雨の予報士と初恋の夜

沢鴨ゆうま

雨の予報士と初恋の夜

 もうすぐ雨が降る。

 雨のにおいが漂い始めたから間違いない。

 梅雨から夏にかけて感じる雨のにおいは、たいてい大粒の雨になる。


川瀬かわせ、ちょっと急ごうか」


 僕と川瀬ルリは、傘を持っていなかった。それは、ずぶ濡れになることを意味する。

 僕は別にかまわないけど、川瀬には濡れて欲しくない。

 なぜなら彼女は、真っ白なブラウスに会社指定の濃紺タイトスカートという姿だから。

 上着は片腕に掛けていて、どうやら暑くて脱いだままらしい。

 膝は隠れているから妙に安心する反面、少し残念な気持ちもある。

 でも、ブラウスがずぶ濡れになった姿を想像すると、一刻も早く屋根のある場所へ連れていきたいと思った……思ったんだけど――。


「何でよお、奇跡的な偶然が起きたのよ! あのときは話すこともできなかったけど、今日はこうして話ができてるの。ほら、えっと……リベンジ、そう、リベンジよ!」

「それを言うならリトライだろ。別に負けたわけじゃないんだから」


 川瀬にはそう言いつつ、僕にとってはある意味、負けたようなものだった。


「ふんっ、そういう突っ込みは面白くないよお」


 僕たちは、クタクタに疲れた会社帰りに、彼女の言葉を借りるなら奇跡的な偶然で出会った。

 奇跡か偶然のどちらかでも十分に伝わるとは思うが、そう言いたくなるのもわかる。

 高校三年の夏、僕が友達数人と駅前を歩いていたときに、女の子が誰かを呼んでいる声が聞こえた。

 声のする方へ目をやると、こちらと同じく数人の友達といる川瀬がニコニコしながら僕に大きく手を振っていた。

 その出会いはまさしく偶然で、小学校以来だった。

 僕の住んでいた町はいわゆる『転勤族』と呼ばれる家庭が多く、何人もの友達が来てはいなくなるを繰り返していた。

 小学校で仲の良かった川瀬とは、卒業して中学へ進学すると全然会わなくなった。

 ほとんどの転勤族友達は、何も言わずに姿を消していたから、川瀬もその一人だと思って過ごしていた。

 小学校ぶりの高校、そして高校ぶりの社会人と、二度も約束なしに会ったんだ。

 奇跡的な偶然とは、その二度の出会いを表しているのかもしれない。

 最初の再会は、一言挨拶を交わして顔を見ただけで終わったけど、今回は話ができている。

 高校のときに見た彼女の笑顔と耳に残った声は、無情にも僕に心残りという傷だけ付けて去っていった。

 それからの僕は、新しい出会いがあるまで苦しんだんだぞ、川瀬。

 せっかく感じなくなっていた傷の疼きが今になって再発して、痛みがぶり返してきたじゃないか。

 どうしてくれるんだと文句を言いたい気持ちとは裏腹に、今こうして話せることが、傷薬を塗られたような痛痒さと嬉しさに包まれて、文句が言えないでいる。

 兎にも角にも、僕と川瀬は二度目の再会をした。

 お互いにそれぞれの会社の飲み会に参加して、強引な二次会への誘いから逃げ出すという、まったく同じことをしたあとだった。

 今までの偶然と今日の偶然――。

 それも、川瀬が偶然に輪を掛けたくなった理由なのかもしれない。

 おっと、そんな回想をしている場合じゃない。

 雨が降ってくるんだよ、それも大粒の雨が。


「それはそうと、わざわざ雨に濡れることはないだろ? 川瀬に予定がないなら適当な店に入って話そう」


 と、雨降り前の雨宿りを勧めたけど、彼女は承諾してくれない。


「雨?」


 振り返った川瀬は、僕の目を見てから空を見上げた。


「ねえ、南條君ってさ、妄想癖とかある?」

「まあ男なんで、妄想はしがちかもしれないね」


 一人の男の見解です。


「ふーん。今ってさ、雨降ってる?」

「……降ってない」

「じゃあ、濡れないじゃん。南條君、面白くなくなったのかあ、残念」

「僕ってそういう認識されてたの?」

「そういう認識されてると思ってなかったの?」


 なんと、面白枠扱いだったのか……侵害だ。


「あーはいはい、それはどうもすみませんでしたーなんて言うわけないだろ。なんで僕が面白枠なんだよ」

「授業中にあれだけ笑わせといてよく言いますねえ。楽しかったからまともに授業聞けてなくて、家で復習するの大変だったんだから。なんとかしたけど」


 そういや高校のとき川瀬が着ていた制服って、当時偏差値トップのとこのだったな。

 小学校のときのテストは毎回僕が勝っていたから、まさか高校で抜かれているなんてって驚いたんだっけ。

 小学校の成績が良くても、自慢にはならないってことか。今になってしみるじゃないか。


「まあいいさ、人の印象ってのは自分じゃどうしようもないからね。こう見せたいと思っていても、そう見られちゃったかなんてこと、日常茶飯事だし」


 ところで、お空よお空よお空さん、そろそろ雨を降らせてくれませんか?

