第3章 イラク戦争編(2003年)

第7話 出撃

『——アメリカは湾岸戦争後も、イラク北部及び南部に飛行禁止空域を設定し、監視作戦を続けています——イラク軍が地対空兵器を配備したため、これに対する空爆が行われ——ペルシャ湾には現在も米海軍の空母戦闘群が展開しており——』

「ばーちゃーん」


 ガラガラと戸を開けてみれば、鉄板の上でソースもマヨネーズもかけたお好み焼きがいくつも湯気を立てていた。「それ出前の分や」と奥からぬっとおばあちゃんが顔を出して、


「配達頼むで」

「ほい~」


 出前の手伝いに来た徹おじちゃんが、出来上がったばかりのお好み焼きを手際よく容器に入れていく。ほいじゃね、とおじちゃんが私に声をかけてから店を出ようとして——まだ玄関の前にいるキャロルにも気づいて足を止めた。


「お! お久しぶりです~」

「こんにちは……」

「今年もゆっくりしていってくださいね~」


 おじちゃんはそれだけ言うと、慌ただしくバイクに乗って行ってしまう。涼しいから入ってー、と私が手を引いてやっとキャロルも戸をくぐってくれた。


『空域監視に対し、イラク側は主権侵害であるとして強く抗議していますが、作戦は今後も——』

「リモコン、届かん」

「うちが取るよ」


 テレビのリモコンを取ってチャンネルを適当に変える。NHKニュースが市民球場からの中継映像に変わって、今日はカープが阪神に押されていることが分かった。徹おじちゃんの機嫌が悪くなりそうだ。おじちゃんが帰ってくるまでに頑張って逆転してほしい。


「で、二人とも何がええ?」

「豚玉そばー」


 即答する私の横でキャロルがそっと椅子を引いて、


「じゃあ、私も同じものを……」

「ほんまに?」

「はい」


 豚二つねーとすぐに生地を薄く広げ始めた、おばあちゃんの手つきに見とれる。かつお粉をまいてキャベツは山盛り。その上から天かすと青ネギ、もやしに豚バラ肉。鉄板の上で立ち始める湯気。ヘラが触れ合う音。生地が焼ける匂い。お座敷よりも、カウンター席で待ちながら眺めている方がずっと楽しい。


 二本のヘラを生地の下に入れて、こともなげにほいっとひっくり返す。おおっ、と思わず声が出てしまう。


「雪菜も練習すればええんよ」

「うち不器用だから……」

「お家でやってみんさい。ホットプレートとかあるじゃろ」

「うぐっ」


 一度それをやってキャベツを全部こぼしたことがある。お小遣いが足りないからと、小さいホットプレートを買ったのがいけなかったのだ……。


 私が頭を抱えていると、隣のキャロルが小さな笑い声を漏らした。生地の横でおばあちゃんが広げ始めた麺をおいしそうに見つめている。その横顔に見とれていたのは完全に無意識だ。彫りが深くて鼻が高くて、まつ毛も長いし目も大きい——初めて会った日には女優さんかモデルさんかと思ったのだ。徹おじちゃんは「どこのテレビ局じゃろ」なんて言っていた。


「あなたのです」なんて告白された時には、本当に尻もちをつきそうになった。


 ほどよく焼けた麺の上に生地をのせながら、もう七年になるんねーと、感慨深そうにおばあちゃんが言う。キャロルとの付き合いは、私がまだ小学生だった頃から始まったわけだ。時間は本当に早い。


「今年も泊まるん?」

「うん、またよろしくね」

「そんな固くならんでええんよ」


 全然軍人さんに見えない、なんて本人にはとても言えない。もちろん褒め言葉だ。キャロルがヘルメットを被って空を飛ぶ姿も、いつかは見てみたいと思うけれども。


「ああ、でも」


 キャロルは若干伏し目がちになって、


「来年もここに来られるかな……そうできたらいいんだけど」

「また去年みたいな感じに?」


 うん、と、キャロルは頷いて「今年は有給休暇を取ったの」と言葉を足した。二年前までみたいに岩国の飛行場から車で来たわけじゃない、と。今は空母に乗っていて、また去年みたいに戦争に行くかもしれない、と。


