第二十二話 位置情報発信装置
――また、夢?ここはどこなんだろう。
環夜は上層地域の街中に立っていた。立ち並ぶ建物や貴族街を囲む塀が見えることから、首都【
――でも、おかしい。絶対にこれは夢だ。僕は反政府軍の基地で、睡眠薬を飲まされて眠らされたはずだ。
夢であることは断言できた。人は多く行き交い、活気ある街中に立っているというのに不思議と音がしない。人の話し声も、車の電動機の音もしない。恐ろしいほど静かなのだ。
「…環夜」
静寂の中で聞き覚えのある声が背後から聞こえ、環夜は慌てて振り返った。
「アリゾネ…どうして此処に?」
環夜の背後にいたのはアリゾネだった。環夜は驚き訊ねる。
――やっぱりこれは夢だ。反政府軍にいたはずなのに、街中にいるし、アリゾネもいる。いや、それとも今までのことが夢だったのだろうか。彰に上層地域で会ったことも、戦争に巻き込まれたことも、反政府軍としてアリゾネの敵に回ることになったことも、全て夢だったのでは?
目の前のアリゾネは環夜に向かって微笑むと、ゆっくりと近づいてくる。環夜はそんなアリゾネを不気味に思った。アリゾネはもっと元気で、こんな静かな態度で環夜に接したことはない。
「あ、アリゾネ…?」
環夜は怖くなって後退りした。だが、アリゾネは環夜の下まで若干早足で寄ると、環夜の体を掴んだ。貴族であるアリゾネの大きな手で体を掴まれた環夜は動けなくなってしまった。力を入れても掴む手は緩むことがない。
「アリゾネ…痛いよ。離してくれ」
環夜はアリゾネの手から抜け出そうと必死に藻掻くが、藻掻けば藻掻くほど手の力は強くなり環夜の体を締め付ける。
「……で、……て…………んで」
環夜を握り締めるアリゾネが何やら呟いている。だが、アリゾネの手から抜け出そうと必死な環夜にそれは聞こえていない。
「…ど…して…の、環夜?」
やっと聞こえたその言葉で環夜は藻掻くことをやめてアリゾネを見た。
アリゾネは環夜を見つめながら、悲しそうに涙を流している。
「あ…アリゾネ…」
環夜は言葉をなくしてしまった。アリゾネが泣いている。夢とわかっていても胸が締め付けられるように苦しくなった。
――僕が裏切ったからか?だから泣いているのか。違う、これは夢なんだ。でも、夢だと言うなら何でこんな夢を見るんだ。アリゾネを裏切ってしまったことへの罪悪感からだろうか。わからない。でも、苦しい。
「ごめん…アリゾネ。ごめん…本当にごめん…」
環夜はアリゾネの顔を見ながら謝る。本心から。
――アリゾネは僕に親切にしてくれた。なのに僕は裏切った。僕は、どうすればよかったんだろうか。
アリゾネは環夜を掴む手を緩めた。環夜の体は解放される。それと同時に、目の前が真っ暗になって環夜の体は落下し始めた。足元が抜けたように、下へ下へと落ちていく。環夜は目を瞑った。恐怖を和らげるように自分に言い聞かせる。
――大丈夫。これは夢だ。落ちても死なない。
やがて、環夜は地面に到達した。ものすごい衝撃と音が体に伝わったが、不思議と痛みはない。それと同時に真っ暗だった視界が開けていく。中心から真っ白な光が差し込み視界を広げていく。
やがて環夜の視界に映ったものは、どこかの天井だった。今度は夢か夢でないか。まだわからない。
環夜の体は重かった。体中に砂袋を装着されているようだ。首を動かすどころか、瞼を開けていることも疲れてしまう。
なんとか動きの悪い首を動かして、環夜は辺りを見渡した。見たところ、環夜が睡眠薬を飲まされて気を失った、研究所の一室だとわかった。此処は寝台の上なのだろう。
環夜の横たわる寝台の横には冬陽が座っていた。怖い顔をして壁を睨みつけている。
「気がついたか。手荒な真似をして悪かった。施術は無事終わったぞ」
環夜が目覚めたことに気がつくと、冬陽は顔を近づけて頭を下げた。施術でどんなことをされたのかは気になったが、環夜はそれよりも先に冬陽に言いたいことがあった。
「なんで…睡眠薬を使ったんですか。どうして何も言ってくれなかったんですか」
それだけが不満だった。冬陽から一言くれていれば、あそこまで警戒することも、不安になることもなかったというのに。
「言えば…お前は抵抗しただろう。上からの命令だったんだ。許してくれ」
冬陽は一層深く頭を下げた。環夜は生真面目に謝る冬陽を見て、不満の気持ちは薄れた。
「顔を上げてください…獅貴さんにはどう仕様もないことだったんですね」
冬陽は、環夜の言葉に安心したような顔をして頭を上げた。
環夜は重い体を起き上がらせると、あらためて部屋の中を見渡す。環夜の横たわっていた寝台後方にはもう一つ寝台があって、そこには彰が横たわっている。まだ目が覚めていないようだ。
環夜の服は私服から病院服のようなものに着替えさせられていた。
「あの…僕らは何をされたんでしょうか。施術って…?」
環夜の言葉を聞いて、冬陽は言いにくそうに視線を逸らした。
「獅貴さん、教えてください。何かあったら頼れと言ったのは獅貴さんじゃないですか」
冬陽は口を開かない。自分の中の何かと葛藤しているように見えた。
「…上から口止めはされていない。話すこと自体は問題ない。だが…お前は衝撃を受けるかもしれない。お前が立ち直れなくなったら…それは…困る」
――立ち直れなくなる?一体どんなことをされたのだろうか。
聞くのが怖い気もした。でも、環夜は知りたく思い、大丈夫だと冬陽に言う。
冬陽は言うか言うまいか迷っているようだったが、環夜が頼み込むと渋々口を開いた。
「お前たちの…頭を開いたんだよ」
環夜は無意識に手を頭に当てていた。頭には包帯が巻かれていた。
気が付かなかった。痛みはあまり感じない。
――頭を開いただって?
