第4話 陰陽生

 利憲の屋敷に連れて来られた翌日、飛燕に身を清めてもらった楓子は、背よりも長かった垂髪すいはつを肩のあたりでばっさりと切った。


「楓様、少し幼く見えますわ」

「そ、そう?」


 軽くなった頭を押さえながら飛燕の差し出す鏡をのぞいてみると、確かに子供の頃の自分に戻ったようだ。庭を駆け回っていた頃は、そう、こんな感じの髪で身軽だったと思い出す。


「髷を結いますね」


 きゅきゅっと頭の上で髪を結んで束ねると、さらに身体が自由になった気がした。


「あら凛々しい」

「私、男の人に見えるかしら?」

「駄目ですよ、楓様。『僕』って言わないと。大丈夫です。可愛らしい公達に見えますわ」


 可愛らしいとは男性に使う形容詞ではないと思うのだが。楓子は苦笑しながら『ありがとう』と返す。

 飛燕に褒めてもらって、この先の不安が少しだけ軽くなった。


 男の姿で出仕するのは怖い。しかし、陰陽寮の学生、陰陽生となれば宮中に入ることができる。そう利憲に言われて覚悟を決めた。一人で苦しむ妹姫を放っておくことはできない。


 そしてその日、楓子は利憲に連れられて大内裏の門をくぐった。





 それからしばらく、楓子にとって初めてのことばかりの生活は目まぐるしく過ぎた。

 身分の低い楓子は牛車で出勤はできない。利憲はどうせ同じ場所へ向かうのだからと乗るように言ったが、楓子はあえて断った。今朝も飛燕の見送りを受け一人で内裏へと歩いて向かう。

 中納言邸にいた頃には見たこともない外の世界だ。道ゆく人や風景はすべてが珍しくおもしろい。頭の上に燕が飛んでついてくるのには気付いていたが、ありがたく思って黙っていた。


 大内裏の門をくぐり中程へ進むと中務省が見える。この中務省の隣に陰陽寮はある。目の前に内裏へと続く建礼門が見え、この先は今上帝とその周囲にはべる女官達の世界だ。


 門の向こうの空を見上げて、楓と名を変えた少女は妹の名をそっと呼ぶ。そして、両腕に書物を抱え、楓は建礼門に背を向け陰陽寮へ入っていった。

 

 

「楓、こっちに来い」

 

 寮へ入ってすぐに楓を手招きしたのは、十人いる陰陽生のうちの一人、名虎なとらだ。彼はひと月前、楓が初めて寮に入った時に利憲によって案内を頼まれた。それからも彼は楓を弟分としてなにかと世話を焼いてくれる。

 

「お前、陰陽頭おんみょうのかみに連れられて来たってだけで目え付けられてるんだから、気をつけろよ」

「ありがとう」

 

 本来は陰陽師の家系の子弟を学生として育てる陰陽生に、利憲は自分の権限を用いて才能一つで素性の知れない楓を入れた。その上、利憲はこの学生を自分の屋敷で養っているという。どれだけの期待を背負っているのかと、陰陽生ばかりでなく、天文生や暦生の間でも楓は注目されている。

 破格の待遇に嫉妬する学生もいたが、陰口を叩く者に名虎は学で勝負しろ、と冷たく言い放った。名虎は成績が良く、八月の考査では得業生(特待生)に選ばれるのでは、と言われている。彼にそう言われれば返す言葉を持つ者は少ない。

 

「しかし、お前本当に覚えがいいな。もうそんなに読んだのか」

 

 優秀な名虎にそう言われると嬉しい。本を抱えて楓は楽しいよ、と答える。

 学問は嫌いではない。周の易経や五行大義の分厚い書物を与えられた時には正直ここまでせねば妹に会えないのかとゾッとしたが、陰陽博士の授業は分かりやすく面白い。

 

 これまで屋敷で筝の琴や書を習う事はあっても、男性が学ぶ書物を手に取る事はなかった。父が何かの折に漢詩をうたったのに興味を持ち、漢詩の書は何冊も母にねだって読んだことはある。しかし、母が亡くなってからは新しい本どころか、持っていた漢詩の本ですら男性が読むものだからと遠ざけられた。

 

 ここに来て漢字ばかりの書物には戸惑いもあったが、その反面わくわくする。屋敷に帰ってもこの頃はずっと寝食忘れて書物に向かっていた。

 日に日に知識の増える陰陽生に、指導にあたる陰陽博士も舌を巻くほどである。

 

「博士はまだ来られていないの?」


 いつも真っ先に来て準備をしている陰陽博士の姿が、今日はどうしたことか見えない。それに、いつになく寮の奥がざわざわしている。何事かあったのだろうか。

 名虎が机に本を置きながら頷いた。

 

「中納言殿が来られているんだ」

「中納言?」

 

 思いもかけず父の職名を聞いてどきりとする。

 

「何の御用だろう」

 

 よもや自分を探してではあるまい。あの父ならば、自分が中納言邸を去ってこのひと月、探すどころかいないことに気付いてすらいないかもしれない。

 周防から利憲に会った事は聞いているかもしれないが、利憲が父から何か問い詰められたと言う話も聞かない。連れ帰る気があれば、とっくに屋敷に乗り込んできているだろう。

 そういえば周防はどうしているだろうか。忙しすぎて失念していた乳姉妹を思い出して、自分も父に似て薄情だなと自嘲する。


「中納言殿が陰陽寮うちに来る時は何か内裏からの依頼だろう。さては中で何か起こったな」

 

 名虎の言葉が終わらないうちに、陰陽介おんみょうのすけに呼ばれて二人の陰陽師が向かうのが見えた。

 

「普段の行事でない時の依頼は、変なのが多いんだよな」

 

 名虎が顔をしかめている。楓は彼の横顔を見上げて首を傾げた。

 

「変なのって、どんな?」

「内裏に虹が掛かったから吉凶を占え、とか、あやかしを見たから調査しろ、とか」

「妖……」

 

 楓の胸が早鐘を打つ。

 桜子に何かあったのでは?

 それで父が寮に?

 

 深刻な顔をしていたのだろう。名虎が心配するなと言って楓の肩を叩く。

 

「何かあっても俺らには関係ない。動くのは上だけだ」

 

 それではいけないのだ。自分がここにいる目的は病がちな桜子を救うため。

 利憲は桜子の病は呪詛ではないかと言っていた。内裏に妖の気配がするとも。以前利憲が言っていたように、いよいよ困った偉い方々が陰陽師に調査を依頼してきたのかも知れない。

 

 とすれば、これは好機だ。

 利憲はどうするのだろう。

 

 早く一日が終わらないか。楓は寮に通い始めてから初めてそう思った。





     *****


 これより先、姿を変えた楓子の表記は楓となります。

 誤植ではありません(ᴗ͈ˬᴗ͈)"

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