からっぽじゃないから

冬部 圭

からっぽじゃないから

「俺はからっぽなんです」

 居酒屋で隣のグループにいた男がそんなことを言った。

「そんなことはないよ」

 男の連れはそんな風に宥めた。見知らぬ同士でどんな背景があるのか全く分からなかったが、からっぽという言葉が耳に残った。

 付き合いで参加した職場の忘年会で、周囲の話はぼんやりと聞いていた。誰の生まれがどこだとか、彼の出身校はいいところだとか、正直どうでもいい話だが、適当に相槌を打っていた。

 職場の仲間の話より、誰かもわからない見知らぬ男の独白の方がよほど、興味が惹かれた。だけど、聞き耳を立てるような余裕はなく、何がからっぽなのか、どうしてからっぽなのか知ることはなかった。


 二次会の誘いを断って家に帰ると、美紀が不機嫌そうに待っていた。酒好きなのに置いて行かれたのがご不満のようだ。朝は、職場の忘年会なので仕方ないと納得してくれていたはずなのに。

「ずるい。私も飲みに行きたい」

「わかったよ、来週末。一緒にどうかな」

と提案したが、

「今日がいい」

と取り合ってくれなかった。

「それなら、今から行こうか?」

 そういうとようやく機嫌を直してくれて、

「準備するから待ってて」

と支度を始めた。こんな時、二人だから気楽だななんて考えながら美紀の準備が終わるのを待つ。

 リクエストに応えて、昔一度だけ訪れたことのあるおしゃれなバーに入る。

「いいね。こういうの」

 美紀は目を輝かせている。どうやら、お眼鏡にかなったようだ。二人でカウンターの席に座る。

「何にする?」

「本格的なやつ。ノンアルコールで」

 頭の中で本格的=シェイクと解釈して、定番のノンアルコールカクテルを注文する。美紀はバーテンダーがシェイカーを振るのを楽しそうに見ている。

 僕は飲み慣れたジンベースの炭酸系のカクテルを頼んで、一息つく。

「今日の忘年会は、何か面白いことあった?」

 美紀は機嫌を悪くしていたことなど忘れたようで、そんなことを聞いてくる。

「そうだね、忘年会自体は普段通りで代り映えなかったよ。ただ、隣のグループから、不思議なフレーズが聞こえたかな」

 からっぽの話を美紀に伝える。

「からっぽか。なんなんだろうね。頭がからっぽ。財布がからっぽ。お腹がペコペコ」

「連れの男の人は、そんなことないよって言ってたから、違うかな」

 正直に思ったことを言う。

「じゃあ、心がからっぽ。どう?」

「そうかもね」

 なんとなくそれが正しいような気がしたので相槌を打つ。

「だとしたら、なんで心がからっぽなんだろうね」

 美紀が不思議そうに呟く。なんでこの話に食いついてくるのか理解できない。理解できないのは僕が酔っているからだろうか?

「これ、おいしいね」

 先ほど頼んだカクテルを気に入ってくれたようで、美紀はすっかり機嫌が良くなった。

「もう一杯頼む?」

「でも、別のにしようかな。ノンアルコールで」

 美紀はそんなことを言ったけれど、何を頼むかは自分で決めない。

「何かおすすめはない?」

なんて、僕に聞いてくる。バーテンダーに聞いたら、相談に乗ってくれるだろうに。

 でも、美紀は僕に聞いてきたので、なんで僕が注文を考えているんだろうと思いながらも、トロピカルカクテルからラムを抜いたカクテルを頼む。

 美紀は新しく置かれたカクテルに口をつけてから、先ほどの話を再開する。

「なんで、心がからっぽなんだと思う?」

「色即是空とか」

適当な答えを返してみる。

「それだと、全部からっぽでしょ」

それもそうか。

「大切なものがない、もしくは無くしたとか」

「大切なもの?」

 聞かれてもすぐに思いつくものはない。

「情熱をささげた創作。芸術。もしくはスポーツとかの競技。途中まではうまくいっていたのに目標を見失ったとか」

 またも適当な答えを返す。

「情熱がなくなったってこと?」

 美紀が補足してくれる。確かにその方がしっくりくるような気がする。

「情熱で満ち溢れていたのに、何かしらの原因で失われてしまった。情熱の抜け殻になってしまったから。だから、からっぽ」

美紀はそう言い直した後、自分で、

「いまいちだな。やり直し」

と否定した。多分、美紀の中ではこれという答えが既に出ているのだろう。同じ答えに僕がたどり着くのを待っている。そんな風に感じる。

「じゃあ、家族。恋人というのは?」

 正解するまで許してもらえそうにないことが分かったので、少し真面目に考える。全てをささげた恋人に振られたとか考えたけれど、美紀は気に入らないだろう。同じく家族を亡くしたなんてのも。

「大切な人を欲しいという気持ちが無い。人の気持ちがわからない。なんていうのは?」

「それ、自分のこと言ってる?」

 結構辛辣な意見が返ってくる。

「だったら、僕もからっぽかもね」

 そう言ってグラスを空けて、

「でも、それなら満たせばいい」

と、一杯目と同じカクテルをオーダーする。

 酔って、あまりうまく回らない頭でもわかる。

 美紀が不機嫌だった理由。飲みに行こうって言ったくせに飲んでいるのはノンアルコールのカクテル。

 美紀は僕が気付いたのがわかっている。僕は気付いたのに指摘していない。情けない僕に呆れて、腹を立てているのかもしれない。そんな様子は見せないけれど。居酒屋で自分のことを「からっぽ」と評した男と、僕をどこか重ねているような気がした。重ねているから、男を憐れんで、自分を憐れんで、僕に呆れているような。

「僕は美紀が満たしてくれるから、からっぽじゃない」

「酔ってる?」

「うん。かなり」

 更に呆れられたのがわかる。でも、構わない。見捨てられなければ。そして、美紀はこんな情けない僕でも見捨てない、広い心を持っている。と思う。

「僕には感情がある。世間一般に比べたら、薄い、淡い感情かもしれないけれど、それでも、ある。だから、今、じわじわと浮かんでくる喜びを嚙みしめているんだ」

グラスの泡を見ながらそんな言葉を紡ぐ。

「大丈夫。少しずつ満たしてあげるよ。もう十分、もう入らないってくらい」

そう言って、美紀は悪戯っぽく微笑んだ。

 きっと、僕が満たされることで、美紀も満たされていくんだ。そう思った。

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