青と白

本編

「あと十分くらいか」

 高校の最寄り駅のロータリーで帰りのバスを待っているおれの視界を、バス停の屋根から滴る雨粒が等間隔のリズムで落ちていく。

 道に落ちた水滴は一つの流れになって、音もなく側溝の中に消える。

 こういう隙間時間にぼんやりせずに勉強でもすればもう少し成績も上向くのだろうが、そんな真面目さが自分にあるはずもない。おれは他のバス停から発車したバスがロータリーをぐるりと回って知らない町に向かっていくのをただ見送っていた……のだが。

「あれ?」

 視界の隅に見覚えのある人物を見つけ、思わず小さな呟きが漏れた。

 その人物はこちらに歩いてくると、静かにバス停のベンチに腰かけた。黒いロングコートにゴツい革のブーツを身に纏った彼女の横顔を、おれが困惑した顔でまじまじと見つめていたせいだろう。

「なにか?」

 彼女は視線だけをこちらに向けて低い声で問うてきた。その目の鋭さに気圧されたおれは慌てて目を逸らすと、ごまかすようにスマートフォンの画面を見つめる。

 気のせいかだったかと一心に興味のないニュースを読んでいたおれはややあってからふと気づいた。

 今度は彼女の方がこちらを見つめている。

 とはいえ先に見つめていたのはおれの方だった以上やめてくれとも言えず、気まずい沈黙に身を任せるほかない。雨音だけが響く中、居心地の悪さのせいで読んでいるはずのニュースの内容も頭に入ってこない。

 すると、ついに彼女が再び口を開いた。

「ねえ。もしかしてさ」

 最初はおれに話しかけていることにも気づかなかったのだが、恐る恐る顔を上げると彼女の瞳は真っすぐにおれを捉えていた。

「ユキでしょ」

 彼女がおれに向けた言葉は、ずいぶんと懐かしいあだ名だった。その呼び方をしたのは小学生の頃の友人と、あとはよく遊んでくれた隣の家の……。

「ハルカちゃん?」

 思わずおれも昔の呼び名を口にすると、彼女は幼い頃と変わらないあどけない笑顔を浮かべておれの肩をぽんと叩いた。

「ちゃんはやめてよ」

 彼女の手が記憶の中のものよりも小さく思えたのは、おれの背が彼女よりも高くなったからだろうか。



 ハルカちゃん、いやハルカさんとの出会いは今でも覚えている。

 なにせ初対面の際、当時小学一年生のおれに向かって小学六年生の彼女が初めて口にした言葉は『あっち行って』だったのだから、年上の人間は自分には優しいものなのだと思い込んでいた幼いおれにとって衝撃だった。

 今になって振り返れば、生意気なガキの世話を押し付けられてハルカさんも気の毒だと思えるが、なんて意地悪な人だと当時のおれが思ったのも無理からぬことだろう。

 それでもお互いの両親同士がもともと仲が良かったのもあり、勉強を教えてもらったり遊んでもらったりしているうちになんとなく打ち解けて、いつしか本当の姉弟のようになっていった。

 それもほんの短い期間のことだったのだが。

「懐かしいね。最後に会ったのっていつだっけ?」

「ハルカ……さんが高校卒業する時だから、五年前かな」

「そんなになるか。まあ交通費がもったいなくて実家に帰らなかったからね」

 自宅近くのバス停に向かうバスの中で二人並んで座っていると、おれはふと彼女の耳に青い宝石をあしらったピアスが揺れているのに今更気が付いた。きらびやかな宝飾品は記憶の中の彼女とうまく結びつかなかったが、とても自然に馴染んでいて彼女にとっては当たり前に身に着けるアクセサリーなのだろう。

「あっちで就職したって聞いてたけど、帰ってきたの?」

「うーん、まあね。ユキこそどう?来年は大学受験でしょ」

 都合が悪くなると適当にはぐらかして話題を変えるのは昔のままだ。今更文句を言う気にもならないのでおれも素直に答える。

「今のところK大学を受けようと思ってる」

「あれ、わたしと同じところ受けるの?じゃあ大学でも後輩かあ」

「学部は別だけどね」

「一緒よそんなの。医学部とかならともかく」

 おれがハルカさんの微笑みを横目で見ながら肩をすくめた時、ちょうどバスが目的地に到着した。バスを降りてそのまま二人並んで歩くと、まるで幼いころに戻ったような感覚に襲われる。ただあの頃と違うのは、彼女の歩幅がおれよりも小さくなっていることだろう。

