青木ヶ原スーサイド・ツアー
逢坂 新
青木ヶ原スーサイド・ツアー
生意気にも
ダイハツの古くて真っ赤な2シーターは彼女の歳の離れた姉のお下がりで、小さく丸っこい見た目とは裏腹に、ガチガチに固いレース用の足回りが組み込まれている。
笠岡姉は結構なエンスージアストらしく、足回り以外にも相当な手が入っているようだったが、残念ながら俺はそこまで車には詳しくないのでよくはわからなかった。
先輩のL880Kについて俺にわかることといえば、
「そろそろ説明してくださいよ。納得のいく説明を」
地面の凹凸をもろに受け、がたぴしと音を立てる助手席で俺は言った。
「さっきしたはずだけど。自殺してみたくってさ」
ステアリングを切り、車を料金所に滑り込ませながら先輩はしらばっくれる。必要がないのに無駄にもったいつけるのはこの女の悪い癖で、そういうのは自分のETCカードで高速料金を払ってからにして欲しいと俺は思う。
「あのね、先輩。あんたみたいな他責思考のクズがいきなり『自殺したい』だなんて、俺が信じると思います? 断言できますけど、百歩譲って仮にあんたが自殺するとしても、最大限、周りの人間全員に考え得る限りの迷惑を掛けてからでしょう?」
「
ギアを二速に入れながら、
俺の隣で軽自動車のハンドルを握るダメ人間には
一日で煙草を一箱半吸い、二日に一回しか風呂に入らない。学内に俺以外の友だちは居らず、はっきりと言えば、極力関わるべきでない人間だ。
けれど俺には彼女にちょっとした恩義があった。土曜日の深夜に「ちょっと来て」のLINE一本で急に呼び出されても、文句を言わずに馳せ参じるくらいには大きな借りだ。
小気味よいタービン音をうならせながら、車は加速レーンを離脱する。深夜の高速道路は空いていて、我々の他にはほとんど車は見当たらなかった。
時折、何らかの荷物を満載した大型トラックが、静かに、システマティックに航行しているだけだ。
「……まあでも、そうだよねぇ。じゃあさ、妹尾くん。グローブボックス開けてみてよ」
俺は言われるがままに目の前の収納を開ける。グローブボックスには車検証が収められたファイルと、何らかの黒いものが入ったタッパーウェアが置いてあり、その上にホチキス留めされたA4のコピー用紙が素っ気なく放り込まれていた。
表紙には陰気な女の顔がモノクロで印刷されている。ワンレングスの長い黒髪に、アジア人然とした色白の造形。のっぺりとした頬には儀式めいたペイントがされている。白い服を着て森の中でぼうっと佇む姿は、どこか不安な気持ちをかき立てさせる。
「……〝青木ヶ原さん〟ですね」
「ご明察。詳しいね」
「幽霊部員でも、一応オカ研ですからね、俺も」
青木ヶ原さん。あるいは、青木ヶ原ガール。
少し前にSNSでバズったやつだ。画像生成AIのプロンプトに「AOKIGAHARA」と打ち込むと、時折出力されるという謎の女の画像のことだ。言うなれば、日本版の
「でもこれって――」
「そう、ガセだって話だね」
笠岡先輩の言うように、青木ヶ原さんの噂はガセネタ――いささかクラシックなもの言いをすれば、「釣り」――だというのが、我々オカルト研究会の統一見解だった。
というのも、会員総出でくだんの画像生成AIに何度「AOKIGAHARA」と打ち込んでも、彼女に会うことはできなかったのだ。
出てくるのは鬱蒼とした森や、そこに佇む苔むした岩、あるいは神社の拝殿の風景ばかりで、陰気な顔をした特定の女の画像なんてものは一向に出てこない。俺が自分で何度も試して失敗しているのだから、それは間違いのない事だった。
「けどさ、その通り、出力できちゃったんだよね。少々苦労したけれど、その画像は正真正銘ぼくが出力したものだ。ネットで見たことあるやつと、ちょっと違うだろ?」
確かにその通りだった。
