7
昼前、陽は南へと高度を上げ、湿気こそ無いが日差しはじりじりと暑く、職場の最寄り駅に着く頃には既に汗が滲んでいた。おれは鞄の奥底から職場のスマホが振動しているのを感じ、誰かも確認せずに、その電話に出ることにした。
「はい」
「あっ、房野君か、良かった繋がって」
電話の向こうは、かの守屋係長だった。
「お疲れ様です、すいません昨日は」
「昨日」
「いや、不意に殴ってしまいまして」
「殴ったって?」
電話の向こうで、守屋が訝しんでいるのが分かった。そうだ、そう言えば、おれはこの男を殴るところにまでは達していなかったのだ。
「すいません、やっぱり殴ってないです、殴ってないです」
「いや、まあいいよそれは、良くないけど」
おれは慌てて取り消しはしたものの、当たり前ではあるが、彼はどうにも釈然としないような口ぶりをおれに向けていた。
「それより、なんでさっき無断で帰っちゃったの?」
「えっ」
予想外の質問に動揺した。理由など、伝えるまでもないだろう。第一おれは、おまえに具合が悪いから早退すると言ったではないか。
おれの困惑を守屋は知るべくもあらず、続けざまにこう捲し立てた。
「内藤君に聞いたけどさ、さっき軽く挨拶したらそのまま何分も突っ立ってて、やっと動いたと思ったらそのまま帰ったって」
「ええっ」
騙されているのかと思った。悪趣味なドッキリに引っ掛かったのかと考えたが、元よりそこまで軟派な職場ではないし、おれを引っ掛ける意味も見当たらない。
「だから、昨日の話じゃないけど何かこう、抱えてるとかさ、もしあったら」
おれは電話の向こうの守屋の言葉を聞きながら、無意識にスマホを持つ右の手首を震わせているようだった。流石のおれも、この事態にはどうにも堪えるものがあるのだろうな――おれは気が動転しながらも、また違う一点では変に冷静だった。
それ以上彼の言葉を聞かないことにし、電話を切り、同時にスマホの電源も落とした。先程目の当たりにした光景が果たして何だったのかは、今後一切考えないことにしようと思った。
平日、午前、下り、各駅停車の小田急線に乗客はまばらだった。とは言え東京を生きる人間達の表情にはやはり一片の抜かりも無く、おれもまたその通りであった。
おれは東京を生きていて、おまえ達も東京を生きている。
東京者のおれには、東京者のおまえ達の心の在り方が分からない。
東京者のおまえ達にも、東京者のおれの心の在り方は分からない。
だから、東京者のおまえ達は、東京者のおれが、これから何をしでかすのかも分からないはずなのだ。
おれもおまえ達も互いの心の内が見えないから、こうやって関わらずに生きていける。だからこそ我々東京一千万人の赤の他人同士は、安泰の中で日々の暮らしを繰り返すことができたのだ。
おれはおまえ達の、涙ぐましい日々の努めを否定したくはなかった。ただ、そんなおれも、向かい側に座っているおまえも、時として、どこかで――
秋の真昼の狛江駅は陽光の中で和らぎ、昼食を求めて手頃な店を探し回るサラリーマンと、中間テストが終わり帰路に就く学生とで適度に賑わいを見せており、南口もまた例外ではなかった。
さて房野俊彦は極めてニュートラルな、いや、形容するならばニュートラルからほんの十度ほど感情を「負」に傾けたような面持ちで、改札を降り立った。華奢な体系に似合わずやけに肩幅が大きな背広を着ており、見方によっては貧相にすら感じられる風采だった。
やがて彼はロータリーの中央部に移り、かんかんの日照りにも関わらず、手に持っていた雨用のビニール傘を持ち上げると、流れ行く人混みの中で、彼は一体何を決意したのだろうか、静かに息を飲んでは、途端に大声でこう叫び始めた。
「あいむ!」
人目も憚ることなく、叫んだ。
「あいむ! あいむ! しいんぎにんざれいん!」
その瞬間、確かにロータリーを行く人の群れは面白いようにピタリと制止し、皆の視線は一様に彼の顔の方へと向いた。その眼差しを迎え入れた彼は、ほんの一瞬だけ口の端でニヤリと笑った、間違いなく笑ったのである。
「じゃっしいんぎにんざれいん! わなぐろお、歌詞忘れた」
彼はビニール傘を大げさに振り回し、細い手足をピョコピョコとぎこちなく捻じ曲げては奇妙なタップダンスを始めた。
ただ、人の群れが止まったのはほんの僅かな時間だった。足を止めていた人間は一人、また一人と動き始め、やがて彼が現れる前の光景と違わぬものとなり、最早誰も彼を気にかける者はいなくなった。
彼は確かにそこにはいるのだが、そこにはいないのである。
「だあんしにんざれいん、たあらりあららりらあ」
房野の挙動は次第に弱々しくなり、その声にも濁音交じりの息が目立ち始めたが、それでも彼は、この不可解なリサイタルを決して止めようとはしなかった。何者から課せられた使命か、それとも彼が自発的に行っているのか定かではないが、まるで負け戦だと分かっていながらも、なおも抗っているような、安っぽい悲壮感さえ漂わせているようだった。
房野の不審な挙動が目新しいものでなくなってから既に数分は経ったが、その中でただ独り、ふと彼の目の前で足を止めた女性がいた。
彼女こそ、駅に併設された商業施設「狛江マルシェ」のマクドナルドでアルバイトとして働く高校生、浪瀬凛だった。彼女は、バネ人形のような怪しいタップダンスを踊ってはビニール傘を振り回す房野の姿に、昨日ソフトツイストを一つだけ買って帰っていった、おかしな男の面影を見たのだった。
「あの」
声をかけてみたはいいが、男の心は既にここに在らず、息を切らしながらも踊り歌うことに全てを注いでおり、彼女のことは気にも留めていないようだった。
「てーってれってれ、てってーってれってれ」
「あの」
「てーってれってれ、てってーってれってれ」
それでも彼女は耐えたが、流石に限度というものはあった。
「すみません、何でもないです」
遂に折れた浪瀬は踵を返し、足早に狛江駅へのコンコースへと去って行くが、例え女子高生に声をかけられようが愛想を尽かされようが、最早この男には何もかも関係が無いのであった。
ああ、これが、仮にこれが彼の思っている高みだとするならば、東京者のペルソナを剥いだ者だけが辿り着く境地だとするのならば、それによって得られるはずのカタルシスは、どこにある?
いや、もう小難しいことは抜きにしようや。
おれを見ろ、おれを刮目しろ、このおれもまた東京が、おまえ達が日々を生きる東京が抱えている倫理の一つなのだから――
かくして、房野俊彦はそれからも長いこと踊り続けた。その棒切れのような身体で、誰もが彼に見向きをせず通り過ぎようとも、何十分も踊り続けた。歌うだけ歌い、叫ぶだけ叫んだ。
そしてこの時、ついに彼は独りだった。こうして彼は無事、「東京者」としての安寧と秩序から脱し、解き放たれたのである。
おめでとう房野俊彦、心から祝福しよう。おめでとう房野俊彦、例え、これきりの解放だとしても。おめでとう、房野俊彦――
やがて性根尽きた房野は、ロータリーの真中で、とうとう仰向けに倒れる。
「ダメだ、もう無理だ」
ビニール傘を開いたまま放り投げ、両手を伸ばし、陽の光に煽られながら、彼は誰にも聞こえぬよう、か細い声で、こう呟いたのだった。
「おれ、やっぱりインコ飼うんだ、インコ飼うんだよ、インコ」
了
T.K.M. アズミ @azmireissue
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