黒い花火

朝尾羯羊

本稿

 娯楽と云うものは、自分で生み出したほうが可いのではないか、などと云うことがしきりに思われる。もっとも効率的に自分に息抜きさせる方法を、自分で熟知して、それからそれを自作し、物足りなくなったらなったで、その都度補ってゆけば可いのではないか。しかし、特に近現代では娯楽はさかんな売買の対象であり、主目的があるところからの息抜きとしてではなしに、それが主たる目的と目され、何者かが営利目的でこしらえた娯楽に或る人の生活は牛耳られ、また或る人はありえたかもしれない独創的な生き方を台なしにされて了う。おのれの生き方の独創性がはなから娯楽の開発者の独創性によって凌駕されて了っていることは、とても屈辱的なことであるし、そう感じられなくてはなるまい。

 少年たちは六月の午後を、自転車に乗ってはしゃいでいた。あてにしていた友人の宅から追い出され、彼らは戸外そとで遊ぶことを強いられた。

 黒松の砂防林が、彼らを容易に海へとは至らせなかった。もちろんここには茱萸ぐみ合歓木ねむのきをはじめ、もっと雑多な植物が繁茂していて、潮騒をすぐそばにきかせながら、海岸道を海そのものから隔てている。すぐそばまで迫ってくる海を知らぬげに、収穫期をすぎた辣韭らっきょうばたけは、反対がわに高まってゆく丘の上、第二第三の黒松林の波のわだかまりに匿われながら、無感動な地肌をさしのべている。苛立いらだつ波とはおよそ好対照に起伏のない整地がほどこされている。その様子はまるで、満潮になってもここまで波が達しないことを知っていて平気で御蚕おかいこぐるみで立っている貴婦人の思慮深さを偲ばせる。少年たちはわかりやすい効率的な道を避け、わけもなく隘路を行った。

 駟馳山しちやまが繊巧なすがたで迫ってくる。少年たちは日本海に面した海食かいしょくがいがおのれをあらわにするときの作法にしたがった。涼しげに壁面に蔦をはわせた宿屋のかげから、塩見川があらわれた。しかしまだその河面かわづらうぐいすいろに、海の苛立ちは感じられない。橋をわたる。河ぞいの道をゆくと、海浜のあの濃淡を模したうすよごれた砂州さすが、河床のおちこちに吹きだまっている。やがて空に接しているのは黒松のそそけた輪郭ばかりになる。けわしい断崖にそばだてられた黒い始祖鳥しそちょうの翼とともに、海は突如として飛翔する。

 中学でできた新しい友だちにつれられて、つとむがこの公園を訪れたのは、すでに数度に及んだ。見晴らしのよい寄棟よせむねの四阿のそばに自転車をとめると、屋根のしたかげにすばやく駆けこみ、彩りゆたかな弁当箱をひろげるかのように、少年たちはめいめいカードゲームの山札デッキをひろげた。鬼ごっこをするでも、またそのために草も生えぬほど隙ない白い石敷いしじきの広場をつかうでも、まして、打上げられた海藻と、貝殻片で裸足はだしのふみどもない六月のうすよごれた砂浜へ駆けだすわけでもなかった。

 彼らは自然をあるじとする認識を欠いていた。人工物間の無為な空隙を修飾するのが自然であり、その特性はよく制御され、彼らの前に両がわに居流れて道をひらきつづける近習きんじゅの行列のようなものがすなわち自然だった。ふしくれについて湿気を帯びたテーブルはのためにざらついている。そこへ、少年たちの、自分自身にはけっしてなるまいとするいつわりの成熟の夢にこびるカードがならべられると、斑入ふいりの黒に縁取られたその夢幻的な図柄はたちまち来たるべき日のもっとも現実的なすがたをとり、彼らのぐるりを籠める自然は、その日に少しも与れない過去として捨象される。自然は過去だった。過去をもたない少年たちにとっての過去の部分がすなわち自然だった。

 広場の後ろに控えている公民館は、バリ風の方形ほうぎょう屋根を大小いただき、公園入口のほうからのぞむと、三つの小豆あずきいろの稜角が仲よく蟹行してみえた。堤防は低いが、右方へゆくにつれて徐々に高まり、高まってゆく波のモザイク画が、青から赤へ、堤防法面をふさぐモルタル目地の上に抽象されている。堤防の上にはX字の欄干をつらねた木道ボード・ウォークが小高く築かれ、漁港を抱きかかえている短臂たんぴな突堤のほうへとそのまま接続されている。

