第九話 怒り
仕方がなく環夜は宿に戻ることにした。来た道を引き返しているつもりだったが、すぐに自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
環夜は自分が迷子になったことを認められず近くを行ったり来たりするが、宿の位置が分からなくなった時点で迷子なのは確定だった。
――上層地域は広すぎるし、ありぞねが途中でいなくなるから。
環夜は心の中で言い訳をするが誰が聞いているわけでもないし、言ったところで状況は改善しない。結局、人混みから少し離れたところに見つけた公園に入り、噴水のある広場の長椅子に座った。
環夜は
――このまま宿に帰れなかったら、どうすればいいんだ。
環夜は頭を抱えた。アリゾネが戻ってくるまで待つか。いや、いつになるかわからない。
その時だった。環夜の肩に誰かが手を置いた。背筋が凍る。
環夜は恐る恐る振り返った。背後に立っていたのは環夜の義妹、彰だった。白に黒い襟の上衣に粗木綿の裳を履いて、黒くて艷やかな髪を両端で三つ編みして縛っている。
「あ、彰…」
環夜は声が震える。あんな別れ方したのだ。彰は当然、環夜に怒りを覚えているだろう。
だが、彰は肩から手を離し、環夜の眼前まで移動してくると笑顔で言った。
「久しぶりっ、兄さん」
環夜は彰のその態度に困惑した。
「彰…?お前、僕のこと嫌いなんじゃないのか?」
――いや、それよりもどうしてここに彰がいるんだろうか。彰は下層地域にいるはずなのに。
環夜の言葉を聞いて彰は怒ったような表情をする。そして、環夜の頰を思い切り抓り上げた。
「っうあ!」
環夜はあまりの痛みに頬を抑え地面に蹲った。抓られたところは頭まで響くほどの脈を打ち赤く腫れている。
「酷いな…やっぱり僕のこと嫌いだろ」
環夜は恨みも込めて彰に言うが、彰は呆れた様子でため息を吐く。
「なんで嫌いって思うの?」
環夜も彰の言葉にため息を吐く。環夜は眉を顰めて言う。
「いや、だってお前、家でもさんざん僕の睡眠を邪魔するし、怪力だし、声でかいし…すぐ怒るし」
「それは…兄さんのことを思って…」
彰のその一言に環夜は驚愕した。今まで環夜にとっていた態度は全て自分を思ってのものだったというのか。
――いや、そんなわけ無いだろ。
環夜は一人でに突っ込みを入れ、頭を抱える。自分の恐れていたはずの妹は目の前にいない。
環夜は混乱する頭を抱えたまま俯く。そんな環夜の額に彰は手を当てた。
「大丈夫?体調悪いの?」
環夜は鳥肌が立つ。こんな彰、自分の知っている妹ではない。
「お前…本当に彰か?」
環夜の言葉に彰は少し気持ち悪そうな顔をした。
「いや…、え、なんでわからないの?本当に大丈夫?」
彰の言葉に環夜は苛立ちを感じた。
――おかしいのはどっちだよ。
環夜は立ち上がりその場を離れようとする。こうしていても埒が明かない。誰かに道を聞けばいいのだ。彰もどきと一緒にいる理由はない。
長椅子から立ち上がり、公園の出口に向かう環夜の手を彰が掴んだ。
「待ってよっ」
環夜はその手を振りほどく。
「い、今更なんの用だよ。お前が本当の彰だとしても、僕を追って此処まで来た説明がつかないだろ」
環夜は彰を睨みつける。もう何も言い返せない自分ではない。環夜はアリゾネに出会ってから少しだけ心が強くなっていた。貴族相手に対等に接してきた経験が今役立っている。
「兄さん何か変わったね。前はもっと優しかったのに。あの時から違う…本当のことを知ったから?」
彰は環夜を俯いて悲しそうに言った。
環夜はそんな彰を見て、もう絶対に言い負けないと確信を持った。初めて彰に勝てたような気がした。
「臆病だったって思ってるだけだろ。それに、真実を知ってこうなったと思うなら、なんで会いに来た?嫌がらせに来たのか?」
環夜は追い打ちをかけるように言う。彰は体の前で組んだ手を握りしめて俯いている。何も言い返せない。
「もうついてくるなよ」
環夜はそう言い捨てて歩き始める。彰はそんな環夜を妨害するかのように立ち塞がった。
「黙っていたのはごめん。でも…どうして急に上層地域に?相談してくれてもよかったのに」
環夜は歩みを止めた。彰に向かい合い睨みつける。
「相談できたと思うか?お前だって知ってて隠してたんだろ?騙してた相手がなぜ騙していたなんてわかるはずもない。僕が真実を知ったと知られたらどんな扱いされるかわからない。言えるわけがない。…ありぞねに会わなければ…ずっと旧地下都市区域で生活していたよ。一生隠れて惨めな生活を送っているところだった。今の僕がいるのは、ありぞねのおかげなんだよ」
環夜は今まで思っていたことを全部解放した。言ってしまえば案外心は軽くなる。そう思っていたのに、次々と不満や怒りは溢れてくるのだ。
「旧地下都市区域?そっか…やっぱり…。私たちのこと…そんな風に思っていたの?私たちがそんなことをすると?」
「思っていたさ」
環夜は冷たく言い放つ。最早、彰を怖いとは思わなかった。
「…それは、私たちのせいだね。こんな態度を兄さんにとられるのも自業自得だね。…本当にごめん。でも…ありぞねっていう他人のほうが信じられるっていうのはおかしいよ。兄さんは騙されているんだよ」
