03.話を聞いてくれる人なら誰でも良かった、というわけね

 ――ウェルズ神父が赴任して半年が経った頃、村に奇妙な異変が起こり始めた。


 その日、マリアベルは用事があり村長の家を訪ねた。

 扉を叩いたが、返事はない。中から何かが動く微かな物音がする。不安を抱えながらもそっと扉を押し開けると、鼻をつく血生臭さに目を細めた。


 目を凝らして見た光景に、マリアベルは息を呑んだ。

 村長とその妻が、テーブルの上にあるなにかにむしゃぶりついていた。


 それは――生肉だった。


 小鹿の腹を裂き、腸を引きずり出しながら貪るその姿は、もはや常軌を逸していた。血に濡れた手が鮮紅の液を滴らせ、小鹿の足は微かに動いている。


 まだ、生きている、生きたまま――。


 その事実に気づいた瞬間、マリアベルの口から思わず小さな声が漏れた。


「……あ」


 その音に反応したかのように、村長夫妻がぎろりと顔を向ける。

 血塗れの口元からは滴る血が服を赤黒く染め、彼らの目は異様な光を放っていた。


「あ、あの……わたくしは……」


 だが次の瞬間、夫妻の表情は何事もなかったかのように和らぎ、血に濡れた口元を微笑みに変える。


「あら、シスター・マリアベル。どうされました?」

「今日は礼拝の日だったかね?」

「まあ、あなたったら……今日は水曜日ですよ?」


 二人はまるで普段通りの会話を始める。テーブルの上に広がる惨状になんの違和感も覚えていないかのようだった。

 恐怖を抱えながら、マリアベルは震える声で尋ねた。


「その……いったい、なにをされているのですか?」


 村長は悪びれる様子もなく答える。


「ウェルズ神父が言っていたんだ。長生きの秘訣だと」

「あらやだ、テーブルも服も汚しちゃってるわ」

「後で洗えばいいさ。掃除するのは君だが」

「この人ったら!」


 血塗れのまま、冗談めかした会話を続ける夫妻の姿は、マリアベルの恐怖をさらに煽った。異常だ――これは明らかにおかしい。


 マリアベルは村長への用事を忘れ、教会へと駆け出した。

 途中で見た村の景色がさらに異様さを際立たせる。誰一人家から出ておらず、普段なら外で作業するはずの家畜の姿も見えない。いつもなら賑やかな農村が、まるで死んだ村のように静まり返っている。


 ――なにかが間違っている。


 そう確信しながら教会へ飛び込み、祭壇の前で祈りを捧げるウェルズ神父に声をかけた。


「ウェルズ神父……村が……村の様子がおかしいのです!」


 神父はマリアベルの言葉を柔らかな微笑みで迎え、労わるように訊ねた。


「おかしい、とは? いったいなにがあったのですか、シスター・マリアベル?」


 震える声で村長夫妻の異常な行動と村の異変を語ると、神父は穏やかに頷いた。


「……それはたしかに奇妙ですね。村長には後で話をしてみます」


 だが、マリアベルの訴えをそれ以上受け入れる様子はなく、話を遮られるように締めくくられた。


 その後も異変は広がっていった。村人たちは表に出て働くようになったものの、生気を失った目をしていた。かつてのような明るさは消え失せ、彼らは機械のように黙々と作業を続けるだけだった。


 さらに時間が経つと、家の前でただ座り込む村人たちが目立つようになった。働く気力を失い、魂を抜かれたように一日を過ごすその姿は異様だった。


 マリアベルが再び神父に報告すると、神父は薬を調合してみようと言い、教会の奥へと引っ込んだ。


 その時、マリアベルはあることに気づいた。


(そういえば、ウェルズ神父が赴任してから、村人たちは信仰心が増したように教会に通っていた……)


 その際、神父が渡していた「滋養強壮の薬」と称する小瓶。村人たちが薬を受け取り始めてから、奇妙な変化が起きた気がする。


(もしや、あの薬が……?)


 心に浮かぶ疑念を振り払えないまま、マリアベルの胸には不安が重く広がっていく——




「——そう思ったわたくしは、ひっそりと村を抜け出し、あの橋でこの話を聞いてくださる方を待っていたのです」


 一通り話し終えたマリアベルの顔は、すっかり青ざめていた。

 それは寒さのせいだけではない。彼女の内から滲み出る恐怖と忌まわしさが、外見にまで影響を及ぼしているようだった。


「いったい、あれは……」

「どんな薬なのかしら?」


 ロゼが問いかけると、マリアベルは懐から液体の入った小瓶を一本取り出した。


「これだけ持ち出しました。なにかわかりますか?」


 ロゼは瓶の口元に近づき、くんくんと臭いを嗅ぐ。そして、不快そうに「にゃあ」と鳴いた。


『……このひどい臭い。合点がいったわ』

「なんです?」

『これは百寿喰の薬よ』

「ヒャクジュショク?」


 聞き慣れない言葉に、マリアベルは戸惑った表情を浮かべる。


『南方の大陸、とある山奥の村で行われていた儀式よ。そこは長寿の村でね。百日の間、生きた動物の肉を食らい続けることで百歳まで生きられるという言い伝えがあるの。——その儀式で使われていた薬と、同じ臭いがするわ』

「そんな……面妖な……」


 マリアベルは息を呑む。


『この国だと肉に火を通すのは当たり前だけど、違う国では肉や魚を生のまま食べる風習はあるの。——百寿喰は、それをさらに狂信的にしたようなものね。薬を飲みながら生肉を食らう……もっとも、百寿とは程遠い儀式なのだけれど』


 ロゼはそう言うと、小瓶を男に渡すように言った。


「百寿喰……そんな儀式も噂も聞いたことがありません」

『当然よ。ずいぶん昔に封印された儀式だもの。今では知る人も少ないわ』

「封印……?」

『そう、封印。そんな禁忌は放っておけば災厄を呼ぶからね。まあ、こういう話については私より、この男のほうが詳しいわ——』


 マリアベルは男の顔を伺うが、彼は無言のまま前を向いて歩いている。説明する気はないようだ。


『ねえ、一つ訊くけど、聖堂会にこの件について便りは出したの?』

「はい。もちろんです。でも、取り合っていただけなかったようで、返事は返ってこずで……。王国にも便りを送りましたが、やはり聞いていただけませんでした。直接お役人様に会いに行ったのですが、そこでも……」

『……それで、話を聞いてくれる人なら誰でも良かった、というわけね』

「はい……ですが——あれ……?」


 ふと、マリアベルは足を止めた。

 突然、胸の内に奇妙な違和感が湧き上がったのだ。


 なにか、大切なことを忘れている気がする。

 けれど、その「大切ななにか」は霧の中にあるようで、どうしてもはっきりとしたかたちを取らない。


 違和感に立ち尽くすマリアベルをよそに、男が足を止め、森の奥に鋭い視線を向けた。


「来るぞ」


 男の手にしていたランタンの火が突如、青白く揺らめく。マリアベルはその光景に息を呑み、思わず身構えた。

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