 じゃないと、僕の印象は面白枠から嘘つき枠へと変えられてしまいます。

 忘れていた感情を思い出してしまった今、川瀬への印象を悪くする気はないんだよ。

 ちょっと待て、あれ? なんだろう、この感覚……。


「あれ? なんだろう、この生ぬるいの」


 川瀬が手のひらを眺めてぼそっと呟いてから僕に振り返った。


「ねえ、このビルの冷却塔って壊れてるのかな」

「あのさあ、僕の言うことを全否定するのやめてくれるかな。さあ、僕が教えた答えを言ってごらん」

「うわあ、いやらしい言い方するようになっちゃって。しかたないなあ、これは雨ですね。南條君は見事当てましたので、私が一緒にお店に入ってあげましょう」

「賞品が川瀬だとは知らなかった、やったぜ」

「……やったぜ?」


 しまった! 思わず口が本音を吐いてしまった。

 ――ん? 本音って何だよ。


「ちゃんと雨が降ってきただろ。どこの店に入るか決める前に走ることになっちゃったよ」

「うーん、そうねえ。お店は……食事はしたよね? 居酒屋とカフェがあるけど、どっちがいい?」


 川瀬は立ち止まってまっすぐ腕を伸ばし、人差し指で飲食店を順番に差している。


「居酒屋だとなんだか飲み会から抜けた気がしないし、カフェもなんか違うのよ」

「二人で飲むなら飲み会とは別物だけど、一つ問題がある」

「問題? もしかして二次会がこの辺のお店とか」

「いや、僕の問題。あんまりアルコールは得意じゃなくってさ」


 川瀬は、指先を自分の顔に向けてこっちを見た。

 もしかして、お酒が好きなのかな。だとすると飲めない男じゃつまらないよなあ、これはまずいかも。


「私も。酔っ払いの集団と話すのが苦手なのもあるけど、ジュースみたいに甘くて度数も低いのじゃないと飲めないの」


 ふーっ、川瀬もお酒が苦手だった!