 四阿の屋根の下には影がこまやかに落ちている。

 四阿の下には悪事の影、犯罪性が影を落しがちであるが、こんな明朗な小さな鄙びた港では、四阿といえど、潮風に一種消毒されたきよらかな影を落している。その点、少年たちは炯眼の持主である。

 勉は新たな友人に自分に似た気質を見出だしてよろこんだ。勉学のなかには、自分の値打の遠い反映を本能的にみる一方、おのおの取り組んでいるスポーツがあった。しかもそれらすべてを、降りかかるであろう禍福を、左右にわかれて道をひらきつづけるあの自然たらしめようとする予防的な意志が支えていた。彼らはすべてを過去にする心算つもりだ。おそいかかってきて牙をむくより先に、現実を無力化し、飼犬のようにこちらから撫でてやるだけの過去たらしめようとしていた。外見は衛生的で、異性に対する無関心のよそおいも共通していた。娯楽にさえ、熱狂しないと云う安全弁があるおかげで、彼らは自己自身に安心しきっていた。

 彼らはカードの夢みるような図柄に陶酔していただろうか? ともすればそれは衛生的な護符の一枚にすぎなかったのではないか? 勉はこの性質をわかっていた。それは友人同士を安全に関係づけるが、度をすごすと、それじたいに唯一にして最後の友人として関係せざるをえなくする、危険な媒介者であった。この媒介者に関係するしかたにもまして、彼らが巧みに関係するものはなかった。

 あかるい室内燈の下にみるカードの図柄はいたずらに蠱惑的である。上から砥粉とのこをかけてことさら梨子地なしじに傷つけたようなレリーフはあやしく耀かがやかである。光りを沈ませるよう、油の層をうかべたものは、一面燈火の移るにしたがい、プリズムの光りを格子状にかえして、宝石のようにきらめくのだった。それらは少年たちの宝物になるべくひたすら媚び、もっと素朴なものに接して研かれるべき彼らの感性を、行ってみもしない洋行帰りのごとくかぶれさせ、成熟から永遠に遠ざけるのである。

 友人たちはさっそく対座さしむかいになってゲームをはじめた。海にまもられている手前、勉は加わりにくいものを感じて、自分の番がめぐってきても遠慮した。それどころか、衣嚢ポケットから山札を出すことさえしなかった。海に見戌られている手前、きまりがわるかった。それはそう云う以外に云いあらわしようのない感覚で、ざらついたテーブルの上に、四隅の角があまりに鮮明に出ているカードは、みすぼらしい春落葉にましてふさわなかった。突放すようにたがいに疎であるもの同士だけがこの場にはふさわしく思われるのだ。

 遠くで自転車のブレーキがきしれる音がした。それほどに海は今、凪いでいる。カードに重石おもしをする必要もなかった。

 右奥のいりうみでは、あの飛翔する松の生えた𡽶はなにかけて、揚陸用斜面スロープの平滑な白い面が黒い砥石に包丁をあてたかのように光り、幾艘もの白い小舟は、鶺鴒せきれいがそこに長い尾をよこたえてじっとしているかのようにいこうている。勉のいるこちら側はその斜面の上り端につづいており、一方広場は、斜面が海におちいるすれすれの高さの、低地に築かれているため、四阿は広場と湾とをろすかたちになる。堤防が右へむかって高まるのは、公園じたいが湾にむかって傾斜しているためである。

 公民館の後ろからまわりこんで、鍵の手なりに四阿のすぐ下に通ずる道を、斜めに突っ切って歩いてくる女の影は、やがて頭身の少なさゆえに少女らしさをまし加えた。すべてが右へ傾いているので、水平であるべきもののあとには段差がつづいた。段差と、それに沿うた側溝をも、危なげなく飛びこえた女の足取りは、散歩と云うにしては、あんまり確信にみちて運ばれてきすぎる。勉には最初、それが誰だかわからなかった。見なれたクロスバイクが白い広場のかなたに白いフレームを光らせているのを見つけて、はじめてその持主に思い当たった彼は、とっさに身を屈めたが、間に合わなかった。

