AYAKASHI YOROZU. 陸

 いったいどれくらいの距離を歩いただろう。

 感覚からいえば少なくともひと駅分はゆうにあったように感じた。

 その間、通路の両側にはどこまで行っても積み上げられた竹籠の列が続いていて、目を向けるたびにその中に潜み蠢く様々な人面怪異が見えた。

 向かう先はずっと電球ひとつない暗闇が続いている。しかし老婆が進んでいく足下の土間床だけはふわりふわりとほのかな明るみの波紋が浮かび上がり、俺はそれを踏んで歩いた。そして振り返ると背後はなにもないただの暗黒に戻っていて、その闇の奥から蟲たちの呻き騒めきが縋ってきた。俺は恐怖に追い立てられるように一心に老婆の背を追った。


 やがて不意に彼女が歩みを止めた。

 見ると積み上げられた籠の列が途切れて、その隙間に片開きの扉があった。

 それはまるで老朽化した木造アパートにある俺の部屋の玄関ドアみたいな薄汚れて化粧板の端が反り返った木製のドアだった。そばに歩み寄った俺を老婆は横目に一瞥して懐からいかにも古めかしい真鍮の鍵を取り出し、なぜかそこでシシシと嫌らしげな声で嗤う。


「それにしてもあんたの蟲、上物やなあ」


 そして鍵をノブの鍵穴に入れグルリと回転させると次の瞬間、唐突に俺と老婆は茶室のような狭い座敷で互いに正座をして対峙していた。呆気に取られながらも見回すと左に明るみの差し込む障子襖があり、その向こうには和庭でもあるのだろうか、滴る水音が聞こえてくる。また老婆の背後にはいったい何を描いたものか判然としない水墨画の掛け軸をぶら下げた床の間があり、そこに据えられた青磁らしき一輪挿しには真っ白で可憐な花がひとつ凛とした顔つきでたたずんでいた。

 ふと見上げると驚いたことに天井がなかった。

 頭上にはさっきの通路と同様に真っ黒な闇がひしめいていて、なんとなくそこからあの怪異たちがボタボタと降ってくるのではとなんとも悍ましい想像に俺は背筋を丸める。障子襖の向こうの庭から鹿威ししおどしの音が響いてきた。

 するとそれに合わせたように老婆が口を開く。


「ほな」


 彼女の手には長尺な煙管キセル

 それを膝下のたばこ盆の灰吹にコツンと当て、次いで俺に差し向けた。


「まずはあんたの名でも聞いとこか」


 面食らった俺が確かめるように自分を指差すと老婆はさも面倒臭そうに顰めっ面でうなずいた。


「え、えっと、カシバ。カシバコウスケ。カシバは香る芝でコウスケは……」

「ええわいな、そないなことまで聞いとらん」


 老婆は口をへの字に曲げ、ふたたび煙管で灰吹を叩いた。


「わては十二代目妖萬あやかしよろず店主、夜帆衣やおいいうもんや。さっきも謂うたけどここは人に取り憑く蟲らあを商うたなでな。そやからここには蟲に縁のある者しか入ってこられんようになっとる」


 その説明に得心がいったわけではないが、それでも全く信じがたいこの状況からして夜帆衣の言葉に俺は肯首するしかない。もちろんあの化け物たちが蟲と呼ばれていることもすでに理解している。

 けれどそうすると、


 ―――― このままやったらあんたもじきに蟲になるわな。


 不意に老婆の言葉が耳に甦り、俺は鳥肌を浮き立たせた。

 

「あ、あの、蟲が俺の中にいるっていったいどういう……」


 ひとつ唾を飲み込んでから訊ねると夜帆衣はいびつに頬を緩めた。


「どうもこうも、そのまんまや。香芝ちゃん、あんたが飼うとる蟲、なかなかのレアもんやで」


 レ、レア?

 その容姿に全くそぐわない単語に怪訝な表情を浮かべると彼女はさらに表情をほころばせる。


「珍しげなもんのことをそういうんやろ、今どきは。キシシ……」


 とりあえず俺が強張った愛想笑いを作ると夜帆衣はかえって澄ました顔つきに戻しポツリと告げた。

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