祈り

花鳥あすか

第1話

『彼女は俺と出会う前の夏、交通事故に遭い亡くなっていた。』

 エリカは最後の一文を読み終えると、無表情で本を床に叩きつけ、夕飯の支度にとりかかった。

 今日はオムライスを作る。まずは卵を溶いて、フライパンに流し込む。卵が平たく固まると、それを皿に移し、今度はご飯とケチャップを和え、再びフライパンに火をつける。

 別に、創作に文句をつける気はない。表現の自由なんて、今どき小学生でも知っている権利だ。そう思いながらも、エリカの手つきは乱暴だった。肩を張りながら、しゃもじでご飯をぐしゃ、ぐしゃとかき混ぜ、フライパンを上下に激しく振る。

 でも、これを書いた作者は最低。どうせ、この一文で綺麗に締めた、とか悦に入ってるんでしょ。エリカの眼には、うっすらと涙が張っていた。皿をテーブルに運び、椅子に腰掛ける。その時、右足にいつもの痛みが走った。

 エリカは半年前、交通事故に遭った。自転車で歩道を走っていたところを、駐車場から出てきた車に撥ねられたのだ。原因は車の運転手の前方不注意だった。エリカは頭を打って脳震盪を起こし、降ってきた自分の自転車に右足を潰された。

 全治一ヶ月。医者はそう診断したが、そんなものは目安でしかない。実際、半年経っても怪我は完治せず、後遺症等級には当てはまらない、痛みと傷跡が随所に残った。

 オムライスはご飯が少し焦げていて、不味い。それでも気にせず、エリカは黙々と栄養を摂取し続ける。

 私だって読書家だ。あの一文での締め方は確かに巧い。読者に強い衝撃を与え、読者の想像をかきたて、詩的な余韻を与える効果がある。

 でも、それは無知故の行為だ。

 交通事故なんて、詩的に受け取られていいものじゃない。痛くて、怖くて、苦しくて、悲しくて、憎くて、疲れて、泣いて。事故の被害者は、身も心も人生もぐちゃぐちゃになる。

 エリカはオムライスを食べ終えると、ぼんやりと皿を見遣った。今日、オムライスにするべきじゃなかったかも。赤いケチャップがスプーンにかき回された跡は、私の憎悪の形に似ている。

 車の運転手は、謝罪にすら来なかった。こちらも自転車を運転していただけに、動いているもの同士の事故ということで、運転手に九十五パーセント、私に五パーセントの過失が認められた。だから、自分だけが悪いんじゃないと思ってのことだろう。それにしても、運転手は無傷で私は全治一ヶ月。普通に考えれば菓子折りの一つや二つ、持ってきてしかるべきじゃないの?

 エリカは右足の痛みに耐えながら立ち上がり、皿をシンクに置く。皿に水を張り、ご飯の塊がふやけるのを待つ。その間、少し横になろうとソファに寝転ぶ。その際、マキシワンピースから白い足がちらりと覗く。それを見て、エリカは再び涙の膜を張る。

 私の自慢だった、白くて綺麗な足。傷跡に侵食されて、もはや自慢でもなんでもなくなった。時は戻らない。未来、この傷が消えるのかも分からない。

 あんな本、読むんじゃなかった。どんでん返しが最高、って謳い文句に惹かれて買ったけど、実は事故で死んでました! 幽霊でした! なんて何万番煎じよ、つまらない駄作。発想がちんけなのよ。こんなの私でも書ける。こんなのに割いた時間を本気で返して欲しい。

 エリカは、床にハの字型に落ちている本めがけて、クッションを投げつけた。それでも怒りが収まらず、ぬいぐるみやリモコン、スマホなど、手近にあるありったけのものを力一杯投げつけた。

 はあはあ、と息を乱しながら、再びソファに横たわる。

 本は私の癒やしだった。子供の頃から大好きだったけど、事故に遭ってからは、寝転びながらでも楽しめる、唯一の娯楽になった。私を暗闇から救ってくれる、神様みたいな存在になった。それなのに、こんな思いをするなんて! もう本なんて二度と読みたくない!

