第六話 見知らぬ街、知らないこと
先ほどより長かったか短かったか、定かではないが昇降機は速度を落とし、止まった。上層地域に着いたのだ。
昇降機の扉が開いて、目の前の景色に環夜は驚き、感動した。
硝子で作られている隧道のような通路、遥か下まで透き通る水晶の階段。壁には乾燥した多色の花々が飾られていて、拡声器からは西洋の芸術曲が流れている。
それだけでも、此処が上層地域でこの国の首都なのだとわかる。更には、廊下の中央天井に『首都【
上層地域の迫力に呆けていた環夜は昇降機乗り場の扉外に出た瞬間、目の前にでてきた大きな顔に驚き後ろにひっくり返った。
「うわっ!あ、ありぞね…?」
兎のような触角に大きな図体。肩につくかつかないかほどの長さで蒼み掛かった銀色の美しい髪。
それはまさしくアリゾネだった。結局電話を待てずに、此処で待ち構えていたようだ。
「環夜っ、ようこそ上層地域へ」
アリゾネは環夜の体を腕の中に包み込んで抱きしめた。環夜は藻掻いて腕の中から慌てて脱出する。
貴族相手にこんなことしているのが露見すれば確実によくないことが起こる。貴族を信仰し、敬う国民はとても多い。そういう人々を全員敵に回すことになるのだ。そんなことしたら殺されてしまうかもしれない。
環夜はアリゾネから一定距離離れた。アリゾネは不満そうに頬を膨らませるが、環夜は無視した。
――ありぞねは少々、考えなしすぎる。君はいいかもしれないけど、大変な思いをするのは僕の方なのに。
アリゾネは不満そうにしていたが、気を取り直したように環夜の腕を掴んで引いた。
強引だったが、環夜は若干引きずられるようにして後をついて行った。
昇降機乗り場の建物から出ると、下層地域とは比べ物にならない絶景が広がっていた。天井の人工夜空も何もかも規模が違う。街は高層の建物が多く立ち並び、建物を照らす光が地上に広がる星の海のようで美しいものだった。
「旧地下都市区域に似てる…」
環夜は呟く。今日、数時間前までいた旧地下都市区域の建物たちと並びが酷似していたからだ。環夜の言葉にアリゾネは当たり前のこととでも言うかのようにため息を付いた。
「何言ってるの環夜。旧地下都市区域は昔の首都なんだから配置が似てて当たり前でしょ。今の首都は旧地下都市区域を模して作られたんだから」
環夜は納得したが、納得できなかった。下層地域の学校では、その程度の知識も教わらなかった。下層地域と上層地域では教育の質も大幅に違うことがわかる。環夜の知らないことも、まだまだ多くあるだろう。
――もっと、知識をつけたい。母に会った時に恥をかかないくらいに。
環夜は自分の知識の浅さを恥じた。
そんな環夜を見て、アリゾネは慰めるように言う。
「まぁ、これから学んでこうよ。色々案内するからさ」
環夜は自然と表情が和らぐ。アリゾネに心を開いていった。
アリゾネと環夜は首都中心にある大通りを歩いていく。途中、小洒落た雑貨屋や数多くの飲食店、公共施設の規模も下層地域とは大きく違った。とにかく、すべての建物が見上げるほど大きく、硝子張りになっている。車道には、下層地域で見たこともないような新車や大型の車が絶え間なく走っている。歩道も人で溢れかえっていて、歩いているというよりは人の海で泳いでいるようだった。
ふと見上げた上空には透明な車道があって、そこにも車が走っている。いや、飛んでいると言うべきか。
環夜はアリゾネと逸れないように、よそ見をするのをやめた。こんなところで逸れたら迷子になってしまう。
大通りから少し外れ、小道というには少し大きめの人通りの少ない道に出ると、アリゾネは足を止めた。急に止まったので、その背中に環夜は顔面から激突する。ぶつけて痛む鼻を押さえながらアリゾネの隣に並ぶ。
「どうしたの?急に立ち止まって」
尋ねる環夜だが、アリゾネは何か考えた様子で自らの懐を漁っている。
「…あんまり目立ちたくないんだよね環夜は」
アリゾネの言葉に環夜は違和感を覚える。
――そんなこと話した記憶はないんだけどな。何で知っているんだろうか。
アリゾネは環夜の口に出していないことまで把握していた。それがなぜなのかとても気になったが、環夜は訊くことが出来なかった。だから、ひとまず返事だけはしておく。目立ちたくないことは事実だ。
「だよね。じゃあ、このホテルがいいかなぁ…」
「ほてる?」
聞き覚えのない言葉がでてきて環夜は困惑した。
そんな環夜を見て、アリゾネは慌てた。
「あっ、やば…。あ、知らないよね。今は使われてない言葉だから…あ、えっと…宿のことなんだけど…太古の昔に使われていた古語なんだよ。日本皇国じゃない国では使ってるところもあるよ。主流じゃないから知らなくてもしょうがないよ」
先ほどのことがあったからか、アリゾネは環夜を気遣うように言う。だが、環夜自身は全く気にしていなかった。それよりも疑問のほうが強かったのだ。
「貴族は使ってるの?」
貴族は頭がいいのか。だから使えるのか。うっかり口にしてしまうほどだ。普段なら使っているのだろう。おそらく、環夜と会話するときは気を付けて使わないようにしてくれていたと推測できる。
「使っていると言うか……………その…色々、研究しててね。それで知ってる人もいるというか…」
アリゾネが目を泳がせながら言う。あまり言いたくないことなのだろうか。
――僕を気にする必要なんてないのに。
環夜はアリゾネの態度に少し苛立ちを感じた。知識が豊富ならそれを誇ればいい。それとも、こんなこと当たり前だとでも言いたいのか。なぜ慌てるのか理解できなかった。
「とにかく、宿はここを使うといいよ。お金は貸してあげるから」
アリゾネは話題を変えたいとでも言うように大声で言う。環夜は気になったが一先ずそれは置いておいてアリゾネの提案に乗った。
「貸してくれるの?いつ返せるようになるかわかんないけど…」
環夜は不安そうに言う。まだ仕事も決まっていない。返せる見通しがないのに借りていいのだろうかと今更ながら思う。アリゾネに頼ろうと思っていた心が揺らぐ。今、目の前にいるのは、やはり貴族だということを改めて実感したからだ。そんな貴族に借りを作ろうとしている。
アリゾネは笑顔で答える。
「何言ってるの、私たちは同志でしょ。仲間には頼ってよ。大丈夫っ、返すのはいつでもいいし、利子もなしにするから」
――利子もなしで返済期間も定めないのか?金銭面は余裕だとでも言いたいのか。そんな都合のいいことがあるわけがない。
環夜は負の感情が湧き出る。環夜の悪いところだ。何もかも悪い方向に考えがちな癖をなくさなくてはいけない。そう思いながら未だにこのままだ。
だが、環夜に選択肢はない。善意に甘えるしかない。
「じゃあ、お願いしてもいいかな。なるべく早めに返すね」
「うん、じゃあちょっとまってね」
アリゾネは頷きそう言うと、懐から昇降機搭乗券とはまた別の見た目をした金属板を取り出した。
「これは…?」
環夜は首を傾げ、金属板を見つめる。アリゾネは苦笑して離れるように環夜に言う。
「利き腕の液晶に、この金属板を翳して」
環夜は言われたとおりにした。液晶の画面を立ち上げ、画面を切り替えると金属板を翳し読み込む。電子的な音がして液晶内に残高表示がされる。
「埋め込み型の電子財布にお金を振り込んでおいたからね」
残高を見て環夜は驚愕した。残高が七万二千円に変わっている。七万円も振り込まれたことに環夜は手が震えた。いきなりこんな大金を持ってしまったことが不安だった。
「ありぞね…ちょっと多くない?」
環夜はすかさず訊くが、アリゾネは端金だとでも言うような顔をした。
「生活必需品も買わなきゃいけないでしょ。宿は安いけど貰っておいていいよ。てか、環夜は遠慮しすぎ」
アリゾネはそう言って笑う。環夜は顔を赤くした。疑り深い環夜と、価値観の違うアリゾネ。なかなか分かり合えないのも無理はなかった。
「じゃあ、もう行こうか」
アリゾネが気を取り直したように言う。環夜が慌てて時計を見ると、三時と表示されている。空はまだ暗いが、いつの間にか時間が経っていたようだ。眠気がすごい。
「ありぞね、申し訳ないけど…僕すごく眠くて…少し寝てからでもいいかな。街を案内してくれるんだよね」
環夜の言葉にアリゾネは盲点だったとでも言うような顔をして頷く。
「そうだよね、眠いよね、ごめんね。街案内は十時からにしようかな。それまで宿で寝てていいよ。迎えに来るね」
そう言ってアリゾネは大通りの人混みに消えていった。環夜は引き留めることが間に合わずに溜息を吐いた。
――謝らなくてもいいのに。
そう思っても、すぐさま言葉にはでないものだ。
仕方がないので、アリゾネの好意に甘えて寝かせてもらうことにする。
アリゾネと別れた後、環夜は眼前に見える上層地域にしては少し錆びれた建物の中に入った。
宿の中は大きな吹き抜けの空間になっていて、中央にある受付に環夜は向かった。受付に立つ人を見て環夜は驚いて言葉を失った。受付にいるのは紛れもなく機械人形だった。動きは人間のように滑らかだったが肌の質感が機械だ。それに、どちらの腕にも液晶画面がついていない。
液晶画面を埋め込むのは国民の義務だ。幼少期に埋め込まれる。
そして何よりも機械人形の胸元には名札がなかった。接客業の職員は名札の着用が義務化されているが、機械人形には付けてはいけない。これは環夜の通っていた学校でも習った。
『いらっしゃいませ。こちらは中央中級宿屋〝迷い人の集会場〟です。今日は独暦二百四十年七月二十六日、現在の時刻は午後十五時です。一番安価なお部屋で一泊五千円、一般的なお部屋で一泊一万円、一番高価なお部屋で一泊一万五千円です。いかがなさいますか』
受付の機械人形は電子音声でそう言うと、宿泊できる部屋の一覧表を環夜に見せた。
――独暦と、今言ったか。上層地域では独暦を使うのか。
独暦と西暦があるのは知っていたが、下層地域では旧暦である西暦の方を使っていたので環夜は少し驚いた。そして、上層地域らしいとも思った。独暦は貴族が作ったものだと学んでいたからだ。
環夜は一番安価な部屋を選んで受付を済ませると、部屋の鍵となる金属板を貰って、小型昇降機に乗る。上層地域に来る時に使った昇降機と違い、安全固定装置はなかった。しかも、座るのではなく、立って乗るらしい。
壁にある数字の三が書かれた釦を押すと昇降機は動き出した。昇降機に乗ることにも少し慣れたが、立って乗ると蹌踉めいてしまう。
三階に着くと、部屋番号を見て探す。数え切れないほどの部屋が細い廊下を挟むようにして並んでいる。下層地域では此処まで大きな宿はなかった。これで格安の宿だということを環夜は信じられなかった。受付では一泊で五千円だと言われたが、環夜にとってそれは破格の値段だった。下層地域では上等な部屋で五千円掛かるか掛からないか程度だった。
「四七番の部屋…四七番…ここか」
環夜は扉に『四七』と書かれた部屋の前で立ち止まった。扉の取手についている液晶画面に金属板を翳す。鍵の開く音がして扉が開いた。
中に入り一段上がっている床の前で外履きを脱ぐ。細長い廊下の先には扉がもう一つあって、開けると八畳くらいの部屋があった。一人用の寝台と壁に埋め込み式の受像機が一台ある。簡易的な台所には冷蔵庫と電子加熱箱がある。電子加熱箱は上層地域に来て初めて見るものだ。下層地域にはどこに行っても売っていなかった。隣の小部屋には水浴び用の蛇口と浴槽がある。その横には閑所もついていた。
外は少し明るくなってきている。だが、環夜の眠気は強くなる一方だ。窓掛けを閉め、寝巻きに着替え寝台に横になる。
瞼は自動的に閉じていった。外の明るさを気にもとめず環夜は夢の中に落ちていった。
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