彰も負けずに言い返すが環夜は動じなかった。
「騙されていても構わないさ。ありぞねはいい奴だよ。お前たちよりはずっといい奴だ。どの口がそれを言えるんだ?」
彰はもう何も言えなかった。俯き、手は震えている。地面に水滴が落ちた。
――泣いているのか。でも、僕のほうがずっとつらい思いをしたんだ。
環夜は涙を流す彰を置き去りにして公園を離れた。
アリゾネを信じているというのは本心だった。少なくとも今、唯一の理解者なのだ。嘘つきの早日家とは違う。
公園を出てから環夜は宿を目指した。当然、道が分からないので辿り着けない。
公園に戻るわけにも行かないので途方に暮れていると、利き腕の液晶が微かに光った。画面を立ち上げると電子郵便箱の印が赤く点滅している。環夜は恐る恐るそれを押して画面を開いた。
電子郵便箱には一通手紙が届いていた。
――そういえば、母さんの手紙は電子じゃなくて紙だったな。
環夜はそんなことを頭の片隅で思いながら、送られてきた電子手紙を読んだ。
差出人はアリゾネだった。
――ありぞね、いつ僕の電子番号を知ったんだろう。
アリゾネは本当に不思議な行動を取る。貴族だからと全て理由がついてしまうのが怖いところだ。少し信頼しているとはいえ、環夜の個人情報を全て持っていると思うと恐ろしかった。その気になればアリゾネは環夜を暗殺したりすることもできるだろう。
『環夜へ
さっきはごめんね。この埋め合わせはまた今度するから。
それよりも、宿には帰れた?まだ色々案内できてないし、道に迷っちゃうかもしれないかなって思って。
だから、地図機能をあげるよ。本当は有料だけど、全都市の地図をあげるから役立ててね。貴族街のも入ってるけど、それはなるべく見ないでね。
貴方の同志ありぞねより』
最後の文章で少し手が震えたが、手紙に添付してある合言葉を環夜は機能検索という画面を立ち上げ打ち込む。画面が読み込まれると地図が表示された。
「アイミ…ウエタノ…オカイ…キクセ…ケコクワ…サシイ…スセカ…ソタア?」
環夜は合言葉を読み上げ、首を傾げた。聞いたことない言語だ。前にアリゾネが言っていた古語かと環夜は思う。
表示された地図は本当に細かいものだった。一般市民は到底手に入れられなさそうな精密な地図。本当に貴族街のものまである。それに、なぜか題名のわからない地図もある。開こうとしても暗号入力画面になってしまう。気味が悪い。
環夜は一先ず、上層地域首都と書かれた地図を開いた。詳細な地図だからか、宿までの道はわかりやすかった。
環夜は地図を見ながら歩き始める。十分ほど歩くと無事、宿についた。
部屋の鍵を受付で受け取り、部屋に戻る。
――それにしても、彰は何で上層地域にいたのだろう。いや、もう関係ない。気にしないほうがいいな。
環夜は寝台に寝転がると目を瞑った。時計を見るとまだ三時。寝る時間ではない。
顔を洗い目を覚ますと、環夜は先程貰った地図を開いた。明日の予定を決めるのだ。だが、地図を入手したところでわからないことはわからない。
――一先ず、ありぞねに訊くべきだな。
環夜は電子手紙を書くとアリゾネに送った。上層地域で働ける場所と実母の行方について情報を得られたかを書く。
返事はすぐに返ってきた。
『環夜へ
まず、働く場所だけど、ちょっとすぐは見つからない。なるべく早く探すね。私に任せておいてくれていいから。宿代はしばらくの間、私が出すからね。
お母さんの事はまだ何も掴めていないの。ごめんね。何か環夜も情報を持っていたりしない?
今私も、ちょっと動けなくて…いや、物理的な意味じゃないんだけど、忙しくて…。
また会えるようになったら連絡するね。それまではゆっくりしててくれてもいいから。
ありぞねより』
急いで書いたのだろう。いつも最後に書かれている『貴方の同志』がない。
環夜は電子手紙を閉じた。探してくれているとはいえ、自分でも探さなかて本当にいいのだろうかと思うが、善意には甘えるべきだ。
――でも、実母探しは自分でやろう。
再び地図を開く。拡大し、情報集めに最適な場所を探す。と、そこで目に止まったのは皇国民会館だった。
皇国民会館は皇国民なら誰でも利用できる公共施設だ。中には職業案内場も設置されていて、過去の推薦履歴や、どの会社に誰が就職しているかがわかるようになっているという。
アリゾネが探して分からなかったと言っていたのだから望みは薄いが、行ってみる価値はあると環夜は考えた。地図上に目的地を指定しておいて地図を機能を切る。
起き上がり窓辺によると、窓掛けを開けて外を見た。人工の夕焼けは下層地域でみたものよりより一層美しく、赤い光が硝子張りの建物に反射して宝石のように光り輝いている。
――この何処かに僕の母さんはいるんだ。
環夜は拳を握りしめた。いよいよ実母を捜す時が来たのだ。一度も会ったことのない母親に、環夜は早く会ってみたいと思った。
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