第二十七話 太陽の光

 ひたすら階段を上った環夜は屋上の扉を開け、柵のところまで走った。そして踵を返し、環夜の後を追ってきた彰に向き合う。

 逃げるなら下に降りるべきだったのに、環夜はあえて屋上に来た。彰を試すため、本当に自分が大切に思われているかを確かめるため、環夜は屋上を選んだのだ。正気の選択ではない。でも、それほど追い詰められていた。それほど、騙されていたことに苦しんでいたのだ。


 元々、環夜は精神面的に弱かった。すぐ壊れそうになる心をなんとか保てていたのは、相手に怒りをぶつけていたからだ。けして良くないことだが、そうすることで精神を保っていたのだ。それが、二度も騙されたという事実を前に壊れた。彰に怒りを完全にぶつけることもできず、だからといって許せるわけもなく、怒りの有所がわからなくなり、熱の冷まし方をわからなくなった環夜は、恐ろしい方向に足を踏み入れようとしている。


「兄さん…部屋に戻って。屋上なんて…やめてよ。お願い。私を…殴ってもいい…蹴り飛ばしてもいい…罵倒してもいい。だから…部屋に戻ってよ…」


 環夜を追って屋上に来た彰は必死の表情で呼びかける。それが逆効果たとは知らずに。

 環夜は凍てつくような瞳で彰を見据えた。もう怒りも何も感じない。悲しみも苦しみもない。

 ただ、知りたくなった。守るという言葉がどこまで本気なのか。彰の本心を暴いてやろうと。本当は自分のことなんてどうでもいいんじゃないかと、環夜は心の中でそう思っているのだ。


「なにか…言ってよ。兄さん、お願いだから…」


 環夜は笑ってしまった。あれだけ話しづらそうにしていたのに、余所余所しい態度を取っていたのに、今はもう以前の彰に戻っている。気持ちを素直に伝えられる、環夜に強気な彰に。環夜は少なくともそう感じた。


 環夜は声を出して笑った。笑いながら、涙を流している。いつもと様子の違った彰を心配していた自分を思い出すと、愚かしすぎて可笑しくなってしまったのだ。

 彰は環夜の笑いを聞いて言葉を失ってしまった。今まで一度も環夜のこんな笑いを見たことがなかった。


「…彰、お前…本当に僕のことが大切なのか?本当に僕を守るなんて抜かすのか?守るって…嘘ばっかり…僕を一番傷つけてるのは…お前なのに」


 環夜はそう唸りながら彰に近づく。彰は後退りした。彰の手足が震えているのを見て、嬉しく思った。


 ――せいぜい怖がればいい。僕を傷つけた報いを受けろ。騙していた罪を償え。たとえ善意であっても、僕は許さない。


「わ、私は…大切だよ。兄さんのこと、大切だよ。だって…家族だもん。血が繋がってなくたって…私はずっと…兄さんを家族だと思ってたよ。だから…」

「騙していたくせに?騙していたくせに大切?本当に大切なら…何で騙してたんだよ。なぁ…どうしてだよ。僕のこと…本当に大切なのかよ。その言葉も…全部嘘なんじゃないのか?」


 環夜は彰の言葉を遮り、一息でそう言う。彰の目を見つめ、笑いながら。彰はそんな環夜に目を合わせられない。怯えているのがわかる。彰の背中が屋上の入口横の壁に触れた。もう逃げ場はない。素直になるしか逃げる術はない。


 ――目を合わせない。やっぱり本気じゃなかったのか。


「…彰、本当のことを言えよ。本当は…僕のことなんて…どうでもよかったんだろ?それが…本心なんだろ?」


 彰は何も言えない。ただ震えているだけだ。環夜の顔から笑みが消えた。涙ももう出ない。心の中で確信を持った瞬間だった。彰の言葉が嘘だったと確信を持った、その瞬間、環夜は喉のあたりが気持ち悪くなって彰から離れた。


 そのまま、胸を押さえ後退する。彰が心配そうに伸ばした手を振り払い、屋上の端まで蹌踉めきながら歩く。

 気持ち悪かった。全てが。騙され、家族ごっこに付き合っていた自分にも、嘘をつき続ける彰にも吐き気がした。


 ――まだ、心の何処かで希望でも持ってたのか。なんで、こんなに動揺してるんだよ、僕。わかっていて屋上に来て、彰を確かめようとしたはずなのに、確信を持って今更動揺してるなんて、馬鹿みたいだ。


 環夜は口元を押さえた。今朝食べたものが逆流しそうなのをこらえ、環夜を心配して近づいてくる彰から遠ざかる。


「にい、さん…大丈夫…?」


 彰の手が環夜の背中に添えられる。その瞬間、環夜は胃からものが逆流してくるのがわかった。

 思わず口元を手で押さえ堪らえようとするが、吐瀉物が指の隙間から溢れ地面に落ちる。それを引き金に、口からまだ未消化の朝食が溢れ出る。気持ち悪さと苦しさで目に涙が溜まり、鳥肌が立つ。