 エリカはとうとう嗚咽した。静まり返った部屋の中に、大人になりたての少女の泣き声が悲しく流れる。

 治療の日々は辛かった。何より、ふくらはぎ全体を覆う重度の打撲痕は、エリカの心を深く抉った。ひどい内出血で、真紫に染まったふくらはぎ。医者は、「あと少しの負荷で骨折になってたよ。運が良かったね」と言った。エリカは憔悴しきっていた。こんな足いやです、とつぶやいたエリカを医者は気怠そうに見遣ると、「じゃあ、色が薄くなるクリーム出しとくから。長期戦になるけど、気になるなら塗って」と言って診察を終わらせた。

 本の感想、ネットに書いたら叩かれるんだろうな。『お気持ち表明』とか言われて、ネットのおもちゃにされるに決まってる。私だって、こんなのいちゃもんだって分かってる。創作の世界ではなんだってありだ。人は無残に殺されるし、拷問されるし、人体実験されるし、発狂するし、余命宣告されるし、逮捕されるし、病気になるし、失踪するし、埋められるし、火事になるし。それらをどう描こうとも許されるのが創作であって、それを壊す権利なんて、私にはない。

 エリカはソファから起き上がると、皿を洗い始めた。グレープフルーツの洗剤が、鼻腔をくすぐり、やがてエリカの脳をリラックスさせる。泡立ったスポンジはふわふわして気持ちがいい。汚れた皿を丁寧にこすって、冷たい水で丁寧に流す。皿は元どおり綺麗になり、水の力でつやつやと輝いて見える。

 よかった。私の憎悪の形も消えた。やっぱり食器洗いは好き。お風呂に似て、さっぱりする。

 エリカは手を拭くと、床に打ち捨てられた本を拾い上げる。『遠き国にて僕を想う』。エリカの猛攻にあって傷ついた本は、少しエリカ自身に似ていた。

 東京の喫茶店で出会った男女のラブストーリー。主人公の男は、喫茶店「エキップ」で働くバリスタ。そんな彼に、客の美しい女が連絡先を渡してから、二人の恋は始まる。順調に愛を育む二人。そしてついに男がプロポーズの準備に取り掛かると、女は急に留学に行くと言って東京を去る。二年後にまた会う約束をして二人は別れ、遠距離恋愛が始まる。しかし、彼女は二年を超えても一向に帰ってこない。心配する男。向こうで事件に巻き込まれたのでは、自分への気持ちが冷めたのでは、あれこれ思案して、大使館に電話しようとすると、女は突如として男の元に帰ってくる。再会を喜ぶ二人。そこで男は数年越しのプロポーズを果たすが、女は受け入れなかった。男は気を落とすが、いつか彼女が受け入れてくれると信じて交際を続ける。

 ここまでは楽しく読んだ。典型的で娯楽的な恋愛もの。さあ、ここからどんなどんでん返しが来るのかと期待したら、あのザマ。

 確かに交通事故は、よほど大きいものや、著名人が関わっているものでない限り、被害者の名前は報道されても、顔写真が公開されることは少ない。私の事故なんて、新聞の片隅にすら載らなかった。その事実を衝いてプロットを立てたのは、筋が通ってる。でも、筋が通ってるだけの、駄作。こんなのでどんでん返しだの何だのと喜ぶ奴の気が知れない。むしろ、その能天気さが羨ましい。

 エリカは本を裏返し、値段を見た。本体八百円プラス税。こんな本に八百八十円も払ったのかと思うと、また苛立ちを覚える。

 もう今日はシャワーを浴びて寝よう。エリカは脱衣所に行くと、服を脱ぎ捨て、風呂のドアを開けた。そしてすぐさま、目を瞑る。エリカのマンションの風呂には、嫌味なほどに大きな縦長の鏡が付いていた。

 最初は苦労したが、回数を重ねると、目を瞑ったままシャワーをつかみ、シャンプーを出し、コンディショナーを出し、ボディソープを出せるようになった。

 つまらない特技が身についちゃった。こういう時、エリカは一番悲しくなる。

 すばやくシャワーを済ませ、間髪入れず水滴をふき、お気に入りのパジャマに袖を通す。そうして洗面所の鏡と向き合った自分は、どこにでもいる、普通の美しい女の子に過ぎなかった。エリカはこの瞬間、一番嬉しくなる。