手元のコピー用紙には確かに青木ヶ原さんが印刷されていて、けれど、その構図はSNS上に公開された画像のどれとも違っていた。
束になったコピー用紙をめくると、笠岡先輩によって新規に出力されたとおぼしき青木ヶ原さんの画像が何枚にもわたって印刷されている。
「……いったいどうやったんです?」
笠岡先輩は「へへへぇ」と、だらしなく卑屈に笑った。暖色の道路照明灯が彼女の頬を暗く照らす。
「〝AOKIGAHARA〟だけじゃ足りないんだよ。青木ヶ原さんに会うためには、プロンプトがもうひとつ必要なんだ。それさえわかればその通り、百発百中で出力できる。最初の投稿者がどうしてそれを隠してたのかってのはわかんないんだけどさ」
察するに、その人物は新たな都市伝説――ネット怪談を作りたかったのだ。
AIによって生み出される、意図を持った不気味なハルシネーション。ウェブ上をさまよい歩く亡霊。そういったものを作り出したい人間が、「複数のプロンプトを駆使して不気味な女の画像をがんばって生成してみました」なんて言うわけがない。
せっかくの神秘性が薄れる――というか、望まれていないのに発生するから怪異なのであって、個人ががんばって出力したものは別に怪異でもなんでもないのだ。
「まあ、バズりたかったんでしょうね」と、俺は答えた。笠岡先輩はきょとんとした顔で聞き返す。
「なんでバズりたかったんだろう?」
本気でそう思っているように見えた。この人には共感性というものが決定的に欠けている。
「承認欲求……注目を浴びたいとか、人を感心させたいとか、あとは……鬱憤晴らしとか。そんなところじゃないですか? 笠岡先輩みたいに、自分さえよければ他人からどう見られても関係ないって人の方が少ないと思いますよ」
俺の返答に笠岡先輩は「ふむん」と鼻を鳴らし、わかったような、わかっていないような顔でステアリングをゆっくりと切る。俺は続けて質問した。
「……それで、この青木ヶ原さんと現実の青木ヶ原樹海に行くことに、何の関係が?」
「まあ行けばわかるよ」と、先輩はもったいぶって笑う。「とはいえ……関係があるのはオリジナルの青木ヶ原さんの画像だけだけどね。出力してみたのはただの試しだ」
だったらそう言えば済むことなのに、プリントアウトまでして車に積んでいたのは、単純に「お前にできなかったことが自分にはできたぞ」ということを自慢したかったのか。先輩らしいといえば先輩らしい。
「それを承認欲求って言うんですよ」
俺はいささか呆れて言った。
「なるほど」と、先輩は肩をすくめて笑う。「今のはすごくわかりやすかったぞ」
へへへぇ、という笑いには、照れ隠しのニュアンスが感じられた。先輩は続けて言う。
「まあいいや……ところで妹尾くん」
「何です?」
「人が『さあ、死ぬぞ』って時にさ、どうして樹海に行こうと思うのか、考えたことあるかい?」
「さあ……」
先輩の質問の意図がよくわからず、俺は首を振った。
「質問を変えようか。……
問いかけについて、俺は少し考えてみる。例えば、飛ぶ事? でもそれは、することであってあるものではない。適切な返答ではないように思えた。
返答を待たずに、先輩が言う。
「……位置エネルギーか運動エネルギーだよ。自殺の名所にはほぼ必ずと言って良いほどそれが存在する。ある本に曰く、自殺スポットの条件っていうのは、自分を殺してくれる
「青木ヶ原樹海にはそれがない?」
「そう。樹海には位置エネルギーも運動エネルギーも用意されていない。だから樹海で死にたいのなら、首を吊ったり血管を切ったり農薬を飲んだりして、文字通り自分で死ぬしかないんだけれど、それなら別にあそこじゃなくたっていいんだよ。自殺スポットに用意された
