消えてしまえば
綿来乙伽|小説と脚本
強く唱えるだけ。
「邪魔だな」
私がそう思ったのは、混みあっている電車で一席設けられていた鞄と目が合った時だった。鞄の隣に座るサラリーマンは、鞄しか荷物が無いのに、鞄を横に置いてスマホに夢中だった。私はその鞄の前に立ち、前後左右の乗客達に推されながら鞄を見ていた。サラリーマンはこの電車に乗っている全ての人間のことを全く考えていない。鞄の場所が空けば、私や私以外の誰かがそこに座ることが出来る。立っている人間が一人減らすことが出来れば、乗車出来る人間が一人増える。もし次の乗客が現れなかったとしても、一人分の占有面積が無くなるだけで、立っている人間が少しdけ圧迫から解放される。たかが鞄一つで、これだけの人間の数分間の人生が充実するのだ。それをこのサラリーマンは全く考えていない。実際に私のように考える人は少ないのかもしれないが、荷物は当然自分の膝に置いて着席するものだと思う。私はサラリーマンを見つめて、目の前にある鞄に目を移した。
「この鞄がどこかに行ってしまえば良いのに」
心でそう唱えながら鞄を睨み付けた。すると、鞄が突如として消えてしまった。私や鞄が見えている乗客が目を丸くした。隣に立っていた女子高生二人は急いでスマホを取り出して何かを書き込んでいるようだった。ざわついた様子に気付いたサラリーマンが、鞄があった座席を見つめて、この場にいる誰よりも驚いた。周りにいた乗客全員のことを疑うように見たが、鞄を盗んだり、床に置いたりした者はいない。ただ鞄が、消えたのだ。
サラリーマンは次の駅で降りた。おかげでサラリーマンと鞄の分の席が空き、女子高生たちが座ることが出来た。鞄の前に立っていた私はというと、その場から逃げるように立ち去ったサラリーマンを見ていたら座る席が無くなっていたのだった。
会社に着くと、オフィスがなんだか騒がしかった。複数の社員が集まっているデスクに向かうと、ある女性社員が目を腫らしながら泣いていて、それを励ましているようだった。
「どうしたの?」
「昨日実家のワンちゃんが亡くなったんだって。出社はしたけど、思い出すと泣けてきちゃったみたいで。あんな感じ」
「そうなんだ」
私はペットを飼ったことも無ければ、動物が好きなわけでもない。動物園や水族館には行くけれど、自宅に連れて来たいほど近距離に動物がいるのは苦手だ。だから彼女の悲しみは私の想像の範囲を軽々と超えるものなのだろう。職場で泣いてしまうほどの悲しみを、家族の死は与えるのだ。
「彼女の悲しみが消えてしまえば良いのに」
彼女を見ながら心の中でそう思った。すると、彼女の泣き声が聞こえなくなった。
「え、大丈夫?」
「はい。すみません、ご迷惑おかけして」
いつの間にか腫れていた彼女の瞼も綺麗に戻り、睫毛もしっかり上を向いていた。彼女は使用した大量のティッシュを両手に持ち、ゴミ箱に捨てて仕事を始めた。彼女の周りに立っていた他の社員達も一瞬驚きながらも散り散りいなくなっていった。
私はこの時、朝電車で経験した「邪魔だと思っていた鞄が無くなった」ことを思い出した。あの時私は、鞄に向かって邪魔だと感じ無くなって欲しいと念じた。一方で女性社員に向けては、彼女の悲しみが無くなってしまえば良いと感じた。
私が消えて欲しいと思うものが、念じれば無くなる。この能力は、人にも使えるだろうか。私は鞄をデスクに置いて走り出した。
地下一階のボタンを押すと、エレベーターが閉まり下がって行った。私は地下に向かうエレベーターに乗る度に身震いが止まらなかった。だが今日は、今日からは普通にエレベーターに乗れるかもしれない。地下にある倉庫が怖くなくなるかもしれない。私は期待を胸にエレベーターのドアが開くのを待った。
扉を開くと、地下倉庫への道が開ける。倉庫までの道のりは薄暗く、地下なのに少し風が吹いている。怖くてたまらない環境が、あと数秒でさらに怖くなることを私は知っている。
「松本さん」
私はその声に振り返った。エレベーターには私一人しか乗っていないし、そもそも早朝から地下倉庫に来る人間はいない。いるとしたら、目の前に立っている石山係長だけである。
「どうしたの、こんな朝早くに」
「え……と、昨日、必要だった、しょ、書類を、取りに」
私は震えが止まらなかった。声を出そうにもほんの少ししか出ない。呼吸をしようにも上手く吸い込むことも吐くことも出来ない。ただ彼が一歩ずつ私に近寄るのが怖くて仕方がない。
だからこそ、私は今日ここに来たのだ。私は石山係長の目を見つめた。
「お願いだから石山係長を消してください。私や他の女性社員を彼のセクハラから解放してください。どうか、どうか石山係長を消して」
私は今出来る最大限の深呼吸をしながら心の中で一生懸命唱えた。段々と涙が零れそうになり、一回瞬きをした。その瞬間、石山係長は消えていた。
「消えた……」
私は辺りを見渡した。石山係長どころか誰もいない地下倉庫は、いつものように薄暗いだけの地下室だった。私は腰を抜かしてしゃがみこんだ。私が、石山係長を消したのだ。
「松本さん!?大丈夫!?」
たまたま地下に降りて来た上司に助けられ、やっとの思いで立ち上がりエレベーターに乗った。
私は、自分が邪魔だと思った物、人を消すことが出来るようになった。ノートに死んで欲しい人死因を書けば勝手に人が殺せるようになるあの夢のような世界と似ている。というかほとんど同じである。だが私は、世界中の犯罪者を殺したり、少しでもイラついた何かを消したりしたいわけではない。ただ彼が、石山係長がいなくなればそれで良いのだ。私以外の誰かにこの能力があったとしたら、もっと善意的な、または残酷的は扱い方をする人間もいるかもしれない。だが私はこれで良い。これで全て上手くいくのだ。私はそれで幸せだった。
明日からの私に、怖い者はない。
消えてしまえば 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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