 顔に傷が残らなくてよかった。顔の擦過傷は感染症も起こさず、綺麗に治ってくれた。

 エリカは大量のスキンケア用品を取り出すと、それらを順番に顔に乗せていく。全て、デパコスの最高級ラインのものだ。

 私はもう、顔で勝負していくしかない。この醜くて不自由な体を許してもらうには、顔が綺麗じゃなきゃダメ。無条件で愛してくれる人なんか、もうこの世にはいないんだから。

 導入美容液、化粧水、美容液、乳液ときて、最後にクリームで肌に蓋をする。エリカはクリームをたっぷりとると、優しく優しく、顔に馴染ませていった。

 私の大切なお顔。誰かに愛してもらうための、唯一のチケット。今日も吹き出物はなし。でも、少しそばかすが増えたかしら。週末にレーザーやりに行くかな。

 一通り顔をチェックし終わると、髪を乾かした。エリカは髪にも気を遣う。髪は顔のアクセサリー。常にきらきらに磨いておかなきゃいけない。

 長いルーティーンを終えると、エリカはベッドに潜り込んだ。時刻は九時半。肌のゴールデンタイムまであと少し。エリカはぬいぐるみを抱き締めると、安眠音楽をかけ、入眠に努めた。

 

 朝四時半。目覚めると、外は大降りの雨だった。

 クソが! また降りやがった。

 エリカは枕元のキャンディーボックスに手をやると、シートを二枚取り出した。そこからぷちぷちと錠剤を押し出し、口に含んで水で流し込む。

 目覚ましは八時にかけてたのに、起こすんじゃねえよクソ! 何様だよてめえは! そんな風に脳内で悪態をつきながら、エリカは再び目を閉じ、しばらく悶えてから、漸く浅い眠りについた。


 午前八時。アラームが鳴り、エリカは再び長い睫毛を起こす。今朝は目覚めが悪い。雨で事故の古傷が痛んで、途中で起きてしまったせいだ。

 昔は雨の日が好きだったのに。

 雨がコンクリートを濡らして、街の灯がぼんやり反射するのが綺麗で好きだった。数寄屋造の旅館の中から、雨がしとしとと庭を濡らす音を聞くのが好きだった。『雨に唄えば』を聴きながら、傘をさして近所を散歩するのが好きだった。

 でも、事故が全部奪った。私の感性、私の思い出、私の好きな雨。一瞬の激突が、私の中から大事なものを全て、宙にぶちまけたんだ。

 エリカは昨日に続き、泣いた。半年という時間は、エリカを癒やすどころか、彼女をどんどん絶望の淵に追いやった。エリカの精神は擦り切れて、もはや危険なところまで来ていた。かつて愛した雨は、エリカの閃光を湿気らせる、ただの水差し者に成り下がってしまった。


 本の楽しみも雨の喜びも失ったエリカに残されたのは、ネットだけだった。どうでもいい記事を流し読みして、ただ時間が過ぎていく。

 ふとその中に、あの本の記事を見つけた。「『遠き国にて僕を想う』五十万部突破! 映画化も決定」。

 震える脳で文字を咀嚼する。全身の血が、ブワッと音を立てた。なんでこんな本が? なんでこんな三文小説が!

 かろうじて残っていた、エリカの理性が弾け飛ぶ。怒りに目は煌々とし、歯ぎしりは恐ろしい獣のようだった。

 エリカは立ち上がると、テレビボードの引き出しを開け、ダンボールカッターを取り出した。次にクローゼットを引っ掻き回し、普段は滅多に着ないグレーのパーカーと黒のズボンとを掴み、素早く着替えた。ズボンのポッケにカッターを忍ばせ、長い髪をフードにしまい、美しい顔はマスクで覆い隠した。

 電車に飛び乗り、向かったのは書店。店に足を踏み入れると、大きな台に山積みにされた、あの忌まわしい本がエリカを出迎えた。

 

 そこで、エリカの怒気は萎えてしまった。

 そうだ。こんなに話題になっている本が、店の隅っこに置かれるわけない……。みんなの目が集まる、目立つところに置かれて当然だ。

 エリカはがっくりと脱力すると、マスクを外し、フードを手で払った。

 すると、先ほどまでエリカを怪しんでいた他の客が、はっと息を飲む音が聞こえた。

「あの人、すごく綺麗」

「変装? してたし、芸能人とかかな」

 エリカの頭上、階段に立っている二人組の女子高生が、ひそひそと話している。エリカが虚ろな目でその二人を振り返ると、彼女たちは驚いた様子で肩を跳ねさせた。

 エリカは重い足取りで、横着に店を回遊する。奥の方にある、健康指南書のコーナーにたどり着くと、そこは無人で、なんとなく気分が落ち着いた。しばらく適当な本を立ち読みしていると、ふいに誰かに肩を叩かれた気がした。