ご高説に、俺は思わずため息をついた。ねえ、先輩。そんな大層な話じゃないでしょう。彼らが森に行くのは、ただ誰かに迷惑をかけずに、静かにひっそりと死にたいだけなんですよ。共感性のないあんたにはわからないでしょうけど、自殺する人なんて大体が身勝手で、でも優しくて気の弱い人たちなんです。死にたくて死にたくてたまらないけど、周りの人に後片付けをさせるのは申し訳ない。だから森で死ぬんですよ。そう思った。
先輩には人の痛みなんかわからないでしょうけど、とも。
「そう思うじゃん?」と、先輩は虚空に向けて言った。俺が口を開く前に。
「え?」
「確かにぼくは人の気持ちに疎いけど、きみの考えていることは大体わかる。ぼくはきみのことが大好きだからね。……あのさ、妹尾くん。本当に人に迷惑をかけたくないなら、わざわざ日本一有名な自殺スポットに行く必要なんてないんだよ。自然の中で死にたいなら、ことこの国において森なんてその辺にいくらでもあるんだ。実に国土面積の六十七パーセント、今走ってる高速道路だって山林をぶち抜いて作ってる」
そう言って、先輩は煙草に火を付ける。夜の闇に彼女の顔が浮かび上がって、それから狭い車内に不快な匂いの煙が充満した。先輩が車のウィンドウを細く開けると、冷気と湿り気を帯びた夜の風がするりと入り込んできて渦を巻いた。
言われるまで気づかなかったけれど、確かに彼女の言うとおりだった。森なんていくらでもある。ぼんやりとした明かりに照らされた、長く続く広い高架の道路の周囲は、真っ黒な木々に囲まれている。うねる山肌を覆い尽くす雑木林は音もなく、ただ静かに、凪のようにそこに広がっていた。「動物注意」の黄色い標識がフロントライトに反射して、素早く我々の左側を通り去ってゆく。
しばらく黙ったままでいると、先輩はカーオーディオを操作してローリング・ストーンズの「黒くぬれ!」を流した。彼女のお気に入りの曲だ。
「そういえばさ、妹尾くん。実は夜食を作ってきてるんだよね。長いドライブになるからさ、良かったら食べてよ」
「へえ」と俺は感心して言った。「ありがたいですね。何を作ってきたんです?」
先輩は得意そうに鼻を鳴らして答える。
「おはぎ」
「いりません」
げんなりすると同時に、グローブボックスの中のタッパーの中身を俺は理解する。
「なんでだよ、ドライブっていったらおはぎだろ? きな粉のやつもあるんだぞ」
どこの地方の常識なのだろう。出発前、田舎のおばあちゃんみたいな笑顔でおはぎを作る
「まあいいさ。先は長いし、おはぎ食べないならちょっと寝てなよ」
先輩は鼻から短く息を吐いて言った。
「そうさせてもらいますよ」と、俺は答える。
「あとで起こすからさ、運転代わってよ」
マニュアル車の運転にはあまり自信がなかったけれど、樹海までの運転をすべて先輩に任せるのはさすがに酷だ。不承不承、俺は頷いて目を閉じ、ほとんど倒れない座席を限界までリクライニングさせる。
閉じた暗闇の中で、軋む車のエンジン音と先輩の息づかい、絞った音量のローリング・ストーンズだけが聞こえた。
◆
樹海といえば、大抵の人は富士山の周囲を取り囲む――例えば一度迷い込んだら二度と出てこられないような――広大な、それこそ海のように果てしない原生林を想像するものだけれど、実際のところは少し違った。
青木ヶ原樹海は富士山を取り囲んではいないし、果てしなく広いわけでもない。富士山北部の裾野に広がる、約三十平方キロメートルの実相的な森だ。鬱然としているということには違いないが、海というほど無辺際なわけではない。
富士山西麓の高原地帯から樹海の真ん中を突っ切って走る県道七十一号線を通って、
駐車場は広く、車が百台以上は楽に停められるくらいのスペースがあった。自然歩道の入り口には巨大なコテージのような立派な売店があり、古いけれどよく手入れされた清潔なトイレがあった。早朝だからか売店は開いていなかったが、おおむね生気に満ちた文化的で観光的な場所といえた。
