AYAKASHI YOROZU. 漆

焔胡蝶ほむらこちょう

「え?」

「香芝ちゃんの蟲や。焔硝の鱗粉をばら撒いてな、ちょっとした怒りでも大火事にしてまうねん」


 再びキシキシと含み笑いを漏らす夜帆衣を前にして俺は呆然としながらも、胸の底で得心が浮かび上がるのを感じていた。


 怒りを大火事にしてしまう。


 人生を狂わせ続けたこれまでの失態が走馬灯のように頭の中でグルグル廻る。


「な、思い当たること仰山あるやろ」


 気がつくと俺は大きく頷いていた。


 そうか、その蟲のせいで俺はこれまで……。


 たちまち、怒りがふつふつと沸騰し始めた。

 けれどそれをぶつけるべき相手はどうやら自分の中にいるらしい。

 俺は顔を真っ赤にしながらもすがるような目で夜帆衣を見る。

 すると彼女は心得たとばかりにその華奢な胸板を拳でポンと打った。


「まあ、安心しなはれ。その蟲、綺麗さっぱり取り除いたるさかいに」

「ほ、本当か」

「当たり前やがな。なにしろ香芝ちゃんが飼うとる焔胡蝶は見事な紅染めの羽色ときとる。わてもこの商売はそこそこ長うやっとるけど、これほどの上物は珍しい。そやからこちらとしても是非とも貰い受けたいところや……」


 その言葉に俺は情けなくもクシャッと表情を潰した。


 その蟲から解放されたらこれからの人生はまともに……。


 目蓋に涙が溜まり、視界がじわりと滲んだ。


「……けども、や」


 感極まっていた俺に夜帆衣の低い声が冷や水のように感じられた。

 わずかに濡れた目蓋を拳で拭い、怪訝な表情に戻ると彼女は煙管を一服して細い煙をたなびかせる。


「蟲を引き取る代わりにひとつ仕事をしてもらいたいんや」

「仕事? ど、どんな?」


 すると夜帆衣はその薄っぺらい唇の端を持ち上げ、いかにもわざとらしい笑みを拵えた。

 

「たいしたことやない。ここにおる蟲を数匹ある場所まで持って行く、ただそれだけや」

「つまり運び屋……」


 思わずゴクリと喉が鳴った。

 いかにも危険な匂いがする。

 昨今、世間を騒がせている闇バイトが頭にチラつく。

 そして同時にあの竹籤籠の中の怪異たちが網膜に返り咲く。

 余程、引き攣った顔つきになっていたのだろう。

 夜帆衣がその俺を見て呵呵と笑った。


「いや、そないに構えることあらへんわ。別に難しいこともない仕事やし、ごっつう世の為、人の為になる。それにこれはあんたを救うためにもなるんやで」

「お、俺を救う?」

「そうや。焔胡蝶は香芝ちゃんの魂に棘みたいに食い込んでしもうとる。それを無理に抜いたらどうなると思う?」


 そんなこと聞かれても分かるはずもない。不審げに首をゆるゆると振ると夜帆衣は煙管を棘に見立てて手のひらから抜き取る動作を真似てみせた。


「プシュウッちゅうてなあ、魂の中身が抜けてあっという間に廃人や。そやから代わりの詰め物をせんとあかん。そしてそれが安全にできるんはこの妖萬だけや」


 詰め物という言葉に背筋が一気に凍り付いた。

 

「どうや、香芝ちゃん」


 首を激しく横に振ると夜帆衣が軽く肩をすくめた。


「なら、このまま焔胡蝶と心中するいう手もあるけど」


 刹那、それを想像してみる。

 けれど、その未来は真っ暗な闇で塗りつぶされていた。

 このままではいずれ怒りに任せて俺は人を殺してしまうに違いない。そうなれば一生、牢獄で過ごさなければならなくなる。そんな悲惨で救いのない人生を送るのは絶対にごめんだ。ならば危険を承知で賭けに出るしかない。

 

「や、やるよ、運び屋」


 吃りながら答えると夜帆衣は途端にパッと顔を輝かせ、煙管を逆さにして灰盆にカツンと打ち付けた。


「よっしゃ、契約成立やな。おおきに、その言葉、待っとったで。なんせウチらあは言質がないとどもならん商売やさかいな」

「でも、どうすりゃいい。あんな化け物が入った籠を運んだりして危なくないのか。それにさっきの話、どうしてそれが俺を救うことになるんだ。分かるように説明してくれ」


 焦り口調で詰め寄る俺を夜帆衣は「そないに慌てなさんな」と片手で制し、それから矢庭に煙管の吸い口を天井へとを向けた。するとそのとき、ガチャンガチャンと何かがぶつかり合わさるような騒がしい音が真上から響いてきた。目を向けるとどこまでも深い闇が続くその空間になにやらうっすらと透明な箱のようなものが浮かんでいる。


「心配せんでもええ。言質をもろうたからには、あとはこっちで巧いことやるさかいになあ」


 どういうわけかその言葉を境に夜帆衣の声が次第に遠去かっていくように思えた。

 次いで唐突に猛烈な眠気に襲われ、俺はそのまま眠ってしまったらしい。

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