04.これだから犬っころは嫌いなの
「なにが来るのですか?」
マリアベルの問いに答えるより早く、男は手にしていたランタンをぐいと差し出した。
「これを持っていろ——」
強引に押し付けられたランタンを慌てて受け取る。その青白い炎は、闇をかき分けるかのように揺らめき、不安を掻き立てる。
その時、ロゼがぴょんと地面に飛び降りた。しなやかな身のこなしで茂みに鋭い視線を送り、低く鼻を鳴らす。
「あの、この火はいったい——?」
『いいから、大事に持っていなさい』
ロゼの声には珍しく冷たさが滲んでいた。
男は無言でトランクを地面に置き、茂みの中へと一歩踏み出す。その瞬間、静寂を切り裂くように獣の唸り声が響き渡った。
——狼だ。
それも、一匹や二匹ではない。音の響き方からして、相当数の群れが彼らを囲んでいる。
「ガウゥッ!」
茂みから突如飛び出した一匹の狼が、マリアベルに向かって牙を剥いた。
「きゃあ!」
マリアベルは反射的にランタンを狼に向ける。その瞬間、ランタンから目が眩むような光が放たれ、狼が急に怯むように後退した。強烈な光はやがて収束し、元の明るさに戻った。ただ、異様な青白い光を放ったままだ。
狼が火そのものを恐れているのか、この奇妙な炎に怯えているのかはわからない。だが、マリアベルはとにかくランタンを狼に向けた。
震える視線の先、狼の姿が明確になるにつれ、その異様さが浮き彫りになる。
それは、普通の狼とは似ても似つかない、恐ろしく歪んだ生き物だった。毛並みは異様に荒れ、ところどころ剥がれ落ちたように地肌が露わになっている。その皮膚は暗灰色を帯び、不気味なまでに濡れた光沢を放っていた。
牙は異常に鋭く、普通の狼ならばありえないほど長い。それらは顎から飛び出し、口を閉じることさえ叶わないように見えた。唾液が糸を引きながら垂れ落ち、地面に染み込むと、そこから煙のようなものが立ち上る。
目は血のように赤い光を帯び、獣の本能的な輝きとは異なる、不自然な狂気が宿っている。その瞳はまるで、邪悪で底知れぬ意志が宿っているようだった。
「……これが、狼……?」
マリアベルは息を呑み、思わずランタンをさらに強く握りしめた。その手が冷たく震えていることにも気づかない。
ロゼが冷ややかに呟く。
『違うわ。あれは狼じゃない。妖魔の残滓――瘴狼よ』
「瘴狼……」
ロゼの言葉を反芻したそのとき、瘴狼の群れが静かに動き始めた。その一歩一歩が地面を腐らせ、死の気配を纏わせながら、じりじりと距離を詰めてくる。
『やれやれ、これだから犬っころは嫌いなの。群れの秩序はあるくせに、貪欲で品がないんだから』
ロゼが呟く。その声には苛立ちと軽蔑が混じっていた。
「お前はその女を守れ」
男が短く命じると、ロゼは尾を揺らしながら答えた。
『はいはい、言われなくてもわかってるわよ——』
その言葉が途切れる間もなく、茂みからさらに黒い影が二つ、男へと飛びかかった。
「危ない!」
マリアベルは叫んだが、それは一瞬遅かった。瘴狼はすでに男の間近まで迫り、鋭い牙を剥き出している。
(噛まれる!)