適当な場所に車を停め、ドアを開けて車を降り、蝋石のように固まった腰を伸ばした。深く息をつくと、冷ややかに湿った森の空気が肺に滑り込んでくる。
先輩のほうを見ると、トランクからバックパックを取り出してあらかた点検し、最後におはぎのタッパーを詰め込んでいた。それから「よし、行こうか」と、短く言って歩き出す。俺は頷いて彼女の後ろについて歩いた。
富岳風穴と
遠い昔に冷え固まった溶岩でできた足場はひどく波打っていて、積み重なった落ち葉や苔でくまなく覆われていた。木々の隙間からこぼれ落ちる冬の明るい日差しが、その上にまだらに降り注いでいる。
山の空気は冷たかったけれど、滑って転ばないよう足元に神経を集中して歩いていると、背中に汗がじっとりと浮いてくる。事情も説明されずに呼び出されたおかげで、普段履きのスニーカーで足場の悪い山道を歩かざるを得なかったせいだ。ハイカー然とした先輩の後ろ姿が、いささか恨めしく感じられた。
自然豊かな森のはずが、動物の気配は不思議と感じられなかった。野鳥の声すら聞こえない。静かすぎるせいで、道路からはかなり離れているはずなのに、アスファルトとタイヤの擦れ合う音が遠く、しかしはっきりと聞き取ることができた。
確かに、と俺は思った。確かにこの森は、誰にも気取られず静かに死ぬには、生に近すぎる。有名な小説にあるように、死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
けれどでも、この美しく観光的な森の中で、孤独に静かに死ぬなんていうことができるのだろうか。もちろん、そうしたい人が居たとして、俺に咎める権利なんてありはしないのだが。
あるいは、森の奥深くまで足を踏み入れれば、もう少し違った感想になるのだろうか。
森の中をしばらく進むと、辺りを取り巻く景色は少しずつ変わっていった。比較的樹齢の高い、太く大きな木が増え、斜面や段差も険しいものになっていった。道すがら、いくつかの木には色褪せて古くなったスズランテープ――ポリエチレンでできた、平べったいリボン状の荷作り紐だ――が何かの目印のように巻き付けられていた。
「このテープはね、道だよ」
前を歩く先輩が言った。彼女は足を止めずに、スマートフォンのコンパスアプリをじっと見つめたまま森の中を分け入ってゆく。大きく口を開けた地面の裂け目や、密集した木々を迂回しながら、けれど一定の方向を目指しているようだった。
「道?」と俺は聞き返す。
「そう。テープをたどっていくと、県道のほうに戻れるようになっている。気が変わった自殺志願者が引き返せるように、あるいは死体を見つけたボランティアが警察を呼んで戻ってくるために」
このどこにでも売っているような蛍光色のビニール紐が、ここで死ぬ者にとっての最後の命綱だということか。そう聞くと、薄っぺらいポリエチレン製のテープがなんだか別のものに見えて、神妙な気分になってくる。
「つまり、スズランテープが多い場所は〝期待値〟が高い。自殺者がよく見つかる場所に張られるものだからね。運が良ければ本物の死体が見られるかもしれない」
「先輩は、死体を見たくてここに来たんですか?」
俺の問いかけに笠岡先輩は足を止めて、「……どうだろう?」と呟くように言った。
「わからないや」
それからまた、へへへぇ。例の卑屈な笑いだ。ごまかしのニュアンス。
「そろそろ」と俺は少々うんざりして言った。「そろそろ、どこへ向かっているのかくらいは説明してくれてもいいんじゃないですかね」
いい加減、そのくらいは教えて欲しかった。夜通し車を走らせて、山梨くんだりまで来てなお、説明をはぐらかし続ける理由はないはずだ。