 振り向くと、そこには一人の美しい青年が立っていた。彼は、澄んだ瞳でエリカをまっすぐ見据えている。

「すみません、いきなり声をかけて。俺は外崎眞一といいます。あなたを見て、ぜひお知り合いになりたいと思って」

 この手のナンパは、もう聞き飽きている。エリカはナンパが大嫌いだ。薄っぺらい根拠の好意に、本当の愛なんてない。それでもエリカが反応したのは、気の迷いか、この青年に特別惹かれるところがあったのか。

「それはどうも。でも、やめたほうがいいですよ、こんな醜い人間。ほら、これ」

 エリカはポケットからごついカッターを取り出し、青年をからかうようにぷらぷらと振って見せた。これで怖気づいて帰るでしょ、そう思ってのことだった。

 しかし、外崎は瞳の揺らぎすら見せず、相変わらずまっすぐにエリカを見つめている。

「俺、最初からあなたのこと見てました。この店に入る前から、ずっと。あなたが、そのカッターで何をしようとしていたか、なぜそうしようとしたか、僕には全て分かっています」

「はあ? 何それ。あなた、エスパーか何か?」

「まあ、エスパーといえばエスパーですね」

 青年の返答は人を喰ったようで、エリカの癪に障った。

「じゃあ、言ってみなさいよ。私が何で、何をしようとしていたか」

「あなたは、『遠き国にて僕を想う』に傷つけられた。それで、売り場の本を傷つけて作者に精神的苦痛を与えようとした」

 青年ずばりエリカの心中を言い当てた。エリカの瞼は下がり、瞳に暗い影を落とす。

「でも、あなたは状況を見て止めた。あんな目立つところでカッターを出せば、止めに入る人もいる。そうしたら、流血沙汰になると思った。だから諦めた。あなたは優しい人だ」

 心の内が、みるみる裸にされていく。その不快感に耐えられず、エリカは苦々しく言い放った。

「あなた、気持ち悪い。あっちへ行ってよ」

 エリカの声も虚しく、外崎は言葉を続ける。

「俺、いい店を知ってます。あの本が、店員の目も届かない、防犯カメラにも写らない場所に置かれてる店」

 想像だにしない言葉に、エリカは驚いた。この男は、一体何を考えているのだろう。未知の生き物と遭遇したような感覚。吐きたくなるような恐怖と混乱。

「あなた、本当に何? 何が目的なの」

「何って、あなたを助けたいだけですよ。あなたは可哀想な人だ。あなたを救ってあげたいんですよ」 

 犯罪教唆が、人助け? 

 これ以上この男に関わってはいけない。エリカは吐き気を感じながらも、徐々に冷静さを取り戻している自分に気づいた。こんな変な男に正気に引き戻されるなんて、私もとことん堕ちたものだ。悔しさで、エリカは男を睨め付ける。この男の狙いは何なの。私を手中に収めたい?人が堕ちていく様を見たい? それとも……。

「あなた、私を書きたいの?」

 エリカは混乱した。自分でもなぜ、こんな言葉が出たのかわからなかった。

 エリカの混乱をよそに、外崎は目をぱあっと輝かせた。

「やっぱりあなたは最高だ! 美しく、優しく、鋭い。そして悲しい地獄と闘っている。小説のネタの原石だ」

 外崎は高揚していた。

「ぜひ俺の小説のモデルになってくれませんか? あなたの辛い気持ちも何もかも、俺が物語にして救ってあげます」

 救ってあげます? なぜ上から物を言うの。エリカの自尊心が炎を上げる。私はこんな男のおもちゃになるために生きたんじゃない。私の命は簡単に誰かに描かれるような安ものじゃない!

 エリカは全霊を込めて、男を怒鳴りつけた。

「モデルになる気はないわ。私があなたなんかの力が必要な女に見えるの? 馬鹿にするのも大概にして!」

 そして素早く身を翻すと、ふらつきながらも店を駆け抜け、道でタクシーを拾った。

 ふざけるな! あんな狂った野郎に私を書かせてたまるか。私の物語は、私のものだ!  

 

 そうだ。もうあんな狡いやり方はしない。私の物語で、私の思いを世の中に伝えてやる!