恐怖に息を飲んだその刹那——がちん、がちん——鋭い歯がぶつかり合う音が闇に響いた。だが、マリアベルが見たのは瘴狼の空振りだった。
男の影は、そこにはなかった。
視線を巡らせるが、次の瞬間、茂みのさらに奥から不気味な音が響き渡る。重く沈んだ音が、再び森を支配する静寂を切り裂いた。
(あの方はどこに——)
彼女の問いが声になる前に、瘴狼たちの群れが一斉に動き出した。
瘴狼たちは着地したあと、鼻と耳で男の影を追った。
果たして、最初いたところから二十歩先、少し森がひらけたところに、男は涼しげな顔で立っていた。
ただの一瞬で——ただの一瞬で、そこまで移動したのである。
瘴狼たちが狼狽えたように、マリアベルもまた困惑する。
「今、なにが——」
『空渡り。極東の剣士が使う足技よ。習えばあなたでも使えるようになるわ』
しかしまだ難を逃れたわけではない。
最初に飛びかかったのを皮切りに、茂みから瘴狼たちがぞろぞろと現れた。その数六、七、八——増えに増えて十二の瘴狼に男は取り囲まれる。
「どうしましょう……!」
彼が剣士だとしてもこの数は——しかし、男は至極冷静だった。
左手で鞘をおさえ、静かに剣を抜き、構えた。
「逃げないのですか……!」
『まあ、見ていなさい——』
すると、また茂みから一匹、背中に赤い毛を生やした格別大きい個体が悠々堂々と現れた。おそらくこれが群を率いている主。
赤毛の瘴狼は男を睨みつけると、吠える。
それが合図だったかのように、瘴狼たちが一斉に襲いかかった。
多勢に無勢。
嬲り殺し。
無数の爪や牙にかかって倒れる男の姿が頭の中にひらめいて、マリアベルは思わず目を瞑る。
——と。
どさ、どさっと地面になにかが落ちる音がした。恐る恐る目を開けると、男はさっきの姿勢のまま微動だにしていない。
マリアベルは目を見張った。
男の周りには血だまり。
またよく目を凝らすと血飛沫を上げて横たわる瘴狼たちの群れ。
ただの一瞬目を瞑っただけなのに、その一瞬で男が斬り伏せたのか。それも、四方から襲ってくる十二の瘴狼を、一度に。
赤毛の瘴狼が、ぐるる、と低く唸り、じりじりと後退する。
そうしているうちに、先ほど斬り捨てられた瘴狼の死骸が黒い霧に変わり、空中に霧散した。そうして、死骸が跡形もなく消えてしまったのである。
「今、いったいなにが……?」
『斬ったのよ』
「斬った? あの一瞬で……?」
『次はもっと目を見張っていなさい』
赤毛の瘴狼が高らかに吠えた。
同胞を無残に屠られ、恐れて逃げるかと思いきや、獰猛に牙を剥く。膠着はしばらく続いたが、先に痺れを切らしたのは赤毛の狼だった。
地面を蹴る。
真っ直ぐに男に向かい飛びかかる。
刹那——闇を劈くように閃光が一瞬放たれた。
それと同時に、ちん、と金具が合わさる音がする。早々に男が剣を鞘に収めたのだ。
そのまますれ違うように赤毛の瘴狼が男の背後に着地した。
何事もなかったかのような一人と一匹。
男はその場に突っ立ったままだ。まだ終わっていないのにもかかわらず、敵に背を向けている。男の背後で折り返した赤毛の瘴狼は、これを絶好の機会とばかりに再び飛びかかろうと試みた。
だが——ごろんと首が落ちた。
勝負はとっくについていたのである。
赤毛の瘴狼は首が斬り落とされていたことにも気づいていなかったらしい。胴体のほうは、切断された首から鮮血を噴き出し、そのまま地面に崩れたが、すぐに黒い霧になって、やはり跡形もなく霧散した。
この一部始終をマリアベルは見ていた。見ていたが、見えなかった。なに一つ、男がどうやって赤毛の狼の首を刎ねたのかも。
速すぎて見えなかったのか。
だとすれば、よほど凄腕の剣士なのかもしれない。
男はくるりと振り返ると、呆気にとられていたマリアベルのほうに近づく。思わず「ひっ」と口に出したものの、男の表情はひどく涼しげだった。
『ほんと惨たらしいわね。あなたもあなたで品がないわ。騎士にはなれないわね』
「ふん……」
ロゼに小馬鹿にされ、男は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
そこでマリアベルはようやく我に返った。いつの間にかランタンの火の色も元に戻っている。
(今の出来事は、夢……?)
しかし、月明かりの下、かすかに獣の腐った匂いや、鉄臭い血の臭いがかすかに漂っている。瘴狼、妖魔——そもそも、そんな言葉を聞いたことも初めてだった。
困惑するマリアベルに構わず、男は森の一点を見つめる。
「今日はあそこに泊まる——」
男の視線の先、木こり小屋が見えた。
マーレ村まであと少し。もう少しで着くというのに、ここに留まる必要があるのだろうか。
『夜霧が出てきたわね。嫌な霧だわ……』
ロゼが言うと、たしかに夜霧が森に満ち始めている。ただ、それはどことなくまとわりついてくるような不気味さがあった。
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黒猫と人形遣いの禁呪録 白井ムク @shirai_muku
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