俺だって別に、呼び出されたらいつだって理由も聞かずにほいほいと後をついてゆくお人好しではない。実際についてきている、ということは置いておいて、多少なりとも説明する義務が彼女にはあるはずだ。理由の中身はなんだっていい。本当に死にたくなったのであれば、まあ、それでもいい。心中くらいならしてやっても一向に構わない。それでも、ある程度の説明はあるべきだ。
先輩は俺を振り返り、真っ黒な瞳でのぞき込むように見つめた。
「……怒ってる?」
「少々ね」
先輩は「ふむん」と鼻を鳴らし、緩慢な動作で後ろ頭を掻く。どこからどういう風に話すかを思案しているように見えた。しばしの沈黙ののち、先輩は口を開く。
「ええとね……青木ヶ原さんはね、ただ単にAIで生成された画像じゃないんだ。ステガノグラフィが使われている」
「ステガノグラフィ?」
「情報ハイディング技術だよ。具体的に……〝電子透かし〟って言えばわかるかな。コピーや改変を妨害するために使われる電子的なウォーターマークが、あの画像には埋め込まれているんだ」
電子透かし。人間には知覚できない形でデジタルデータに埋め込まれる、固有の識別情報のことだ。主に知的財産侵害の追跡と防止を目的として、画像、音声、あるいは動画に入れられた、知覚不能の微細なノイズ。
「すべてのオリジナル青木ヶ原さんに、その電子透かしが仕込まれているのが確認できたんだ。こんなの、AIに適当にプロンプトを突っ込んで出力できるようなものじゃないのは、わかるよね?」
俺は頷く。AIは画像そのものを学習・生成することはあっても、そこに知覚困難な形で埋め込まれた電子透かしを、有効な形で出力(ましてや勝手に)する、というのは正直想像がつかない。後から人為的に付け足されたものだと言われれば、なんとか納得もいくけれど――でも、じゃあ、何のために? 俺の疑問をよそに、先輩は話を続ける。
「問題はね、その電子透かしがただのグリーンノイズじゃなかったってことなんだ。すべての青木ヶ原さんの画像に、全く同じ規則性を持った図形の羅列が、特定の機械学習アルゴリズムでしか読み取れない形で焼き込まれていた。数えてみたところ、図形の種類は十六種類。……妹尾くん、十六って数字に何か心当たりは?」
言われて、俺は考えてみる。十六の図形の規則的なパターン。十六とは? 十六番目の自然数。約数は一、二、四、八、それから十六。八の二乗数、二の二重平方数。――十六進法。
「……バイナリデータ?」
ふひっ。と、先輩は肯定のニュアンスで笑った。
「その通り。ぼくも同じように考えた。ここからは面倒だからちょっと省くけど、結論から言えば
俺は首を振った。
「見当もつきませんね」
先輩は俺の目を見て、宝のありかをそっと打ち明けるように、大事そうに言った。
「〝座標〟だよ」
「座標?」
「緯度と経度。調べてみると、青木ヶ原樹海の一地点のデータだったんだ。それが、ここまで来た理由、つまりこれから向かう場所。これで説明になってるかな?」
俺は舌を巻いて閉口してしまう。頷くしかなかった。なんというか、正直もっとつまらない――青木ヶ原さんの画像をいじっている内に本物の自殺体を見たくなったというような――理由だと思っていた。俺はまだ、この
笠岡先輩はしおらしい顔を作り、慣れない調子で俺に謝罪した。
「妹尾くん、説明不足だったのは謝るよ。サプライズというか、本当はもうちょっと後で説明しようと思っていたんだ。嘘じゃない。……きみならこういうのを喜んでくれると思ったんだ。そんなに怒らないでよ、後生だから」
それにしたって六時間の強行軍を思い立って即座に実行するのは、いくらなんでも行動力が有り余りすぎている。けれど、笠岡先輩らしからぬ低姿勢に毒気を抜かれてしまった俺には、もうため息をつくくらいしか選択肢が残っていなかった。俺は大きく息をついて頭を振り、地面に腰を下ろす。
「……笠岡先輩」
「なに?」