 ――気持ち悪い。僕に触るなよ。嘘まみれの手で、僕を心配するふりをして、もう嫌だ。彰が気持ち悪い。


 背中を擦る手を環夜は振り払い、袖で口を拭いて彰から離れようとする。彰は環夜を行かせまいと、その腕を掴む。


「兄さん…私が嫌なら…獅貴さんを呼んでくるから…屋上は危ないから離れて…お願い」


 彰も涙を流していた。環夜に縋り付き懇願する。だが、許させるわけもなく、環夜は彰を突き飛ばし、柵に手をかけた。


「ふざけんなよ…獅貴さんだって…お前の知り合いだろ…僕を騙してる仲間じゃないか。そんなやつ…信用できるわけ無いだろ」


 環夜はそう言うと柵を乗り越えて屋上の縁に立った。風が足元を抜ける。下を見ると目眩がするほど地面が遠かった。ここから落ちれば間違いなく死ぬ。実母にも会えず、こんなところで。

 彰は今にも飛び降りそうな環夜を見て蒼白になった。環夜の下まで駆け寄り、柵越しに環夜の腕を掴む。その表情は必死だ。笑えるほどに。


「兄さんっ、お願い…それだけはやめてっ!私が…悪かったから…もう騙したりしないから…全部話すからっ…戻ってよっ」


 その言葉を聞いて環夜の体は自然と動く。環夜は泣き叫ぶ彰を尻目で見て言った。


「…もう、何も聞きたくないよ」


 彰の手が振りほどかれて、環夜の体が傾く。一瞬だった。彰の驚く顔が視界から消えて、人工の空が、太陽が映る。


 ――眩しい。本当の太陽もこんなに眩しいのかな。

 アリゾネがいつしか言っていた本当の空を思い浮かべながら環夜は思う。それだけが心残りだった。自分を捨てた実母も、偽りの家族ももう何もいらない。


 体が風を切っているのがわかる。加速している。この建物がいくら高くても、落ちるのはすぐだ。

 彰の悲鳴が聞こえた気がした。環夜の名を叫んでいるのか。今となってはどうでもいい。

 加速する環夜の体。近づいてくる地面を見ているうちに、環夜の意識は途絶えた。



 目覚めた時、環夜は暗闇の中にいた。

 ――此処は、どこだろう。天国?地獄?まるで、いつもの夢の中のようだ。暗くて、何もない。

 横になっているのか起き上がっているのかもわからない。どこが天井でどこが床なのか。空も地面も何もない。何もできない。温度もない。寒くも暑くもない。一体ここはどこなのだろうか。

 ――僕は飛び降りて死んだはずなのに。ここが死後の世界なのか。

 環夜は虚空に手を伸ばす。暗いので伸ばした自分の手も見えない。だが、不思議とこの暗闇を怖いとは感じなかった。むしろ心地よい。彰といた時よりもずっと心が休まる。アリゾネといた時のようだと環夜は思う。

 その時、視界の端が一瞬だけ光ったように見えた。すぐ暗闇に戻ったが、また光り、また暗闇に戻りと繰り返し、やがて光は強くなっていった。

 暗い世界に色がつく。見たことある外観の家。見たことある街並み。そこに立つ環夜。懐かしい家に向かって手を伸ばしている。着ているのは中等学校の制服で、いつの間にか手には学生鞄を持っていた。

 ――ここは、早日家か?どうして、死後の世界じゃないのか。僕はいつの間に帰ってきたんだ?

 不思議と憎しみや苛立ちは感じなかった。死後の世界だからだろうか。懐かしさと悲しさのほうが強いのだ。

 環夜は徐ろに玄関の扉を引いた。そして、恐る恐る中へ足を踏み入れる。玄関で靴を脱ぎ、居間に向かう。

『おかえり、環夜。うがい手洗いしてきなさい。今日の夕飯は餃子よ』

 居間では智美が夕食を作っていた。慌てて時計を確認すると夕方の五時。中等学校から帰宅する時間だ。

 死後の世界だと言うのに、智美の声も料理のいい香りも、全てが現実としか思えない。

 環夜は泣いていた。頰を涙が伝う。

 智美はそんな環夜を不思議そうに見た。

『どうしたの…?学校で何か辛いことでもあった?』

 環夜は首を横に振る。涙が次々に溢れてくる。

 ――これは、死後の世界なんかじゃない。きっと、今までのが悪い夢だったんだ。血が繋がらないのも、彰に騙されていたことも、反政府軍のことも、全部夢だったんだ。

『大丈夫。何もないよ母さん。手、洗ってくるね。ご飯の支度手伝うから』

 環夜はそう言うと涙を拭いて、洗面所に手を洗いに行った。智美はそんな環夜を見て驚いたように言う。

『いつもは手伝いなんてしないのに、今日はどうしたの?いきなり泣き出すし…何かあったわけじゃないよね』

 ――何かあったよ。悪い夢を見てたんだ。でも、その御蔭で、家族の大切さが身に沁みたよ。僕はやっぱり早日家に居たい。

 環夜は手を洗った後、智美の手伝いをした。野菜を切り、汁物を作る。

 五時半を回る頃には、部活を終えた彰と定時上がりの父親が帰ってきた。二人が手を洗うのを待ち、皆で食卓を囲んで夕食を摂る。他愛のない雑談をしながら、家族の時間を過ごす。環夜は幸せだった。今までのことなどすべて忘れてしまうほどに。

 環夜は風呂に入り、自室の寝台に寝転がった。平和な日常に笑みを浮かべる。

 ――もう悪夢なんか見たくない。ずっと、これからも僕は早日家の人間なんだ。

 環夜は幸せな気持ちのまま、眠りについた。

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