「ハルカさんはずっとこっちにいるのか?」

「どうだろ。まあ、なるようになるよ」

 バス停から家までなんて大した距離じゃない。ほんの数回言葉を交わすうちにおれたちは家の前についた。

「じゃあまたね」

 ハルカさんはあっさりとおれに背を向けると、ポケットから鍵を取り出した自宅の扉を開いた。そしてそのまま家に入っていくかと思いきや、扉を閉める間際に顔だけをこちらに向ける。

「勉強がんばってね」

 ささやくようにそう言い、彼女はおれの返事を待たずさっさと扉を閉めてしまった。

 おれはまだ降りやまない雨の中で傘をさしたまま、彼女が消えた扉をぼんやりと見つめていた。



 特別な人間という言葉が誰を指すのか、なかなか難しい。

 家族は特別だろう。時にはケンカもあるけれど、関係はそれなりに良好だ。友達は……友達の中で特別と言えるほどの相手は多分思いつかない。もちろん話したり遊んだりしていて楽しいとは思うけれど、これが特別かというとお互いにそんなことは思っていないだろう。

 じゃあ数年ぶりに会う幼馴染は?

 そんなことを考えている時点で、おれの中には彼女に対する何らかの特別な感情があるのだろう。

 ハルカさんに久々に会った翌日、高校からの帰り道にそんなことを考えながら歩いているとスマートフォンが震えた。

「……なんだ、またか」

 母親からの『今日は帰りが遅くなるから適当に買って食べて』というメッセージだった。父親はそもそも単身赴任で平日は不在のため、こういうことは我が家では日常だ。

 おれはバス停近くのスーパーに寄ると、買い物かごを手にとって売り場を練り歩く。惣菜を買ってもいいが大して種類が無いので飽きてきたのも確かだ。

「カレーにするか」

 素人でもルーと野菜と肉を鍋に放り込めば十分においしくなるのだから、大手メーカーの力は偉大だ。母が夜遅くに帰って来ても温めなおせば美味しく食べられるし。

「人参高いな」

 昨今の野菜相場に渋面を浮かべていると、おれは視界の隅に見覚えのある顔を見つけて足を止めた。向こうも同時におれに気づいたらしく、片手をあげてこちらに歩いてくる。

「ハルカさん。どうしてここに?」

 スーパーの店名が書かれたエプロンを身に着けて笑っているのは、昨日久々に会ったばかりの幼馴染だった。彼女の背後には段ボールを積んだ荷台が止められていて、その向こうでは別の店員が手を動かしながら横目でこちらを窺っている。

「自分の生活費くらいは稼がないと実家から追い出されそうだからさ。スーパーなら大学時代にバイトしてたし。ユキは晩御飯の買い出し?」

「うん。母さん遅くなるから」

「感心感心。私よりずっと親孝行だ」

 そう言って腕組みをするハルカさんを見る店員の目が険しくなっていた。さすがに堂々とサボりすぎだろう。ちょっと申し訳ない。

「じゃあ邪魔するのも悪いし、おれはこれで」

「うん、気を付けてね。あ、今日は鶏肉が安いって」

「ありがとう、チキンカレーにするよ」

 特売の札を指さす彼女に会釈して、おれは野菜売り場を離れた。

 ふと背後が気になってそっと精肉売り場から振り返ってみると、てきぱきと商品を並べるハルカさんの姿が見える。耳元には先日の青い宝石のピアスはついていないし、顔がこちらを向かなければきっと他の店員と区別はつかないだろう。

 おれが彼女に抱く特別な感情とは裏腹に、店内の光景に溶け込むハルカさんは本当に『普通』だった。

 当然と言えば当然のはずのその事実にささくれほどの小さな引っ掛かりを覚えながら、おれは鶏肉を買い物かごに入れた。



 心にどんな想いを抱いていても、時の流れは変わらない。

 ハルカさんは時々挨拶を交わす程度の距離感でするりとおれの日常に帰ってきて、まるで当然のようにおれに笑顔を向けてくれた。いや、本当に多分『普通』のことで、彼女にとっては当然だったのだ。そこに特別なものなど何もないのだから。