「ちょっと休憩しましょう。俺、山用の靴じゃないですから、足痛くって。……おはぎくださいよ、きな粉のやつ」
「……へ?」
見上げる俺に、笠岡先輩は素っ頓狂な声で答える。
「あるんでしょ。さっきバックパックに詰めてたじゃないですか」
「でも食べないって……だいたい、ぼくの手作りだし……へへっ……き、汚いよ」
さすがに卑屈すぎる。別に汚いとまでは言っていないし、さっきまでの格好良さで折角見直しかけていたのに。これでは台無しだな、と思った。
「いいから一緒に食べましょうよ。俺だって別に先輩と喧嘩したいわけじゃないんです。仲直りしましょうよ。それとも、もう食っちゃったんですか?」
「いや、あるよ! あるから! 特にきな粉のやつはねえ、他ならぬきみのために作ってきたんだ!」
笠岡先輩は慌てて俺の隣に腰掛け、バックパックを下ろしてタッパーと水筒を取り出す。妙に汗だくで、ちょっと表現しようのない笑顔だった。年ごろの女性がしてはいけない類いの笑顔のまま、水筒の蓋に温かいお茶を注いで俺に差し出してくれる。
礼を言ってお茶を受け取り、先輩と並んで座っておはぎを食べた。
目の前に広がる原生林には、やはり我々以外の生命の気配はなかった。広い樹海のなか、我々二人だけが存在していて、黙っておはぎを食べている。そんな奇妙な錯覚を覚えた。
先輩は目を細めて言う。
「ねえ、妹尾くん」
「なんですか?」
「ピクニックみたいで楽しいね」
どうだろう、と俺は思った。きな粉のおはぎは甘くて美味しかった。
しばらく休憩してから更に森の奥に進むと、もう車の音は聞こえなかった。
我々と森の間にあるものは、木々の無数の葉が擦れ合う音と我々自身の足音、それから息づかいだけだった。
奥へ奥へと向かうにつれ、どんどんと足場は悪くなっていった。ここまでは入ってくる人間も少ないのか、地面は踏み固められおらず、そこかしこに折れた木の枝や大きな石がごろごろ転がっていて、一歩を踏み出すのにも苦労した。スマートフォンのGPSと笠岡先輩だけが頼りだった。
木々をかき分けて進むと、少し開けた場所に出た。葉と枝の天蓋が、その広場だけぽっかりと無くなっていて、明るい日差しが薄い膜のように降り注いでいた。明るく照らされた地面にはびっしりとした苔と
笠岡先輩は立ち止まって、振り返らずに言った。
「〝座標〟だ」
それが終点であることは、言われずともわかっていた。
広場の奥、ちょうど目の前に、ひときわ大きな木がそびえ立っていたからだ。異様だったのはその木の根元から天辺まで、くまなくスズランテープが巻き付けられていたことだ。びっしりと、境目無く、真新しい蛍光色のテープが色とりどりに括り付けられ、それが人の手がとても届かないような高さまで続いている。
極彩色の縞模様は、ちょうど寄生虫に蝕まれたカタツムリの触覚に似ていた。
明らかに人為的な、けれど、いたずらにしては大がかりすぎる、儀式めいた異容。
俺があっけに取られていると、先輩は広場に足を踏み出して、その木の足元に歩を進めた。幹に触れ、周りをくまなく見渡し、他に変わった物がないかを調べていた。
結論から言えば、先輩の行動は徒労に終わった。結局のところ〝座標〟には、その奇妙な樹木しか特別な物は存在しなかった。俺と先輩は並んで立ち、それからしばらくの間その縞々のモニュメントを見上げていた。
「何だか拍子抜けですね」と、俺は言った。
正直なところ、もっと恐ろしいもの――それこそ青木ヶ原さん本人であるとか、そうでなくても死体だったりだとか――に出会えることを期待していた。スズランテープの木は不気味ではあったけれど、でも、それだけでしかない。
俺の言葉に、笠岡先輩は何も答えなかった。スズランテープの木を、じいっと、食い入るように見つめていた。ピンク、黄色、緑、青。四色のテープが隙間無く巻き付けられた木もまた、笠岡先輩を見つめているようだった。