 

 家に着くと、エリカは靴を脱ぎ捨て、埃をかぶったパソコンを取り出し、猛烈に書いた。

 早く、早く。あいつが私を書く前に。 

 あいつが私の聖域に入る前に。

 もう、他人の物語に翻弄されてたまるものか!

エリカはひたすら、自分が乗り越えてきた苦しみを書き綴った。


コンクリートに寝転んで見上げた空は、暴力的に朱い夕暮れだった。痛覚が麻痺して痛みがなく、自分はここで死ぬんだと戦慄した。周りで騒ぐ人々の声は、もやがかかったように遠かった。声が出せず、心の中でお母さん、お母さんと何度も叫んだ。

 救急搬送されて治療を受けると、意識がはっきりしてきて、自分は生きている、と気づき、泣いた。神様に、ありがとうございます、と何度もお礼を言った。でも、この後には怒涛の日々が待ち構えていた。

 受傷してから一週間後、警察の事情聴取に応じるため、管轄の警察署に行かなければならなかった。事故に遭った場所が自宅とかなり離れていたから、管轄の警察署は必然的に遠い場所になった。車の運転手側の保険会社からは、毎日のように電話がかかってきて、病院でも、警察でも説明した事故の詳細を聞かれ、辟易した。それから書類が送られてきて、できるだけ早く記入して提出するよう言われた。その後も逐一、何かあるたびに電話をかけてきて、正直かなりうざかった。既に会社の通勤災害の書類も書いてたから、ほとんど毎日、机に向かって何かしらを片付けなければならなかった。

 毎日夜になると、大声で泣いた。もう疲れた。お願いだから休ませて。何もしなくていいと言って。体がこんなに痛いの。私をこれ以上追い詰めないでと叫んだ。自殺願望を抱くのは、決まって夜だった。

 毎日昼になると、怒りが湧いた。交付された「交通事故証明書」には、車の運転手の名前と住所、年齢が載っている。それを眺めて、仄暗い気持ちを抱いたのは、一度や二度じゃない。警察には、原則として相手の処罰内容は教えられないと言われた。あいつは今頃、何をしているだろう。逮捕はされたのかな? 免停にはなったかな? 日の差す部屋で、考えるのはそんなことばかりだった。

 そんな不健康な日々の中、お金への執着が生まれた。「いつ何が起こるかわからない」を体験して、将来への備えに強迫的観念が湧いたのだ。電気代が高騰していた時期だったから、昼間は電気を一切つけなかった。物価も高くなっていたから、ご飯の量も減らして、新しい服を買うのもやめた。ネイルもしなくなった。サブスクも次々に解約した。本だけは、心を守るための生活必需品として、たまのご褒美に買うことにした。

 治療が終わると、次は顔への執着が生まれた。傷を負った全身の部位の中で、唯一痕が残らなかった奇跡の場所。運命を感じた。倹約でお金が貯まった反動で、デパコスの最高級スキンケアラインを狂ったように買い漁った。商品をカートに入れる時だけは、将来への不安を忘れられた。

 たった半年の間で、目まぐるしく変わっていく自分に戸惑った。行動に一貫性がなくなった。思考が攻撃的になった。ちょっとしたことで泣くようになった。廊下や浴槽で寝るなど、奇行が始まった。傷跡を殴るなど、自傷行為をするようになった。体力が落ち、毎日疲労を感じるようになった。夜の自殺願望は、昼間にも顔を出し始めた……。


ここまで書いて、エリカは笑ってしまった。

私の人生、なかなか壮絶。こんな生々しい話、当事者以外に書ける? 少なくとも、あの外崎とかいう男には到底無理。

 でも……。こんな物語、受け入れられるだろうか。作品として面白いだろうか。この物語が拒絶されたら、私はいよいよ、どうにかなってしまうかもしれない……。


エリカは手の甲を思い切りつねった。

弱気になるな! これは全ての創作者へのメッセージ。ちょっとだけでいい、作品の中で人を事故で殺す創作者が、事故被害者へ手を合わせてくれる一瞬間がもたらされればいい。それ以上は何も望まない。賞に入らなくたって、読んだ審査員作家の心には絶対に残るはずなんだ!