「ねえ、ちょっと!」

 女は賽銭を御堂に投入れるように言い放った。友人たちはぎょっとして向き直り、この女を海のように感じた。凪いでいる海の精髄のように感じた。この時代、唯一気を置かねばならないのは人間だと言わんばかりに、彼らは両の手の指さきに檜扇ひおうぎのように広げられていた手札をぴしゃりと閉じて、背中にかくした。

「そこに勉君、いないかしら?」

 女は追及してくる。二人がかりで肩車をしても手がとどきそうにない高みにいるのに、こんな海の闖入をうけて、テーブル上にならべられたカードは、風向きを示す羽根ばねのように向きをかえた。勉は近くの友人の袖をひかえて、首を小刻みに振った。

「……いや。いないけど」

「ほんとう? じゃあ、どこに行ったか、知らない?」

「さあ……。今日は僕ら、会う約束してないからな」

「ふうん……。そう」

 友人たちのあいだに動揺が走った。ただでさえ伸びきった四肢に、肉の憂いがつきまといはじめる季節で、他の場合ではさもないのに、この女の――朝比奈の穿いているスコートだけは丈がいやにみじかく感じられる。すんなりとした腿から下へ、花粉によごれた鉄砲てっぽう百合ゆりのうちらのように膝の肉が熟れづいている。出してはいけないものがそこに放り出されているかのような、投げやりな感じが朝比奈にはあった。

 勉は友人たちの反応に満足した。かたや性的に大胆になることに熱心な連中とは距離をおいた。朝比奈のことが性的な話題に上るたんびに、虚栄心が勉に軽口を叩かせたが、生理的な嫌悪がこれにつづいた。プラトニックであることは、たがいの肉体的な差異を衣服でおおうことの上にあるからである。

 沈黙があたりを押包んだ。

 膠着状態をようやく解かれて、友人たちは顔を見合わせた。カードの図柄のかがやきは、日がかげるようにうつろうたが、彼らは義務のようにテーブル上に向き直る。それでもなおこの昼日中にカードゲームをしていて、しかもそれを見られて了ったことについて、彼らはさかしいなりに弁解の必要を感じた。

「何だったんだ?」

「あれ、三組の朝比奈さんだろ?」

「最初は俺らがなんかまずいことしたのかと思ったよ」

「何かやらかしたのか、勉?」

「いや……」

 と、勉はあの堤防までがすっかり高台のかなたに沈むよう、しゃがみ込んだままだったが、

「ね、どう? まだそこにいる?」

 と、おそるおそるたずねると、

「ん? なんで、もうとっくに行っちゃったよ」

「え?」

 彼女がそこにまだいそうな声のひそめ方に勉は騙されていた。あわてて立ち上って、広場の全景を視野に収めたものの、彼女の姿はあとかたもなかった。勉ははじめて狼狽した。追われる立場を享楽していたことに気がつき、しかもこれをかぎりに、追われなくなるかもしれない。追及が思いのほか足早にしりぞいたことを、波と戯れる心で、物足りなく思ういとまもなかった。

 木の欄干につらまって身を乗り出した。灯台のあかりがゆるゆると磯廻いそみするように、港の小景にそなわる逐一を勉の瞳はせまく照射してまわった。ついに四阿がその上にあるにすぎない二重堤防の、左手にのびるのけぞるような凹面のなりにかえってゆく彼女の背中が見えた。友人に何の断りもせずに彼は駆け出していた。

 葡萄酒いろの堤防にはささつ波のようすが抽象されており、その波形のくりかえしは、走っている勉に、風の代わりに彼が走っていることをしつこく教えた。その間、まるで空箱のなかの氷菓子の棒のように、カードはこれをおさめた箱のなかで遊びに遊んで、彼のコレクションの些少さを物語り顔である。

 把手までがまばゆい白さに塗られたフラットハンドルに手がかかり、片脚のスタンドが撥ね上がった。ほとんど十割の力で走っている勉のふところから、カードをおさめた箱がまろび出て、敷石の上を彼について二三尺ずって了ったのを、取りもあえせず、

「ちょっ……ちょっ!」

 と、漕ぎだしている朝比奈に向ってなのか、傷ついたカードケースをいたわってなのか、わからないような声をあげた。駆け出したまでは可かったのだ。いわば、走るのが好きで走っていたようなものなのだが、いざ追いつきそうになると、何と言ってよいやら、考えのまとまらずにいる彼は、いっそもっと朝比奈が手の達かない遠くに行ってくれることをねがいさえした。

