で、無数の人の熱狂の歓声と罵声を浴びつつ、ギルバートはアンジェラを膝の上に抱いていた。


身体には痛みも苦しみもなかった。死ぬつもりで注いだマナはいつのまにか全回復していた。


腕の中のアンジェラを抱き起こしてみれば、彼女の身体の傷はすべて癒えていた。傷跡はひとつもなかった。乾いた血が残っているほかは、いつものように美しい彼女の姿だった。


ギルバートとアンジェラと呆然と視線を交わし合った。


「これはいったい……」


「わたくしにもわかりませんわ……ただ……闇の中でマスターともう一人、誰か知らない人の声を聞いたような……」


どうやら、あの声をアンジェラも聞いたらしい。


ギルバートはなにかに取り憑かれたような、心もとない恐ろしさを感じながら、アンジェラを抱く腕に力を込めた。


と、そのときだった。


「マスター? それはいったい……?」


「えっ?」


アンジェラに言われ、ギルバートは、あの漆黒の深海で光を伸ばしたほうの手が、なにかを握っていることに気がついた。


「これは……シルバーカード?」


ギルバートが握っていたのは、アンジェラのカードだった。


〈愛欲のサキュバス〉は赤銅のブロンズカードだった。それがいつのまにか、白銀の光を放つシルバーカードに変化していた。


(ランクアップ……したのか?)


自分の手にあるその白銀のカードをギルバートはじっと見つめた。


ほとんどすべてのソウルは自分の名前や生前の記憶を失って、異界を彷徨っている。だが、マスターのマナを供給され、現世における様々な刺激を受けることによって、彼らはかつての名前や記憶、能力を取り戻していく。


それがソウルのレベルアップであり、ランクアップだ。


見たところ、アンジェラがなにかの記憶を取り戻した様子はなかったが、彼女から感じられる力は以前とは比べ物にならないほど大きくなっていた。


魔術回路から流れてくる彼女のその力の凄まじさに、ドクンとギルバートの下腹部が疼いた。


(く……ッ!)


いつもならばその興奮に悦ぶギルバートだったが、しかし、今このときばかりは違った。


(どうしようもなく罪深い)


その自覚が、あった。


自分がこれまで進んできた道は、血塗れの道だった。アンジェラの血に塗れた道だ。今まで自分が溺れていた快楽がどれほど身勝手で、残酷で、矛盾に満ちたものであったのか、あらためてギルバートは自覚させられていた。


