第2話 蠱毒の妖

 家人ではない、見たこともない男に周防はふるえを隠して楓子を背に庇う。侍達も西にはほとんど見回りに来ない。女一人で主人を守れるだろうか。

 しかし、そんな不安を悟られぬよう、周防は威厳のある声で男を威嚇する。

 

「ここは中納言邸の西の対屋。二の姫様のおられる所。余所者が迂闊に入ってはならぬ。斬り捨てられぬうちに疾く立ち去れ」

 

 男は周防の言葉に足を止めた。

 

 武官ではないすらりとした身体付きで、身分もそう低くはないだろう。美しい立ち姿と身のこなしには貴族らしい優雅さが漂っている。年齢不詳。そう若くはない落ち着きを漂わせているが、白皙の美貌はまだ二十代前半と言ってもおかしくはない。

 

 そう冷静に観察しながらも男を睨みつける周防に、男は手に持っていた扇を袖に隠して軽く頭を下げた。

 

「読経に追われたムシを追って来たのだが、これは失礼した女房殿」

 

 くたびれた着物と袴を身につけた楓子を、姫だと気付いていないのだろう。まだ周防の方が、一の姫から頂いた真新しい女房装束を身につけていて、婢女はしためではないとわかる。

 

「何者です? 蟲とは何です」

 

 警戒したままの周防に、男は軽く頭を下げて答える。

 

「私は陰陽師の賀茂利憲と申す。中納言殿に呼ばれて参ったのだが、屋敷に入った途端にあやかしを見つけた。あれは呪詛による産物。祓っておかねば屋敷の者に害をなす」

「呪詛?」

「古い呪詛の気配がする。昔、この屋敷で何者かによる呪詛が行われたのであろう」

 

 呪詛、この屋敷でそのような事が行われたというのか。楓子が首を傾げると、どこかでカリカリと軋むような音がした。

 楓子の手にとまっていた燕が、ピイと警戒するように鳴いて羽ばたく。

 

 舞い上がった燕が楓の木の向こうへ飛んでいった。木の向こうからキリキリと何かが擦り合わされる音がする。

 その音のする先を見た楓子の目に、信じられないモノが映った。

 

「きゃあ!」

 

 人の背の二倍ほどの巨大な蟷螂カマキリがこちらを見ている。


「どうしたのです?」

「周防、あれが見えないの? 大きな蟷螂がこちらへ来るわ!」

「何も見えませぬが」

 

 狼狽える周防の袖口をつかんで、楓子は蟲から距離を置こうと後退る。

 

「あれが視えるか、娘」

 

 利憲と名乗った陰陽師は怯える楓子をみて、楽しげに笑う。

 

「見鬼の才……。異能の持ち主か」

 

 何を呑気に笑っているのか。楓子が抗議の視線を送ると、彼は指を立てて印を結び唇に添えた。

 

『——四海の大神、百鬼を避け、凶災を蕩う。急急如律令』

 

 彼の口から歌のように呪が唱えられる。

 するとキンと澄んだ音がして、自分達の周囲に見えない壁のようなものが展開されたのを楓子は感じた。

 

 利憲は楓子達を結界の中に置いて、空を飛ぶ燕に向けて命じる。

 

「飛燕、あれを砕け」

 

 ピイと了解の鳴き声がして、燕がくるりと宙返りした。かと思うと、一瞬のうちにその身体が膨れ上がる。そしてからすに姿を変えた燕が蟷螂に飛びかかった。

 

「燕がからすに!」

 

 楓子を抱きしめる周防が、姿を変えた鳥を見てふるえる。

 それよりもあの恐ろしい蟷螂が周防には見えていないようだ。そっちの方がずっと恐ろしいのに、と楓子は周防にすがりついた。

 

 ガチガチと口を鳴らしながら蟷螂が、烏の舞う空へ鎌をふるう。

 すいとその鎌を避けて降り立った烏はその足で蟷螂の頭を掴むと、大きく羽ばたいてぐるりと回った。

 

 ギャア

 

 もぎ取った頭を地面に捨てて、烏は利憲の肩に舞い降りる。

 頭を失った蟷螂は、地面に倒れるとサラサラと粉になって消えた。


「よくやった」

 

 満足気な主人の言葉に烏は頷き燕に戻る。

 陰陽師の使役する式神、あの燕はそうであったのだと楓子はわずかに伝え聞く彼等の実態からそう判断した。

 

「周防!」

 

 地面にくたりと倒れた乳姉妹を抱えて、楓子が揺さぶる。その横に膝をつき覗きこんだ利憲は、意識を失った女房の額に手をやり首を振った。

 

「心配はいらぬ。気を失っただけだ。式の変化へんげに驚いたのだろう」

 

「貴方は誰? ただの陰陽師ではないのでしょう」

 

陰陽頭おんみょうのかみ・賀茂利憲。それより、其方の方が私は気になる。あの蟲は蠱毒によって生まれた妖。この場所を、というより其方を狙っていたように見えた。この場所で原因不明の病が出た事はないか?」

「原因不明の病……」

 

 覚えがないとは言えない。

 母や乳母達が亡くなった流行病、不思議と邸内でも西の対屋だけに広がった。

 

「誰が呪詛を行ったかは想像がつくが……、異能を持つ其方には効かなかったのだな。あちらでも読経はしているが、大して役には立つまい。女御の病も誰ぞの呪詛だろう」

 

 くだらないものを話すように利憲はふっと息を吐く。

 

「呪詛! 呪詛が原因なの?」

 

 がばっと利憲の着物をつかんで、楓子は顔を晒すのも厭わず詰め寄った。

 

「内裏に近頃妖の気配がしている。帝もそろそろ気付いたようだ。じきに陰陽寮にも調査の依頼が来るだろう」

 

 陰陽頭は従五位下。殿上を許された彼ならば、桜子に直接会う事も不可能ではない。

 

「桜子……、弘徽殿の女御様に会わせてくれませんか?」

「何?」

「私ならば、女御様の病を治せるかもしれません。どうか、私を連れて行ってください」

 

 会ったばかりの男にこんな事を願うなど、気が触れていると自分でも思う。しかし、楓子はこの機会を逃すわけにはいかない、そう思った。

 その楓子の必死な様子に利憲も何かを感じたようだった。


「女御の周辺で何かが起こっている。帝がお許しになれば同行することもできよう。其方の持つ異能は陰陽寮にも役に立つ。女子としてではなく、陰陽生として寮に入れてやろう。それでも良いか?」

「はい」

 

 男と偽り出仕せよという利憲に、楓子はそれでも桜子を救わねばと思った。

 大切な妹……、今となれば彼女だけが自分を思ってくれる肉親だ。

 

「其方の名は?」

「——楓」

 

 夜闇にまぎれて一台の牛車が中納言邸から大通りへと消える。

 そしてこの夜、気を失った女房を残して、中納言家の二の姫は何者かに攫われた。

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