 朝比奈は漕ぐのをやめない。

「おいっ……おいったら……ちょ、待てって!」

 全身にみなぎる快い負荷を得て、彼の心ははじめて声を荒げる資格をも得た。甲高いブレーキの軋り音のあとしばらくして、朝比奈はようやくこちらを顧みて、

「ふん……やっぱりいるんじゃない」

 と言った。兇暴な目つきは猛禽類のそれを思わせて、顎を反らすとおくれてものうげにふさがれる瞼のふくらみに、恍惚境に入っているかのような如菩薩の色気が漂った。髪は風をうけたわけでもあるまいに、炎のうねりのような耀きを透かしている。

「何か用?」

 と、ぶしつけに問うたのは朝比奈のほうだった。

「え……いや……いやいや。用があるのはそっちでしょ」

「私の用はもう終わったの、あなたが隠れてる間に」

「そんな」

「わざわざ走ってくる位だから、よほどのことがあるんでしょ……で何?」

 憮然とすべきを、わざと問いには問いを返して、

「いや……だって今日、女子テニス、一年どうしで試合するって話じゃないっけか。なんでいるのかなって思って」

 と言うと、そこからさがるびんの毛が瓔珞ようらくのようにうねりにうねる顳顬こめかみのあたりに、手をさし入れて、これをかき上げ、

「あなた。自分部活にも入らんで、中間試験で一番とれなかったくせに、こんなところで遊んでて、よくそんな口がきけるわね」

 と言ったのは、彼女がれてくるときの仕草である。

「だ……だめなのかよ、遊んでちゃ」

「だめじゃないなら、なんで堂々としてらんないのよ?」

 勉がこの叱責を海嘯のように浴びたるは、彼が心待ちにしていたものからか? 渚にしたがうて、白く発泡するすそがゆらめき、海岸線を舐めまわしているものの、沖はあくまで藍いろの不毛の大地である。ずらりと浮かべた笑窪の下には、身をくねらすものの青海波のめくるめきを、地上をちょうどさかさに映したかのようにかくしているが、内なる躍動は上からのぞむかぎりではわからない。彼は置き去りにしてきたカードケースが気になっていた。

「ねえ……ちょっ、とりあえず取りに戻ってもいいかな。大事なもの、落として来ちゃったんだ」

「何やってたのか、教えてくれるんなら、いいわよ」

 言うなり、朝比奈は勉の返事も待たずに、サドルから降りてそのあおごまの頭をこちらにめぐらした。友人たちであれば、愛著あいちゃくをもっているのだとさらりと告げるであろうことが、はたして自分にはできにくい。自分自身でありたくないと云う翹望の可視化がこうも彼を鼻白ませるのであるか? 彼はすごすごと、

「……わかったよ」

 と言った。彼女が降りたあとのベージュのサドルの色艶は、さらでだに彼女のおしりの坐りを伝えるかのようにへんに肉感的だ。

 自転車のチェーンが、巻き戻せない時間を巻き戻すぜんまいのような音をむなしく響かせている。二人はもと来た道を引き返した。

 人一人いない寂しい砂浜は、年配の教職員の、額の禿げあがり方を思わせた。生き残った後ろ髪のように、みじかく刈られた黒松の根を強うして、顱頂をば取囲とりかこみ、これ以上の砂漠化の進行を支えているかのようである。

 初夏の日にあぶられている辣韭畑のなぞえが飢渇の色を浮かべていた。その砂山のごとき無気力な姿で海へとなだれ込む線が、恰も砂浜が築いている傾斜に紛れ入っている。堤防の横線にかさねて、弓なりに美しい砂浜のくびれを描いている曲線と、鳥取砂丘につづく右方へとのがれてゆく海岸線、二ツ山のこぶのような短い稜線、鷲峰山じゅぼうやま徳山とくさん、はてはだいせんにいたって愈〻いよいよゆるやかに、ほとんど海と一面な角度で入水じゅすいしてゆく青黒い稜線が、幾連いくつらとなく重複しているのである。沖合では波状雲がうねを耕しており、薄墨うすずみいろのちぎれ雲がその下を低く、てんぽうに任せて東逝とうせいしている。

 何事もほどほどにしか取組まない要領のよい人たちのことを、彼女は嫌っていたから、勉を彼らから引き離したい気がされた。とは云え、ここまでが彼女なりの自己診断の結果である。