「なんだ、てっきり飲める方かと思ってドキドキしてたよ」

「いっぱい飲まされると思った?」

「飲む人だとさ、飲み合いたいわけだろ? なのに飲めないやつが相手じゃつまらないじゃん」

「あらあ、結構気を遣ってますねえ。それだとストレスが溜まっちゃうから、ほどほどにね」

「勤め始めてからずっと気を遣ってばかりだよ。川瀬はうまくやってるのか?」


 僕たちは、雨宿り場所を探すのはやめて、歩きながら話していた。

 雨は、たまにポツッと落ちてくるだけで、なかなか本降りにならない。

 本降りになるまでの時間は、ポツッと来たら即どしゃぶりってのと、忘れたころに一気に来るパターンのどちらかになることが多い……と僕の脳内データにはある。

 奇跡の時間と呼ばれる――僕が勝手にそう呼んでいる――すぐに降らないこの間合いで、雨宿り場所へと逃げ込めたら勝ちだ。

 それは僕だけの遊びだけど、小学校のころから変わらないでいる。


「言われて思い返すと、私も気を遣ってばかりかも」

「それは知らず知らずのうちにストレス溜めてるパターンじゃね? ……ごめん、そろそろヤバいかもしれないから――」


 僕は、雨が本降りになると感じて、勢いで川瀬の手を掴んで引っ張った。


「あっ」

「タワーの下なら雨宿りできる」


 僕たちが歩いている先には、意識をすると妙に存在感のある建物がある。

 普段は気にもしなくなっている旧テレビ塔だが、今ではタワーなどと呼ばれてそびえ立つ。

 ほとんど鉄骨だけども、レストランやカフェが入っているフロア下が、屋根代わりぐらいにはなってくれる。

 毎晩のようにライトアップもしているから、話の間つなぎにもちょうどいい。

 と思って引っ張ったんだけど――。


「待って、あと5分なの!」

「ん?」


 川瀬を引っ張って走る気満々だった僕は、逆に川瀬に引っ張られる形になった。


「どこへ」

「付いてくればわかるって」


 雨宿りするなら、そのまま僕に引っ張られていると思うが、どうやら目的は違うみたいだ。

 僕は、あえて理由を聞かずに川瀬の後ろ姿を見ながら付いて行った。

 どうしても小学校のころの姿がゴーストのように重なって、今の川瀬と比べさせる。

 少し低めだった背がそれなりに高くなって、スーツなんて着こなせる女性になっているんだなと妙に鼓動を感じかけたとき、足は止められた。


「この辺で待とっか」


 何を待つのかな。まさか誰かが来るわけじゃあないだろうし、イベントって雰囲気も感じない。

 僕はわけがわからないまま、川瀬の見つめるタワー前の噴水を同じように眺めてみた。

 タワーには何度も足を運んでいるくせに、小さな噴水は目の端に映っていたかもってぐらいしか記憶にない。

 そもそも噴水に見とれるなんてこと、今ではなくなっていた。

 ぼーっと眺めていると、にわかに噴水が上りはじめて水のオブジェを作り出した。

 続いて自分の番だと言わんばかりに、レーザー光線が噴水に向けて照射される。

 と同時に、再び僕の手に温もりが戻ってきた。

 やさしく手を握られたんだ。


「川瀬?」

「ここでね、水がエメラルド色に流れるのを見るのが好きなの。光が水に溶けているみたいで面白いし、水の先が丸くてグミみたいでしょ」


 水が透明な光ファイバーのようになって、レーザー光の噴水ができあがっている。

 川瀬は噴水のライトアップ時間を知っていたってわけか。


「僕と話しながらこのタイミングを見計らっていた、と?」

「悪い意味じゃなくてね、せっかくだから一緒に見たいなって思ったの。まさか南條君に会うなんて思ってなかったもん」


 そう言いながら、僕の手の握りを強くしてきた。

 ライトアップに気を取られていたけど……僕は、川瀬から手を握られている!

 それに、強く握ってきたとはどういうことだ……そんなの、もう疑う必要のない気持ちを教えてくれているってことだろ。

 なら、僕からも気持ちを伝えないと――。

 握られていた手を軽く引っ張って、川瀬を僕の前に立たせる。

 そして、とても愛おしく感じてしまった背中を抱き寄せた……え?


「川瀬、僕の勘違いでなければ、こうしても大丈夫かな」


 えーーっ!! 抱き寄せてしまった!?

 おいおいおい! なんてことを……。

 大それたことをした後に口走った、いらぬ質問をしたことへの後悔が背筋を凍らせる。

 大丈夫かなとはなんだ? ダサすぎる……。

 いや待て。とんでもないことをして、ダサいことも言ったんだ。

 今更何に怯える?

 だめなら軽蔑され、良ければ何もされないというだけ。

 弱気な自分は出番じゃない……ない!


「ふふ、ドキドキされてるのがわかると、こっちまで余計にドキドキするじゃない。ここまでしておいてよく言いますねえ。周りの人が少なくてよかった――」


 川瀬がクスクス笑っていることにホッとした僕は、そのまま力が抜けそうなのを堪えて、抱きしめをきつくした。

 川瀬は、上着を抱えていない手で、僕の腕に触れて話を続ける。


「お互いに小学校のころに戻って話してるよね、面白いなあ。高校生で会ったとき、ゆっくり話したかったな。あの日の夜はね、なんで連絡先ぐらい聞かないの! って自分に怒ってた。友達を振り切れなかったことも恥ずかしくなって、枕に八つ当たりして――」

「そうだったの!? 僕も少し話せるかなって期待したけど、川瀬はすぐバスに乗って行っちゃったから残念だった。でも雰囲気は全然変わってないし元気そうでよかったって思ってた。そしたらバスがすぐ信号で止まったからさ、連絡先ぐらい聞きに行こうかなとは考えたんだ。それなのに、友達に行くぞーって言われて。なんで聞かずに友達に付いて行っちまったんだって、夜に後悔していたよ」


 似たような夜を過ごしていたことを知って、川瀬は笑ってくれた。


「あはは、そうだったんだ。でもこれからは、ゆっくり話せるね」

「ああ、いっぱい話そう」


 抱きしめているからか照れなのか、妙に感じる熱を冷ますように、大粒の雨が降り出した。


「時間差の方だったか……言った通り降ってきただろ? タワーの下で雨宿りしよう」

「うん。でも私、雨が降らないなんて言ってないよ? 南條君のことは全肯定だから」


 全肯定――こんな素敵な言葉を、川瀬の口から聞けるときが来るとはね。

 手ではなく、川瀬の肩をしっかりと抱いてタワー下へと向かった。

 二次会から逃げるため、代わりに上司からのダル絡みの矛先にさせてもらった先輩に感謝しながら。

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