AYAKASHI YOROZU. 肆

 それはさっきまでたしかに空っぽだったはずの虫籠のひとつ。

 見ると中に黒っぽい影があり、無意識に焦点を合わせた瞬間、喉仏のあたりがギュッと絞られて息がそこで止まった。

 虫籠の中に髪を長く伸ばした人面を持つ蟾蜍ひきがえるがいたのだ。


 睫毛まつげをくるりと上げ、まなじりくちびるに紅を刺した真っ白な若い女の顔。けれど首から下の姿はどう見ても蛙で、焦茶色のぬるりとした肌にいくつものブツブツとした無数の突起を浮き立たせ、寸胴な太い肢体とその先に水掻きのある手指がある。

 怖気立ち、後退るとその物音に気がついた蟾蜍女がサッと振り向いて奇怪な口を耳元まで裂いた。


「あら、いい男。ねえあんた、ウチをここから出しておくれよ。いいことさせてあげるからさあ」


 妖艶な声に全身の毛穴が開き、俺は無様にも掠れた悲鳴を上げた。そして逃げ出すようにさらに一歩後退ると背後に積み上げられていた虫籠に肩が当たり、崩れ落ちたひとつが足下に転がる。


「なんじゃ。騒々しいのう」


 今度は男の声が響き、反射的に目線を落とした俺は再び驚愕して目を剥いた。


 その炊飯器ほどの大きさの籠の中。

 そこには乱れたザンバラ髪の生首が仰向けになって俺を睨み上げていた。

 しかも髪だと思った無数の細長いスジがいくつかのまとまりとなって生首の両側で悍ましくも蠢いている。

 蜘蛛。

 全身が総毛立った。

 一面に産毛を生やした八本の脚が竹籤の中で喋る生首を持ち上げている。

 

「おいヌシ。騒がせの償いとしてワシをここから出せ。さすれば許そうぞ。そればかりか褒美などやろう。滅多にない褒美じゃぞ。恨み嫉みも願い通りじゃ。どうだ、欲しかろう。ならばワシをこの忌まわしき匣から出すが良い、さすれば……」


「そのような褒美など小さい小さい。我を出して取り込めば、人心など思い通りよ。汝、我に自由を与えよ。そうすれば……」


 地面に響くようなバリトンに思わず目線が向いたその先は、よろめいた体を支えようと無意識に左手がつかんでいたクーラーボックスほどの大きな竹籠。

 そのなかに詰め込まれたヌメヌメと蠢く得体の知れない何かが巨大な人面ナメクジであると分かって、もはや悲鳴とも言えない奇妙な音が俺の喉から絞り出された。

 繰り返される怒涛のような恐怖に慄き、ついに俺は腰砕けにへたり込む。

 するとそれを皮切りにしたように老若男女、入り乱れた雑多な声がそこら中から放たれ始めた。

 見渡すとすべての竹籠のなかに何かが蠢いていた。


 玉虫色の蛇、巨大なゴキブリ、赤紫色のトカゲ。

 竹籠に囚われた無数の正体不明の生物はそれぞれに生首を付け、総じてその胡乱げな瞳を俺に向けて口々に「出せ、出せ」と喚いている。


 冷静さなどというものはすでに欠片も残されてなかった。

 それでも四つん這いになり出口を求めたのは本能のようなものであった。

 けれどその逃避もすぐに意味を為さないものに変わる。

 顔を上げた俺の視界にそこに見えるはずの土砂降りの夜闇はなかった。

 あったのは狭い通路とその両側に堆く積み上げられた竹籠の列。

 そしてその中の奇妙で悍ましい生物たちと耳に入り乱れる救済を求める声。

 愕然として振り返ってみてもその光景が鏡写しに連なっているばかりだった。

 閉じ込められた。

 絶望に苛まれ、俺はその場に座り込んだ。


 ―――― いったいなんなんだ。

 ―――― 俺はどこにいるんだ。


 その自問はまるで見知らぬ誰かの声のように白々と脳のどこかを流れていく。

 代わりにあたりを埋め尽くす無数の悍ましい声はそれぞれに俺の知覚に入り込んで健気に立ち戻ろうとする平静さを蝕み続ける。


 喉元に酸味が込み上げ、俺は胃液を吐き戻した。

 そして拳で口元を拭い、放心状態でその場にへたり込んでいると不意にしゃがれた声が真上から降ってきた。

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