 勉はそれを言われるのが厭だった。習い事のピアノが継続になってどこの部活動にも属せなくなった。あとは単純に登下校でこなす距離が誰よりも長いと云うだけの理由で鍛えられた足の速さくらいなものだ。勉強に励もうにも、今どこか均衡を失している彼には根本的に動機が欠けていた。

 人間同士の日常的な関係の組み直しと云う試技なのだ。互いが互いの中に相手の既成秩序からの解放を認め合おうと欲するために、相手を必要としている。互いの関係を組み直すのではなく、個人の世界に対する関係を組み直すために、相手を必要としているにすぎなかった。

 夢幻的な図柄がここで果たす役割は、世界の過去化だ。めぐり合わせの信仰は、来たるべき日における先験的なもののを模倣している。毎度のごとくよみがえり、今は自分の手許にない天賦自然てんぷしぜんを彼らは引き当てようと欲するのである。

 ところが、ここで勉が不満なのは、手札の公平な引き直しがおこなわれても、めぐってくるのは又しても、所与のものだと云うことだった。

 白い石敷の広場に自転車が乗り入れられた。片脚で立たせると、朝比奈はあいた両の手をおもむろに前にさし出した。きれはなれのよさを衒ってこれに応じた勉だったが、箱を手渡すがはやいか、

「……言っとくけど、今日は一回も、中から出して使わなかったんだ」

 と、罪をなだめられたげに言い添えたのだった。

「いちおう持って来たってだけで……皆ながやってるのをただ見てたんだ、だから」

「ふうん……。どうしてやんなかったの」

「……さあ。なんでだろ、よくわかんない」

 ずいぶん遊びのある箱から取出したとき、しかしながらカードの四隅はしっかりととがっていた。勉の几帳面な性格がよくあらわれていた。

「これ知ってるわ、私」

 と、空になった箱を勉に持たせて、自分はその几帳面にうずたかい山札を左手に、右手は二本、指を立てて、今にも崩れそうなこれを持ち添えた。

「こうやって持って……たしかこんな感じでしょ?」

 千鳥ちどりにさばく蹴出けだしの音いとさやかに、憎さげに口を窄めて、

「シュッ、シュッ、シュッ」

 とつばきしながら、手裏剣をでも打つような手つきで、続けざまに山札を横にいだ。二三の黒い札が鋭角に空を切った。

 勉にはじめて怒りが湧いた。

「何するんだよ!」

 彼女の背中をどんと搏つと、乳房のなかに詰まっている虚しさがあでやかに揺れて、太鼓のぬりどうのような音がした。と、咄嗟に横に倒れかかるカードの塔を両手で抱えてかばったために、朝比奈は膝をまともについて了った。浮いていた砂粒が彼女の薔薇いろの膝がしらに喰い入った。否、その皓い歯列をあおむけて広場が彼女の膝に嚙みついたように感じた。

「おい……」

「どうして……?」

「……え」

「……どうして……そんなに、つめたいの?」

「……なに」

 聞きとれなくて、勉もしゃがみこんだ。すると、朝比奈の汗が香った。彼女の赤みがかった髪がおおいかぶさってえりあしを見せ、丸めた背中には歔欷きょきが打寄せ、全身で勉のカードを固く固く抱えこんでいる。

「私最近……太ったから」

「ふとっ……え……?」

 勉はスコートの裾外れに光りを弾いているふともものあたりを恐ろしげに見た。

「……誰か、そんなこと言ったの?」

 朝比奈がかぶりを振った。

「からだが重いの、最近……思ったように、動かないし」

「だからって……」

 朝比奈が近ごろことに投げやりな感じを、身の挙動こなしから与えたのは、理由のないことではなかった。彼女は自分の膝を白状させるかのようにそこにきつく引き据えた。

「とにかく、立と。ね……」

 勉が彼女の肩に手を廻そうとすると、

「……もう……私のこと、厭になっちゃったんでしょ?」

 と言った。勉は介意かまわずに、二つ折りになっている鳩尾みぞおちのあたりで組み合わされた朝比奈の左のかいなを引っこ抜こうとした。これに頑なな結び目のような力が応えた。

「……もういいから、放せっ……て」

 勉は無意識に右の手で朝比奈の右の腋下えきかを押した。竦んだように彼女の上体は起上って、手もとがゆるんだ。両膝をそろえて折畳まれた白い腿の上を、さかさまに黒いカードが這うように雪崩なだれた。

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