環夜は蒼白になる。手は震えていた。意味が分からなかった。反政府軍の仲間に入るだけなのに、何故頭を開かなければいけなかったのか。自分の頭はどう弄られてしまったのか。
「右頭の皮膚を少し切った程度だ。安心してくれ、頭を開いたのは…脳の中に埋め込まれている位置情報発信装置を取り出すためだから。あとは…腕の液晶のも…」
環夜は冬陽の言っていることを理解できなかった。
――位置情報発信装置なんて、頭に入れた覚えもない。入れていないものを取り出すことはできない。獅貴さんは何を言っているんだろうか。
「そんなもの…い、入れてないんですけど」
冬陽に訊ねる声が震える。
「ああ、入ってなかったよ。本当なら入っているはずなのに…お前の頭には国民の義務である位置情報発信装置が入ったいなかったんだ。だから、それほど頭も痛まないだろう。」
冬陽は気まずそうに言う。位置情報発信装置が入っていることが当たり前だという。
「義務…?位置情報発信装置は一体どんなものなんですか」
――名前からして想像はできる。位置情報に関するものだということはわかるけど、義務だという点がよくわからない。そんなこと学校でも習っていない。
「位置情報発信装置…生後八ヶ月以内に脳内に埋め込むことを国民は義務化されている。大脳と頭蓋骨の間に入れて、人工の骨で蓋をする。主な用途としては、国民の現在地把握と生存確認用かな。行方不明になった人がいれば、政府に頼むことで位置情報発信装置を辿って見つけてもらえるんだよ。そして、死ねば脳細胞が死んだことを感知して死亡届が自動的に政府に送られるようになっている。そして、国民として登録する…国民の証でもある。お前には入口がなかった。頭蓋骨に穴がなかったんだよ。人工の骨で作られた蓋もなかった。つまり…」
――位置情報発信装置がない僕は、国民の義務を果たしていない。国民ではない。
皇国民会館で政府軍の人間が言っていた言葉を環夜は再び思い出す。環夜のことを国民でないと言い、尋問した男のことを。
あの時、環夜の実母も存在しないと言われていた。あれは、実母である那智子が反政府軍だったからだと環夜はわかった。おそらく反政府軍の兵士たちは全員、位置情報発信装置を脳内から取り出し、国民登録から外れているのだ。でなければ今頃、反政府軍の基地は政府軍に突き止められ、兵士たちは処刑されているだろう。
――理解はできた。だが、納得はいかなかった。別に取り出そうとしたことにではない。僕の脳内にもともと入っていなかったことだ。僕は何故、国民登録されていないのだろう。母さんは僕を国民登録しなかった。出生届を出さなかったということだ。それに、だとしたら不可解なこともある。何故自分が上層地域に来られたのかということだ。昇降機乗り場も公共機関の一つだ。国民登録されていない人間が使えるというのは、普通は考えられない。だとしたら、なぜ使えたのだろうか。
「亜奏…気を落とすな。今となってはそれはいいことだ。我々は国民登録から外れているとはいえ、元々は国籍があった。だからこそ今でも見た目や血液型、遺伝子情報で捕まってしまうことや、自分が誰か露見してしまうこともある。だが亜奏、お前はそれがない。もともと国民でないんだ。反政府軍としても見つかりにくく、戦いやすいと思うぞ」
冬陽はおそらく環夜を慰めようとしていた。あまり意味がなかったが。その慰めは慰めになっていない。でも、環夜の心は少し軽くなった。嬉しかった。自分を気遣ってくれていることに心が温まった。
「ありがとうございます…獅貴さん」
環夜は聞こえるか聞こえないかという小さな声で呟いた。
二人がそんな会話をしているうちに彰が目覚めたようで、寝台から降りると二人の間に割って入った。
「何を話しているの兄さん?」
彰も頭に包帯を巻いているが環夜と違い、腕から点滴の管も伸びていた。
「彰…どこか悪いの?」
環夜は心配になって声を掛けるが、彰は苦笑して管を見せながら言った。
「私は脳内から取り出したからね。痛み止めを点滴してもらってるの」
――そういえば、皇国民会館でも彰は国民認証されていた。まあ、これでもう国民でなくなったということになるが。
環夜はそこで気がついた。脳から取り出した位置情報発信装置は、その国民を死亡判定するのだろうか。だとしたら、下層地域で彰の帰りを待っている義両親たちは彰が死亡したという報告を受けているかもしれない。
「獅貴さん…その、位置情報発信装置を取り外したら、死亡判定になるんですか。そうしたら彰は…」
冬陽は彰と顔を見合わせた後、首を縦に振った。環夜は思わず自分の着ている服の裾を握りしめた。彰の両親たちが娘の死亡届を受け取っている姿を思い浮かべると、息ができないほど苦しくなった。これもすべて自分が上層地域に来たせいだと。
そんな環夜を見て、彰は言った。
「大丈夫だよ。確かに死亡判定になるけど、大丈夫だか…」
「何が大丈夫なんだよっ」
彰の言葉に環夜は声を荒らげる。彰は環夜を気遣っただけだというのに、これでは完全な八つ当たりだ。
――彰、どうして平気なんだ。なんで大丈夫なんて言えるんだ。もう下層地域には帰れないかもしれないんだぞ。
彰はそれでも、大丈夫と言う。真意はわからない。何故そんなふうに言い切れるのだろうか。
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