息が出来ぬほど

綿来乙伽|小説と脚本

息苦しさを感じる。あの時のようだ。

 私が三歳の時、キャンプ場の池に落ちたことがあった。暗がりの中、子ども達だけで手持ち花火をしていて、池の方に少しずつ下がってしまったのだ。気付かずに背中から落ちた池が、水深何メートルだったか、どんな様子で落ちたのかは、大人になった今になって主出すことは出来なかった。その代わりに、池に沈んでいく自分の重い体と、少しずつ息が詰まり、苦しいと感じた心だけが私の記憶に残っている。


 あれから二十年が経ち、私は大学を卒業し就職していた。が、辞めた。主に環境が原因である。私は昔から、環境に左右されて生きてきた。課せられた問題や作業の難易度よりも、それを行なう場所や人間が私の作業効率を支配していた。私は環境によって動きが大きく変わる。初めて働いたあの職場も、私に向かない環境が続き、息苦しさから辞めてしまった。その息苦しさは、幼少期に感じた水中の息苦しさに似ていた。酸素を取り入れようとも、手を伸ばして届く範囲にはそれは見つからない。もっと広々探そうとも、自分の視界には水しか存在しない。それがとても辛く、生きている心地がしなかった。


 半年前に再就職した場所は、とても良い環境だった。初めて貰う自分のデスクは、いつも新鮮に私を歓迎してくれた。前職とは全く違う環境に感動しながら、目の前に座る部長に挨拶をした。


 「おはようございます」

 「おはよう」


 部長は笑顔で挨拶を返してくれた。彼はとても恰幅の良い人で、デスクの幅からはみ出そうなくらい大きい人だった。彼が動くと部署の全員が振り向くほど彼の存在は注目を浴びた。私は彼が目の前に座ってくれるだけで仕事が捗った。


 私は日差しが苦手だ。


 前職は毎朝新卒が開店準備をしていた。朝鍵を開け、会社全てのカーテンを開ける。息苦しい。辛い。水と同じ、あの時の池と同じ息苦しさがそこにあった。私は一瞬にして放たれる一筋の日差しが苦手だった。前職の開店準備に耐えられず職を辞したのだ。


 転職先は日当たりが良かった。朝の太陽、夕方の夕日に当たると私の周りから酸素が無くなるような気がする。だが今の職場は、日当たりが良いはずなのに私に全く光が入らない。


 私の向かいの席が、恰幅の良い部長だからだ。


 就職した時から、部長の前の席が空いていた。部長は嫌われ者でも、いじめられていた訳でもなく、むしろ皆から好かれていて、お土産のお菓子から飲み会費だって全て払ってくれる最高の上司だった。彼の前に座る人間が一人もいないのは、せっかく日当たりが良いオフィスなのに、部長の前だけ日が当たらないからだ。「日が当たらないんだけど、ごめんね」と先輩社員に教えてもらったが、その時の私は残念がるどころか目を輝かせて「ここで働かせてください」と伝えた。目の前にいた部長は、少しだけ笑っていた。


 それからの日々はとても充実していた。仕事環境が良いと、仕事が楽しく進みも早い。私は部長ありきの仕事を来る日も来る日もこなしていた。


 部長が会社を辞めた。会社の金を横領していたらしい。


 朝出社すると、私のデスクにあるはずのない一筋の光が差し込んでいた。見ないふりをして向かおうとすると、先輩社員に呼び止められて、部長の一件を知らされた。部長は昇進してすぐ、会社の金周りを把握し、少しずつ自身の銀行口座に流していたそう。部長から貰ったお土産のお菓子も、部長が払っていた飲み会代も全て経費が横領されて彼の物になっただけの、ただの犯罪者であった。


 彼が逮捕され、どこからかやって来た私より細い初老の男性が部長の席に座った。部長が隠していた日差しがはしゃぎながら私のデスクと私を突き刺してきた。また私は水中に来てしまった。あの時の池の中の重い体が、今私の全身に憑依している気がした。あの時感じた息苦しさが今私の喉に絡みついている気がした。苦しい、日差しが、私を縛り付けて、酸素が拾えなくなる。


 部長の逮捕でざわつく社内で、私は息を止めた。

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息が出来ぬほど 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21

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