 おれにとって幸運だったのは、大学受験という人生の一大事のおかげでそれを直視する余裕がなかったことだろう。

 別に真面目な人間ではないけれど手を抜けるほど優秀なわけでもないから、自分なりに勉強したつもりだ。

「……あった」

 ハルカさんと再会してから数か月が経った合格発表の日、自宅のリビングでスマートフォンの画面にずらりと並んだ数字の羅列を目で追っていると、さほど時間もかからず自分の受験番号を見つけた。一年の成果だと思えばもう少し感慨深くなるものかと思っていたが、存外あっさりとしたものだ。

「まあ、よかったかな」

 とりあえず両親にも合格を伝えるメッセージを送り、時刻を確認すると十五時過ぎで小腹が減っていることに気づいた。

 何かお菓子でも買ってこよう、と思って外出したのは近所のスーパーで、ハルカさんにおめでとうと言ってもらえるかもしれないという下心があるのは自覚していた。

 おれは十分もかからずにスーパーに着くと、目当ての菓子コーナーでチョコレートを手に取った。そのままレジに向かえばいいものを、意味もなく店内をさまよってみたが隣人の姿はなかった。

「仕方ないか」

 おれは自分を納得させるように呟き、会計を済ませて店を出た。

 とぼとぼと歩いていると、帰り道の途中にある公園ではまだ二月で吐く息も白いというのに気の早い梅がいくつか小さな花をつけていた。

 帰宅して受験中は我慢していた映画を見ていると、いつの間にか夜になって母が帰宅した。食卓には寿司が並べられ、普段は酒を飲まない母がビールを開けていた。

「いやー良かった良かった。あんたはのんびりしてるから結構心配してたのよ」

 上機嫌な母の姿に、今更のようにおれは合格した感慨がわいてきた。こういうのも悪くないかもしれない。

 だがおれの晴れやかな気分も母の続く言葉でどこかに吹き飛んでしまった。

「お隣のハルカちゃんも再就職が決まったし、良いことづくめだわ」

「え?」

 まったく初耳のその情報に思わず聞き返すと、母は早くも赤くなった顔で意外そうにおれを見返した。驚いたのはおれの方だというのに。

「あれ、聞いてなかったの。あの子は頭も良いし難しそうな資格も持ってるらしいから、心配しなくてもすぐ決まると思ってたわ」

「じゃあまた引っ越すのか」

「そうみたいね。もう昨日に出発したらしいから」

「昨日?」

 今度こそ驚いて声を上げると、母の表情が怪訝なものに変わる。

「なあに、本当に何も聞いてなかったの?あなたたち結構仲良さそうなのに」

 それから先は母が何を話したかも、寿司の味も覚えていない。

 気が付いた時にはおれの体はベッドの中で横たわっていた。別に眠いわけではないから、暗闇の中でぼんやりと天井を見上げているだけだ。

 その間も時計の針が刻む音が妙に大きく聞こえて、嫌でも時間は過ぎていく。

「喉、乾いたな」

 おれは水を飲もうと緩慢な動きで体を起こしてリビングに向かい、そしてふと視界の隅に灯る光に気づいて足を止めた。

 インターホンの画面の下、宅配ボックスに荷物が入っていることを示すランプが灯っている。

 その光に追い立てられるようにおれは踵を返して玄関に向かうと、サンダルを履くのももどかしく素足で外に出た。

 真冬の外気でひやりと冷たい宅配ボックスを開くと、そこには掌に乗るくらいの小さな箱が置かれている。郵便などではなく直接投函されたのだろう、送り主などを示すものは一切ない。

 恐る恐る手に取って開いてみると、小さく折りたたまれた紙片と見覚えのある青い宝石のピアスがあった。

 寒さのせいか、あるいは別の理由かは分からないが、震える指で紙片を開くとそこにはやはり見覚えのある字が並んでいる。

『合格おめでとう。これはもういらないからあげる』

 書かれているのはそれだけだった。ハルカさんらしいと言えばそうかもしれない。

 おれは紙片を元通りに折りたたみ、ゆっくりと箱を閉じた。多分もう二度と開くことはないだろう。

 そして深く息を吸うと、今度はゆっくりと大きく息を吐く。

 その吐息は冬の冷気で真っ白に染まり、そしてほんの一瞬後には幻のように消え失せた。

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