快楽を得るためには戦わなければならない。だが戦えば戦うほど、アンジェラは傷ついていく。


覚悟はしていたつもりだった。その矛盾も受け入れていたつもりだった。


だが先程、アンジェラが消えてしまいそうになったとき、ギルバートは絶望した。死んでも彼女と離れたくないと思ってしまった。


彼女を愛していた。彼女と別れることなど、考えられなかった。


しかし、それでも――


ギルバートはこの道の先にイキたかった。


彼女と繋がる快楽に溺れていた。


ギルバートは彼女と一緒に潜った、あの漆黒の海に溺れていた。


普通の人々が暮らす陸の上にはもう戻れなかった。


罪深かった。本当に、どうしようもなく罪深かった。


それを自覚しつつも、ギルバートは彼女を強く抱きしめられずにはいられなかった。


ギルバートは腕の中に彼女の柔らかな身体を感じながら、己の欲望を懺悔の涙とともに打ち明けた。


「ごめん、アンジェラ……僕は……僕は、イキたい。この道をイッて、絶頂へと上り詰めたい」


――それでたとえ君の魂が滅ぶことになろうとも。


悪魔の告白だった。己の下賤な欲望のために愛する者の魂を生贄にするそれは、悪魔の言葉だった。


しかし――


悪魔の告白を受けたのは、天使だった。


天使アンジェラの名を持つ銀髪のサキュバスは、悪魔の告白を慈悲深い微笑とともに受け入れた。


「……大丈夫ですわ」


ふっ、と――


彼女の胸は、初めて出会ったあの日と同じようにギルバートを包み込んだ。


「わたくしもマスターと繋がるのが大好きですのよ? それに、わたくしはあなたのソウルですから。なにがあっても、一緒にいますから」


――それが、わたくしを救ってくれたあなたへの誓いです。


そう言って、赤い瞳でこちらを見てくる彼女だった。


ギルバートはアンジェラを見た。


アンジェラはギルバートを見た。


ふたつの魂はゆっくりと近づき、そして重なり合った。


悪魔と天使の口づけは、愛と欲望の誓いとともに交わされた。


唇に柔らかく湿った彼女の感触を感じながら、ギルバートは再びあの深い海に潜って……堕ちていった。


満たされることのない欲望。


果てなき絶頂と堕落。


悪魔と天使の誓い。


ギルバート・ヘインズは潜っていく、あるいは堕ちていく。


最愛のサキュバスとともに深い海をどこまでもどこまでも。


それこそが、ギルバート・ヘインズの海だった。


歓声と罵声とともに押し寄せてくる人の群れをすり抜けて、ダンは試合会場を抜け出していた。


クリスタル・パレスの敷地には多種多様な施設や庭園があったが、ギルバートとの試合を終えたダンがやってきたのは、豊かな木々に囲まれた庭園だった。


ダンの他に人の気配はなかった。周囲の木々は沈黙に包まれていた。


試合のあいだずっと吹き荒れていた嵐はいつのまにか過ぎ去っていた。木々のあいだに見える水晶の宮殿は、雲の切れ間から差す光の柱に包まれていた。


それはまるで天から地上に伸びた梯子のようだった。


――天使の階段。


昔どこかで聞いたその言葉を、ダンは苦いものとともに思い出した。


これまでずっと自分を支えてくれた魂が、天使の階段を上って、高い空を飛んでいくところを想像してしまっていた。


そうすると、少し熱いものがこみ上げてきたが、涙を流すようなみっともない真似はしなかった。


〈赤毛〉のダン・ギャラガーは弱虫ではなかった。馬鹿で頑固なアイルランド人だった。


己の魂を生贄に捧げて、今よりももっと高い空に上ることを決意した男がすべきことは、そんな女々しい行為ではなかった。


シャツの中に手を入れて、煙草の箱を取り出す。


一本取り出し、マッチで火をつけた。


紫煙を深々と吸って、ゆっくりと吐き出した。


天使の階段と紫煙が重なって、揺蕩うような光の波になった。


その光に向かって、声には出さずにつぶやいた。


(あばよ、相棒。また会おう)


――今度会うときは、もっと高い空の上で。


馬鹿で頑固なアイルランド人は自身のソウルにそう誓ったのだった。


「やれやれ、ようやくお目覚めになられましたか」


その老人は、暗雲の切れ間から差し込む光に照らされながら、クリスタル・パレスの屋根の上に立っていた。


雨はもう降っていなかったが、嵐が運んできた強風はいまだやんでいなかった。天高くそびえるクリスタル・パレスのてっぺんでは強風が吹き荒れていたが、不思議なことにその老人の周りの空気だけはピタリと止まっているようだった。


執事服に身を包んだ案内人は、白い口髭を撫でた。


すべてを見透かしたようなその視線の先には、二人の男の姿があった。


「ようやくお目覚めになられましたか」


案内人はもう一度声に出してつぶやいた。その声はクリスタル・パレスを取り巻くように吹いている強風に紛れて消えていった。


嵐は過ぎ去ったはずだった。


だが、風はいまだに強く吹き荒れていた。


老人の言葉を乗せた風がどこにたどり着くのか。


その答えを知る者はどこにもいない。



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◆フレーバーテキスト


〈突撃ラッパ〉

その楽器はひとつの音しか出せないが、用途としてはそれで十分だった。


〈部族の掟〉

敵に背を向ける者は、後ろの味方に仇なす者だ。


〈幻影の盾〉

盾がある、まだ盾がある。


〈略奪令〉

傭兵の略奪には順序がある。まずは宝石や金貨のような小さくて価値のあるものから始めて、食料、家畜のような大きなものは最後のほうにする。そして、とっておきの楽しみである女は一番最後に取っておくが……この順序が、ゴブリンの場合は逆になる。


〈魔術探求〉

「魔術を究めるのに必要なのは、不断の努力と大いなる好奇心、そして一片の才能である」

――マギユニベルの若き学部長、タレントゥス。


〈呪力解放〉

「多くの愚者が勘違いしていることだが、いくら努力をしたところで、才能がなければ、この領域にはたどり着くことができない」

――マギユニベルの若き学部長、タレントゥス。


〈峻烈なる一撃〉

「受けよ、我が太刀、我が修練」

――サクス城塞の勇士、バルドゥル。


〈ゴルグの短剣〉

ゴルグの地底は瘴気に満ちているが、そこでしか鍛造されない特別なものがある。


〈ゴブリン砕き〉

名工ドワーフ、ダナンの鍛えし数多の得物。ゴブリン砕きは数打ちなれど、ゴブリン恐怖し、悲鳴を上げる。


〈歴戦の古強者、ベルガー〉

数多の戦場を渡り歩き、その身に多くの傷を受け、無数の勝利とそれ以上の敗北を経て――ベルガーはまだ戦場に立ち続けている。


〈隻眼のゴブリン〉

目ン玉ひとつ、命もひとつ。大切なもんはいつだってひとつっきり。


〈愛欲のサキュバス〉

絶頂と堕落は表裏一体。快楽の螺旋階段をどこまでも上り詰めていく堕ちていく

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ソウルカードプレイヤーズ 霜田哲 @tetsu_9966852

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