「先輩?」と、俺は再度声を掛ける。
「……わからない」
「え?」
「なんでぼくは、ここにたどり着けたんだろう?」
「だってそれは、あんた自身がさっき説明したでしょう。十六進数の暗号を解いて、それで座標を――」
「暗号鍵は?」
先輩に言われて初めて気づいた。十六種類の図形を、笠岡先輩はノーヒントでどうやって復号したのか。総当たりで、膨大な時間を掛ければ解けるのかもしれない。でもそれは現実的なことではないように思えた。というより、そもそもの話、特定の機械学習アルゴリズムでしか認識できない、人間の感覚器で知覚できないはずの〝電子透かし〟に、彼女はどうやって気づけたのか。
「妹尾くん」
笠岡先輩が声を絞り出す。
「だめだ、これ」
震えてかすれた、初めて聞く彼女の声音。
「読めてしまう」
じっと、木を見つめている。
四色にいびつに彩られた、奇妙な樹木を。
「……バイナリ?」
思わず喉から声が漏れていた。このテープでぐるぐる巻きの木は、四色2ビットずつのバーコード――バイナリデータだ。〝座標〟を示した何者かは、これを笠岡先輩に読み取らせるためにここまで連れてきた。ただの直感でしかないそれは、けれど、そうとしか考えられなかった。
だとしたら、笠岡先輩は何を読んだというのだ?
先輩の身体はふらふらと揺れていて、今にも倒れそうだった。全身の筋肉がこわばって、上手く身体の重心を取れない様子だった。そしてそれは、おそらく彼女の意思に反したものだ。
「先輩」
俺の声に反応して、先輩の頭がぐるりとこちらを向く。壊れた機械みたいに。
ぎりぎりと音を立てそうに、不自然に両腕が持ち上がる。
「ぼくじゃない」
先輩の喉から、か細い、ほとんど悲鳴みたいな声が上がる。
器械的仕組み、と俺は思った。力学的エネルギーだ。
俺は思わず後ずさろうとして、それから無様に尻もちをついた。足が――足だけではなく、四肢のすべてが痺れていた。疲労などではない薬理的な感触の麻痺だ。
蟻が這い上がってくるように、痺れは身体中に広がってゆく。俺は少し前に聞いた、先輩の声を思い出す。
――きな粉のやつは他ならぬきみのために作ってきたんだ。
おそらく。おそらく、座標を見つけた瞬間。おはぎを作って俺を呼び出した時にはすでに、先輩はもうこうなっていたのだ。スズランテープのバイナリは、ただの最終スイッチでしかない。
「ぼくじゃない!」
わかってますよ。と返事をしたかったけれど、ろれつが回らない。やっとの思いでひり出せたのは、不明瞭な音の塊。
先輩はゆっくりと俺に歩み寄り、それからひざまずいて、小刻みに首を振った。子供みたいに泣きじゃくりながら、柔らかな両手のひらで俺の首を包む。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
大丈夫ですよ、と言ってあげたかった。心中ってことなら別にそれでいいんだ、とも。
でもそれはできなかった。彼女の指が、万力みたいな力で俺の気道を締め潰していたからだ。酸素を求めて勝手に口が開く。頭蓋の中で脳みそがはちきれそうに膨らむ感覚を覚える。痺れているはずの手足が、打ち上げられた魚のようにもがいて跳ねる。じきに視界は黒く塗りつぶされ、何も見えなくなった。
先輩が何かを言っているのが遠く聞こえて、でももう、俺にはそれが何を言っているのかもわからなかった。
次第に小さく消えてゆく先輩の声を聞きながら、願わくば、と思った。
願わくば、彼女が森に魅入られていたとして。俺を選んだことだけは、彼女の意思でありますように。
〈青木ヶ原スーサイド・ツアー 了〉
青木ヶ原スーサイド・ツアー 逢坂 新 @aisk
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます