第五話 いざ上層地域へ

 西側の扉を開けると細長い隧道のような通路があり、突き当りには硝子の引き戸があった。環夜は戸をくぐった奥に見える金属でできた丈夫そうな扉に向かった。扉の近くには若い黒髪の男が立っていた。二十代前半くらいだろうか。胸に名札の板をつけているので、ここの職員なようだ。


「亜奏様ですね。私は灯野明とうのめといいます。昇降機についてご案内させていただきます」


 灯野明は環夜が近づいてきたことがわかると流暢にそう言った。男だと言うのに女のような声だ。

 環夜は先程、春戸から貰った引換券を灯野明に渡した。


「はい、確認させていただきました。下層地域から中層地域行きの切符と中層地域から上層地域行きの切符をお渡ししますね」


 そう言うと灯野明は環夜に二枚の切符を渡した。環夜は受け取ると上層地域行きの切符を鞄にしまった。


「昇降機に御搭乗なされたら、中にある椅子にお座りください。昇降機が到着し、完全に動作が静止するまでは椅子から立たないでください。安全固定装置は絶対に外さないでください。扉は自動で開閉しますので絶対に触れぬようにお願い申し上げます。万が一、昇降機が止まってしまった際は扉横にあります非常緊急連絡用の釦を押し、救助隊が来るまでお待ち下さい。決して自力で脱出しようなどとは思わないで下さい」


 灯野明は一息でそう言った。環夜は切符に確認印を押してもらいながら頷く。


「中層地域に着きましたら、降りてすぐにいる職員にお声掛けください。上層地域行きの昇降機にご案内いたします」


 灯野明はそう言うと、環夜が昇降機の中に乗り、椅子に座ったことを確認すると安全固定装置をしっかりと閉めた。灯野明が昇降機内から出ると、扉は自動で閉まった。

 環夜は緊張で汗が噴き出た。手が震えている。生まれて初めて昇降機に乗るのだ。想像していたよりも注意事項が多かったため、より緊張しているのだ。


 ――事故が起きたらどうしよう。


 不安は環夜の心臓まで届き、口から心臓が飛び出るのではないかと思うほどに鼓動が高まる。


 やがて、昇降機はゆっくりと動き始めた。その何とも言えぬ浮遊感に環夜は吐き気がした。

 頭痛がし、視界が歪む。独特の浮遊感と重力に逆らう反動、揺れる昇降機の中で環夜は目を瞑り、ひたすら苦痛に耐えた。昇降機から外の様子は見えない。今どこにいるのかすら分からない。上に向かっていることしか。昇降機は加速していった。


 ――下層地域で乗っていた自動運転型の車よりも速度がでている気がする。


 

 長い、とても長い時間に感じた。昇降機は徐々に速度を落とし、止まった。

 環夜は目をゆっくりと開いた。まだ吐き気はなくならないが、ひとまず止まったことで軽減した。

 昇降機の扉が開くと『茨従まつより』という名札をつけた茶髪の女性が環夜の安全固定装置を外した。今日会った中で一番年を取っているように見えた。


「到着です。お疲れ様でした。今日中に上層地域行きに搭乗されますか。それとも、一泊なさってから搭乗いたしますか」


 見た目の年に反して、とても若々しい声だったので、環夜は驚いてしまった。顔が老けているのか、声が若々しいだけなのか。まぁ、そんなことはどうでもいいか。

 茨従の言葉に環夜は悩んだ。確かに疲れていた。もう一度同じのを味わうと思うと、少し休憩したい気持ちにもなる。だが、環夜に無駄な出費は許されなかった。上層地域で職を得るまでは節約しないといけない。

 選択肢は決まっていた。


「今から乗ります」


 環夜はそう言って、上層地域行きの切符を渡した。

 茨従は奇妙なものを見るような顔をして、切符に確認印を押した。


「え、今からだと上層地域で宿泊できるとこ…多分ありませんけど…いいですか?」


 茨従は少し心配そうに言った。だが、環夜は野宿してでも出費を減らさなくてはいけない。それに、上層地域についたらアリゾネを頼る気でいた。そもそも、アリゾネが環夜を上層地域に招いたのだから対応してくれる可能性はある。金銭の少ない今は賭けに出るしかない。


「はい」


 環夜の返事に茨従は溜息を付いて呆れたような視線を向けた。おそらく環夜の無計画さを見て、呆れたのだろうが。

 茨従は舌打ちをしてから昇降機の説明に入ろうとしたが、受付で電話が鳴ったので駆け足で取りに行った。

 

 茨従が通話をしている間、環夜は鞄の中身を再度、確かめた。残り一口ほどの水が入った簡易水筒、小さな乾燥麵麭五枚入りが一袋、使用済みの下着が二日分、昇降機搭乗券が三枚だけだ。もう、鞄の重みもほとんどない。右腕の液晶画面の中にある電子財布の中にも二千円程しか入っていない。このままでは上層地域に到着しても暮らしていけない。これは事実だ。だからといって中層地域で宿泊できるかといえば、それも怪しい。そもそも二千円でできることなど限られている。環夜は肩を落とした。アリゾネを頼りにしようと考えているが、もしアリゾネに会えなかったら環夜の人生は真っ暗だ。


