02.お喋りがないと生きていけないわ

 すでに夜の帳が森を覆っていた。

 冬枯れの森の中の細道。まるで獣道のように細く、暗く、ひどく心細い。

 風は森に遮られていくらか和らいでいるものの、底冷えする寒さと、不気味な静けさが全身に絡みつくようだった。


 マリアベルの少し前を、出会ったばかりの男が歩いている。

 男の左手にはランタンが握られていた。それはまるで骨董品屋に並ぶような精巧なつくりで、細部の装飾には職人の気骨が刻み込まれているかのようだった。おそらく高価なものなのだろう。


 だが、光そのものは頼りない。寒々しいランタンの明かりが、彼らの足元を弱々しく照らしているだけだ。

 その先には濃密な闇が横たわっている。

 冬枯れの草を踏みしだく音だけが、彼らの存在を森に告げていた。


 今、マリアベルの不安をかろうじて和らげてくれるものといえば、ランタンのほのかな灯りと、己の中に灯る使命だけだった。


(それにしても……)


 マリアベルは男のほうを覗き見た。

 男の肩には黒猫が乗っている。四肢をだらりと下げ、いかにも呑気そうに揺れている様子は、不思議と滑稽ですらあった。

 この一人と一匹の姿を目にしていると、少なくとも彼らは悪人には見えないように思えてくる。


「あの……わたくしはマリアベルと申します。この先にあるマーレ村の教会に仕えております」


 そう言って、マリアベルは静かに素性を語り始めた。


『マーレ村……聞いたことがないわね』

「できたばかりの小さな村です。十年ほど前、『二十日革命』が起きたときにできた村だそうです」

『二十日革命……なるほどね』


 黒猫は納得したように頷く。


『シスター・マリアベル、もしかしてあなたは瓦解した貴族の出かしら?』

「ええ、まあ、そんなところです……」

『そうそう、私はローザリーネ。ロゼと呼んで。それで、こっちの無愛想な男は——』

「おい」


 男が低い声で咎めるように言う。その声に反応して肩を震わせたのは、ロゼではなくマリアベルだった。


『自己紹介くらい、いいじゃない』

「必要ない」

『そうかしら?』

「そうだ」

『相手が素性を話したのだから、こっちも話すのが道理じゃない?』


 男は面倒くさそうに、冷たく言った。


「素性など訊いていない。その女が勝手に話しただけだ」

『あなたって、本当に、これだから……』


 ロゼは呆れたようにため息を吐く。


「余計なことは喋るな」

『無理よ。私の性分だもの。お喋りがないと生きていけないわ』

「なら、口を閉じていろ」

『なんてひどい男……』


 ロゼは首を横に振り、「やれやれ」と小さく呟く。

 その様子を見ながら、マリアベルは心の中でくすりと笑った。

 興味深い。なんとも不思議だ。目の前で男と猫が言い争っている。その対照的な姿——寡黙で無愛想な男と、饒舌でお喋り猫。まるで反発し合っているようで、どこか噛み合っている。

 その奇妙なやりとりに、マリアベルは少しだけ警戒心が薄れていくのを感じた。


 思わず「クスッ」とこぼれた笑い声に、彼女は慌てて口元を覆う。


『どうしたの?』

「いえ、なんだか可笑しくて……」

『あら、今のやりとりなんて日常茶飯事よ』


 ロゼは気分良さげに「ニャア」と短く鳴いた。


(案外、愉快な方々なのかもしれませんね)


 そう思いかけた瞬間、マリアベルは表情を引き締めた。今は笑っている場合ではない。自分の使命を思い出したとき、果たしてロゼが声をかけた。


『マリアベル、そろそろあなたの村の奇妙な病の話、いいかしら?』

「はい。一年ほど前のことです——」


 言葉を続けるマリアベルの声は、先ほどまでとは違い、どこか張り詰めていた——




 ——一年前。

 ウェルズ神父という人物が村へやってきたのは、ちょうど去年の冬口のことである。


 三十代半ば。

 柔和な笑顔と知性を感じさせるような話し方。

 都会育ちに見えるが気取らない性格で、物腰柔らかく、なにかにつけて丁寧。


 そんなウェルズ神父はすぐに村人たちから受け入れられていた。

 博学で、薬学にも精通し、医者のいないマーレ村にとってはまさに救い主だった。

 実際、彼の調合した薬は効果てき面で、あらゆる病気を治したという——




「——法術の類か」


 ここまで話を聞いていた男がそっと口を開いた。


『そのようだけど、どうかしらね?』


 男とロゼがひそひそと話している。


「あの、法術とは……?」

『こっちの話。構わず続けて』

「は、はい……。それから半年くらい経ったあたりでしょうか——」

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