第七話 アリゾネと二人で
真っ黒な空間に環夜は一人で立っていた。辺りを見渡しても誰もいない。そこで分かる。
――また、夢の中か。
その時、環夜の肩を誰かが掴んだ。環夜は慌てて振り返る。
背後にいたのは早日家の、環夜の義妹、彰だった。
「彰っ?何で此処にっ……いや、夢か」
一瞬、驚いたが、環夜はすぐに夢なのだと自分に言い聞かせる。
――まだ罪悪感が残っているのか。勝手に出ていったこと。
「彰、手を離せっ」
夢の中だからか強気の環夜。肩に置かれている彰の手を払い除ける。彰は反動で数歩後ろに蹌踉めいた。
体制を立て直した彰は、ありえないほど前のめりになっていて顔は見えない。体を左右に揺らしながら環夜に近づいてくる。
「な、なんだよ。こっちに来るなっ」
環夜は、その可怪しな動きに恐怖を覚え、彰から逃げ回る。だが、黒い空間はどこまで行っても黒いままで出口も何も見つからない。
――これは夢なんだ。怖がる必要はない。あの彰は偽物なんだぞ。
分かっていても脳が理解するのは難しい。恐怖を消すことはできない。環夜の中の罪悪感が幻を見せているのだ。
「来るなっ、やめろ…来るなよ…」
夢の中で彰は環夜を追う。その足の速さは環夜よりも断然速い。当然、追いつかれてしまう。
「やめろっ、僕は…僕はもう…違う。お前たちは他人だっ。ずっと僕を騙していたくせに…今更…一体何なんだよっ」
夢だと分かっていても、つい声を荒げてしまう。だが、彰には敵わない。肩を掴まれて後ろにひっくり返される。
「…酷い。何でそんなこと言うの?」
環夜の顔を覗き込んで彰が低い声で呟いた。大きな瞳の奥は何も映らないほど黒い。まるで――地獄への穴だ。
目が覚めた。そこは黒い空間ではなく、宿屋のよく洗濯された真っ白な布団の上だった。
部屋に置かれた電子時計を見ると九時三十分となっていた。
「じ、時間…か」
環夜はゆっくりと体を起こす。悪夢を見た所為か、全身が筋肉痛だ。全身の毛穴という穴から大量の汗が流れ出て寝巻きを濡らし、手も震えている。喉は痛むほどに渇いていた。
寝台から降りると冷蔵庫を開け、宿屋から貰った水を息する間もなく飲み干す。干からびた大地が潤されるように喉に水分が戻る。
環夜は寝台に腰を下ろし、一息ついた。
――あんな恐ろしい夢、もう二度と見たくない。
環夜は彰が恐ろしかった。年下なのに、自分よりずっと強気の彰には逆らえない。彰の前では強くでられない。
そんな彰が勝手に家出した環夜のことをどう思うかなんて想像できる。だからこそ怖いのだった。それに、彰だけではない。早日家の両親、彼らにも黙って出てきた。十五年間育ててもらった恩を仇で返して。手紙一枚で飛び出してきた。決して許されることではない。どんな事情があろうとも。そんなことぐらい環夜も分かっている。自分があの時、感情的に行動したことも。
でも、それがあってこそアリゾネとの出会いがある。上層地域にも来ることができた。下層地域に引き篭もっているよりも、実母を探すのにずっと望みはある。
だからこそこれからが肝心だ。家を出て、早日家の人間を裏切ってまで踏み出した一歩を、さらに進めていかなくてはならない。できるだけ早く、実母を探し出すのだ。
そのためにはアリゾネの協力が必要だ。
環夜は寝台から腰を上げ、昨日と同じ服に着替えた。そろそろ、この服ともおさらばして新しいのを買ったほうがいいと思う。少し臭う。
荷物を全て持ち、部屋の鍵を持って受付まで行くと、吹き抜けに並ぶ椅子の側にアリゾネがいた。体が大き過ぎて合う椅子がないのか、椅子には座らず立っていた。
「環夜っ、おはよう。朝ごはんは外で食べるよ」
アリゾネはすごい勢いで近づいてきて環夜の手から部屋の鍵を奪い取ると、受付まで行き風の早さでそれを返却した。そして、数時間前と同じように環夜の手首を掴むと強引に歩き出した。
環夜は先ほどのように引きずられてはいけないと慌ててアリゾネを静止する。
「まって、自分で歩けるから」
環夜の言葉にアリゾネは少し残念そうな顔をした。よほど環夜と手が繋ぎなかったのだろう。頬を膨らませ、不貞腐れている。環夜は苦笑して手を差し出した。
「強く引っ張らなければいいよ。君と僕の体格差だと、僕が引きずられちゃうから」
アリゾネは環夜の言葉を聞いて少し安心したような表情をした。そして、環夜の脇の下に手を入れると、いきなり環夜を持ち上げた。
「え、えっ、ありぞねっ?ちょっと…やめてよっ」
環夜はアリゾネに抱き上げられてしまった。
地面から急激に遠ざかり、環夜は目眩がした。だが、アリゾネは嬉しそうに環夜を抱きしめている。
「引きずってたのはごめんね。気が付かなくて。抱っこしてれば引きずらないで済むから、これでいこうっ」
アリゾネは本気のようだった。環夜は青ざめてアリゾネの腕の中で必死に藻掻く。
――こんなもの公開処刑じゃないか。貴族と一緒ってだけでも目立つのに抱き上げられてなんかいたら、変な噂が立ってしまう。母さんを探す前に警備署行きになるぞ。
環夜があんまりにも藻掻くので、アリゾネは環夜を地面に下ろした。
「どうして暴れるの?」
本気でわからないのかと環夜は思ったが口には出さない。安易に無礼な発言だと思われるようなことは言えない。
「いや…恥ずかしくて。それに…貴族に抱っこされるなんて…無礼だろ?」
本心も混ぜながら環夜は嘘をついた。恥ずかしいのは本心、無礼かどうかは考えていない。ただ目立ちたくないだけだ。
「そっか…、別に私は気にしないんだけどな」
――君が気にしなくても僕が気にするんだよ。
思わず口に出しそうになる。負の感情を心の奥に押し留めておきながら環夜は結局、手を繋ぐことにした。こちらとしても迷子になる可能性は除外したいからだ。
「ゆっくり歩いてよ」
環夜は何度もそう言う。アリゾネも大げさにゆっくり歩いてくれた。
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