エリカの目は、切望に激っていた。元来、エリカは強い精神力の持ち主だった。事故に遭う前は、目標にまっすぐ突き進み、障害を軽く飛び越えてみせる輝きがあった。小説を書いている時のエリカは、頭に栄光を戴いた、かつての勇壮な少女に戻っていた。


 

 果たして、エリカの激烈な熱情のこもった作品は、とある文学賞に入選した。審査員の講評はどれも好意的だった。「読むのが辛かったが、訴えかけるエネルギーに感じ入るものがあった」「作者が苦しみの果てに、この作品を書き上げてくれたことに感謝したい」「恨みに満ちた作品。恨みが筆者に力を与えている」。

 エリカはもう、泣かなかった。意志を達成した自分への誇り。そして、小説を書き、苦しい体験と向き合ったことが、意図せず曝露療法となり、エリカの心を強く変えたのだった。

 私の気持ちは届いた。そして、届けたのは他でもない、自分自身の努力。思いを諦めなかった私の勝利だ。エリカは自分自身を抱きしめるように、強く両の肩を抱いた。 


 授賞式は、入選発表から一ヶ月後に執り行われた。会場のホテル宴会場では、出版社や行政関係者らしきスーツ姿の人が、まばらに歓談している。

 エリカはふとその中に、外崎の姿を見た。彼は出会った時の服装のままで、スーツだらけの中で明らかに一人浮いていた。彼はにこにこと笑っている。

 いや、浮いていたのは外崎だけではない。あの日、エリカの頭上にいた女子高生二人も、あの時の制服姿のまま、静かに微笑み、佇んでいる。

 なぜ、こんなところにあの人たちが。彼らは私の本名すら知らないはずだ。なのに、なぜ? どうやってここに来たの。

 エリカが彼らの元へ走り出そうとした瞬間、スタッフから声をかけられた。

「山本さん、もう始まりますので、準備してくださいね」

 その一瞬、彼らから目をそらした。一瞬。たった一瞬だったのに、視線を戻すと、彼らはもう、そこにはいなかった。

 私の見間違い? そんなはずない! 彼らは確かにあそこにいた。でも……。エリカの表情が固まる。

 私は何を根拠に、「確か」なんて言っているのだろう。

 そもそも、最初からおかしかった。外崎の、私の全てを見透かした発言。私の口を突いて出た不可思議な言葉。そして、女子高生二人の会話。彼女たちは私の頭上、階段にいたけど、私は振り返った。つまり、彼女たちからは、私の顔なんて見えっこない。私が「綺麗」かどうかなんて、わかるはずがなかった。それに、「綺麗」は、私が一番強く望んでいた言葉……。

 

 そうか。そうだったんだ。黒いもやの晴れたエリカの頭には、一つの解が見えた。

 全ては白昼夢だった。書店での邂逅は、壊れかけたエリカの頭が見せた幻像。エリカの脳が、自己防衛のために見せた物語に過ぎなかったのだ。「外崎眞一」という名前を、ようやく思い出した。ずっと昔に読んだ、少女小説の中の、憧れの男の子の名前。なんで、今まで忘れていたんだろう。エリカですら忘れていた名前を彼が騙れたのは、彼が、エリカの潜在意識が生み出した人間だったから。

 

 そう悟っても、エリカの心は毅然としていた。つまり、私は、私を救ったんだ。私は潜在意識の中で、暗闇から出る方法を知っていた。私が小説を書いたのは、私自身がそう仕向けたからなんだ。私は、あんな地獄でも、一度足を踏み外しかけても、最後までまっすぐ生きることを諦めなかったんだ。

 でも。エリカは思案した。私は強くなった。今はもう、明日を向いて、自分の力でここに立っている。だから、今、彼らの姿を見るのは道理に合わない。彼らはなぜ今日、私の前に現れたのだろう。

 会場にアナウンスが響く。

「次は、山本エリカさん。受賞作は『祈り』です」

 その声を聞くと、エリカは思索を止めて目を閉じ、頭の中を素早く切り替える。

 

 あれこれ考えるのも、いいことばかりじゃない。どうせ、外崎さんのことだから、私を冷やかしにでも来たんでしょ。女子高生たちは、また適当なお世辞を言いに。でも、もうきっと会えない。私はこれから、明るい未来に忙しいから。今日まで私を見守ってくれて、ありがとう。みんな、さよなら。

 エリカは今日のために用意した真っ白な膝丈のワンピースで、壇上への階段を登っていく。壇上に立ったエリカは、光を反射して、燦然と輝く。

「おめでとうございます」

 賞状を受け取ると、エリカは強い照明にも負けない、とびっきり眩しい笑顔を見せた。

 

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祈り 花鳥あすか @unebelluna

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