異能の姫は後宮の妖を祓う〜平安陰陽奇譚〜

藤夜

第1話 忘れられた姫

 中納言邸の西の対屋は夜になると明かりが消える。

 油が灯され明るい屋敷の中で、そこだけが夜が深い。人の気配も少なく物寂しいその簀子(廊下)を、小さな明かりを手に持ち一人の女房が歩いていた。

 

「姫さま、二の姫さま、どちらにあらせられますか?」

 

 まだ若い女房は美しい黒髪をなびかせて、足早に主人を探して部屋を渡り歩く。

 

「ここよ、周防すおう。こっち」

 

 女房、周防の予想を裏切り、主人の声は部屋の入り口にかけられた御簾みすの中からではなく、闇に沈む庭の方から聞こえてきた。周防は慌てて勾欄こうらんから身を乗り出し、庭の方へ明かりを向ける。

 

「火は消して、周防。今夜は満月よ。月の明かりで十分明るいわ」

「姫さま、どうしてお庭に? 危のうございます。誰かに見られてはいけません」


 慌てる周防に、二の姫・楓子かえこはくすりと笑った。

 普通は高貴な姫君が夜に庭に降りて散策していることなどない。けれど、この屋敷においては、特にこの西の対屋においては誰も見咎める者もおらず、楓子は自由だ。

 

 中納言の妻であった楓子の母は五年前に流行病で亡くなった。同じ病で乳母も死に、古くから仕えてくれていた女房達も何人か亡くなっている。病を怖れた残った使用人達は屋敷を出るか、中納言のもう一人の妻である北の対屋の北の方のもとへ行き、現在では主人のいなくなった西の対屋で働く者は少ない。

 父中納言は母を失った楓子の世話は北の方に任せたきりで、自身の娘二人の世話に忙しい北の方は楓子には見向きもしない。その為、ここには女房も下人も数名しかいないのだ。

 

 周防は楓子の乳母の娘であるが、見た目も良く気の利く彼女は北の方の命令で東の対屋に住む中納言の一の姫の女房になっている。しかし、楓子の事を心配する周防は、毎日西の対屋に来ては何かと楓子を助けてくれていた。

 

「大丈夫よ。誰もこんな時間にこの西の対屋には来ないわ」

 

 そう言って楓子はそばに植えられた楓の葉を一枚ちぎる。

 満月にその葉を透かしてみて、そして欠けのない事を確かめると先にちぎった葉と共に懐紙に挟んで懐にしまった。

 

「またそのような事を。誰が入り込むやもしれませんのに」

「ここに入り込む族などいないわ。何も盗るものなどないもの。あちら側ならまだしも」

 

 そう言って、楓子は北の方を見る。


「北の対屋の方から読経の声が聞こえてくるので気になって。北の方様がどうかされたの?」

  

 楓子の住む寂しい西の対屋にまで読経の声が聞こえて来ている。北の対屋で僧侶を呼び何かを祓っているのだ。

 問われた周防は楓子に早く部屋へ戻るよう手招きしながら答えた。

 

「北の方様が祈祷してもらっているみたいです。東の対屋の女房に聞くところでは、三の姫様の病気平癒を祈っているとか」

「桜子が病気?」

 


 今上帝に入内し、とりわけ寵愛されているという妹・桜子が病を得たとの知らせに、中納言の北の方が呼んだものだという。

 

「三の姫様はお身体がお強くはありませんから、後宮での暮らしがご負担なのかもしれません」

「桜子……。可哀想に」

 

 楓子と桜子は同い年だ。

 母は違うが、二人はまるで双子のように容姿が似ており、幼い頃はよくお互いの対屋を行き来して遊んでいた。

 しかし、いつ頃からか、桜子は病気がちになり寝込むことが増え、その度に楓子は東の対屋に忍び込んで桜子を見舞っていた。

 

「私のおまじないで治るかしら。桜子に逢えればいいのに」

 

 楓子のおまじないとは、西の対の庭の楓の葉に願いを込めて桜子に渡すのだ。初めは楓の葉で楓子がそばにいると思って欲しいと考えたから。

 しかし、そんなたあいのない子供の思いで始めたおまじないではあったが、不思議と葉を渡した翌朝には桜子の熱は嘘のように下がり、また朗らかな笑顔を見ることができた。

 

 半年前、本当は入内などしたくはない。そう言って泣いていた桜子を思い出し楓子は眉をひそめた。

 父中納言の出世の為に、怨念渦巻く内裏に行かざるをえなかった妹姫を思うと、着る着物にすら困窮する寂しい暮らしもさほど苦しいとも思わない。

 

 妹姫を思って満月を見上げた楓子の目の前に、小さな黒い影が横切った。

 

「あら……」

 

 蝙蝠かと思えば違う。楓の木の枝に一羽の燕が降りてとまっていた。

 

「こんな夜にどうしたの? どこから来たの、お前」

 

 夜目の効かない燕が夜に飛ぶなど珍しい。

 差し出した指先に燕はちょんちょんと飛び乗ってきた。

 

「ふふ、可愛い」

 

 不思議となつこいその鳥は、楓子の手の上でピルルと鳴く。

 

「姫様、そんな鳥に触れてはいけません」

 

 楓子を嗜めた周防は、砂利の上を歩く足音にはっと振り返り楓子のそばに走り寄った。

 

「何者!」

 

 誰何の声に一瞬立ち止まった足音は、ややあって再びこちらへと近付いてくる。

 月明かりの中、砂利を踏んで現れたのは狩衣を着た妖しいほどに美しい男だった。

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