 第一優先事項は今夜寝泊まりできる場所を探すことだ。最悪、また公園で寝ることになるだろうが。格安の宿でもいいから泊まりたいものだ。

 第二優先事項は職を探すことだ。実母を探す前に職がなければ公共交通機関もまともに使えない。移動ができなければ探すこともできない。


 課題は山積みだった。自立することはこんなにも難しいのだと環夜は初めて思い知ったのだ。早日家の両親を恨んではいたが、確実に今までは彼らに世話になっていた。それが今、環夜の骨身に沁みた。それと同時に不安にもなってきた。本当に実母を探し出せるかも、明日まで生き延びられるかどうかも定かではないこの状況に不本意ながら笑ってしまう。絶望的に枯れた笑いだ。


 やがて茨従が戻ってきた。何やら真っ青な顔をして、立ち止まると同時に環夜に向かって頭を下げた。手には電話機器が握られている。


「あ、あ、あの…で電話です」


 茨従はどもりながらそう言うと環夜に電話機器を渡した。環夜は状況を飲み込めずに問う。


「え、これどういうことですか?」


 環夜の言葉に恐れ入ったという様子で、茨従は地面と見つめ合いながら答えた。


「き、貴族のアリゾネ様からお電話です」


 環夜は一瞬呆然とした。まさかアリゾネから電話がかかってくるなど思いもしなかったからだ。


 ―――それにしても、ありぞねはどうやって僕がここにいることを知ったんだろうか。


 環夜は首をかしげる。確かにおかしなことだった。貴族は超能力でも使えるのだろうか。

 ひとまず、環夜は電話機器を受け取り耳に当てた。


「もしもし…?」


 実際、アリゾネと環夜が会話するのはこれが二度目なのだ。どのように出たらいいか分からない。これまでのことをなかったことにされる可能性もある。罠にはめられた可能性も。


『あ、環夜?昇降機、無事乗れたみたいだね。私の友人から聞いたんだよ。君を見たって』


 環夜の予想とは裏腹に、アリゾネの弾んだ声が返ってきた。


「ありぞね、何で急に電話を?」


 環夜は率直に疑問を投げかけた。前回よりも会話がしやすいと思う。電話越しだからだろうか。


『あのね、上層地域に着いたら街を案内してあげようかなって思って。環夜、今お金ないでしょ』


 アリゾネは、まるで心を読んだかのように環夜の考えていたことと同じことを言う。環夜はそれを少し怖く思えた。


「何で、そんな事が分かるの?」


 環夜は怖々と訊く。アリゾネは可笑しそうにしながら答えた。


『だって環夜、旧地下都市区域で浮浪生活送ってたし、お金ないんだろうなって思って。だから同志の誼で助けてあげようと思ったんだけど、いらないお世話だった?』


 環夜はその言葉を聞いて、アリゾネを疑っていた自分を恥じた。アリゾネは本当に同志として自分のことを扱ってくれていたということを改めて感じた。


「ありぞね、ありがとう。ぜひ頼らせてもらうよ。君の言う通り所持金が二千円程しかなくてね。恥ずかしいよ」


 環夜は苦笑しながら言った。アリゾネも電話の向こうで笑っている。


『じゃあ、個人電話に私の番号を登録しておいて。着いたら電話してよ』


 だが、その後のアリゾネの言葉に環夜は驚きのあまり大声を出してしまう。


「えっ、個人電話っ?でも…君は貴族だ。貴族と個人的に連絡先を交換するのはあまり良くないんじゃないかな。無理だよっ」


 環夜があんまりにも全力で拒否するのでアリゾネは怒ったような声を出した。


『私たちは同志でしょっ。同志なら連絡先知っていても別におかしくないよ』


 アリゾネの言葉を聞いたあとも環夜は少し悩んだ。軽い気持ちで交換してしまって、後で大事にならないかが不安だった。


『ねぇっ、お願いっ』


 アリゾネの押しの強さに環夜は負けた。右腕に埋め込まれている液晶画面から電話機能を選択して番号を入力する。


「登録したよ。これでいい?」

『いいよ!じゃあ、上層地域に着いたら連絡頂戴ね』


 アリゾネは満足そうに言うと、電話を切った。勢いに負けた環夜は項垂れる。やはり、貴族の圧には逆らえないのかもしれないのだと。

 環夜はもう繋がっていない電話機器を茨従に返した。茨従は先程よりも一層怯えた表情で環夜を見た。貴族と砕けた口調で話している環夜を見たからだろう。


 茨従は電話機器を受け取ったあと、環夜に向かって深いお辞儀をしたまま、早口で言った。


「先程は本当に申し訳ありませんでした。まさか貴方様が貴族様とお知り合いだとは思いませんでした。無礼をお許しください」


 茨従の体は震えていた。それを見て、環夜はとても気分が悪くなった。貴族と関係しているだけで、この変わりように少しうんざりしたのだ。先程まで環夜を小馬鹿にしていたのに今は媚びへつらっている。要するに、それだけ貴族の権威は高く、貴族の存在が価値あるものだということだ。少なくとも一般的には。

 茨従は先程とは打って変わった態度で環夜に昇降機についての説明を始めた。


「昇降機の注意事項につきましては、先ほど搭乗なされていたものと変わりありません。亜奏様、昇降機乗り場に付属している宿ならば、貴方様には無料で開放致しますので、どうぞ上層地域の受付でお申し付けくださいませ。では、いってらっしゃいませ」


 茨従が昇降機の扉を閉めると、先程と同様の時間がおとずれる。苦痛の時間だ。

 

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