 カツッ、とおばあちゃんが卵を二つ割って鉄板の上に広げた。麺と生地を黙々とのせる。


「だから……今年こそ聞いておきたいんです」


 改まった口調になったキャロルは、おばあちゃんに顔を向けて、


「律子さんのこと……私のおばあさんのことを教えてください」



                   *



 初めてイラクの空を飛んだのは、新世紀最初の年だった。サザン・ウォッチという作戦名の通り、私たちはイラク南部を監視し、時には交戦した。


 マスターアームスイッチを押し上げる。空対地モード選択。左側のデジタル・ディスプレイ・インジケーターD D Iを操作して、翼下に吊るした対レーダーミサイルH A R Mの一基を選択。


《Apis 2-1, spiked north.》

(エイピス2-1、北からロックされた)


 先行する護衛機が敵機に捕捉された。その数秒後に《FOX 3》がコールされ、迎撃に上がったイラク軍機に向けて中距離ミサイルが放たれる。1999年のコソヴォの空を思い出す——セルビア軍からのレーダー照射を受け、直後に地対空ミサイルS A M陣地に突入したあの日。鳴り響くレーダー警報受信機R W Rの警告音。空に向かって伸びるいくつもの白煙。三年ぶりに同じ光景を目にしていた。


《Wasp 3-1, Magnum SA-3》

(ワスプ3-1、SA-3地対空ミサイルを攻撃する)


  対レーダーミサイルH A R Mを発射。機体から切り離されたミサイルが点火されて加速、白煙を引いて急上昇したのち、地対空ミサイルのレーダー発信源めがけて飛翔してゆく。私はといえば、ハリネズミ状態の地上をのんびり眺める余裕などなく、翼をひるがえして機体を急降下させていた。僚機とともにチャフをばらまきながら回避行動に移る。鳴りやまない警告音。酸素マスクの中で荒れる呼吸。撃ち上げられる対空砲火。とても、にぎやかな空だ。とても。


 天地が再び水平になったとき、ヘッドアップ・ディスプレイH U D上では短い直線を引いた数字がいくつも踊っていた。《3》——イラク軍のSA-3地対空ミサイル。イラク軍は自分たちの飛行場を守るべく次々とミサイルを放っていた。ミサイルを放つ者たちのレーダーを私たちの対レーダーミサイルH A R Mで潰し、後続の攻撃隊が飛行場を蜂の巣にする。敵がレーダーを閉ざせばHARMはレーダー発信源を見失うが、同時に敵のミサイルも放たれなくなる。破壊には至らずとも、敵の防空能力を一時的に下げることができる。


  レーダー警報受信機R W Rを操作すると、幾重にも重なっていた敵の表示がバラけた。本当にハリネズミのようだ。素早く攻撃目標を選択して二発目のHARMをリリース。バシュッと音がして機体が軽くなり、白煙の尾が伸びていく。僚機も《Magnum》をコールしてHARMを放った。それからまた鬼ごっこが始まる。


《Wasp 3-1, Slapshot SA-6 bearing 290.》

(ワスプ3-1、方位290に新たなSA-3を確認、攻撃を要請する)


  新たな攻撃目標が追加される。操縦桿を傾けて方位290へ旋回。リリースボタンを押して三発目のHARMを発射。


 飛行場周辺にはイラクの共和国防衛隊も展開していた。ふと背後を振り返った時、飛行場に向かって急旋回する F/A-18C戦闘攻撃機の編隊が見えた——私たちと同じ、第三空母航空団の機体だ。原子力空母「ハリー・S・トルーマン」は二週間前からペルシャ湾に展開し、海兵隊は海軍に負けず劣らずの地対空ミサイルS A M狩りを始めた。五千年後に侵攻してきた新文明をメソポタミアの地母神がどう思っているかなど、一介のパイロットには分からないし考える暇もない。仲間の海兵たち、友軍地上部隊のためにをするだけで精一杯だ。


 時間差をつけて突入してきた攻撃隊が次々と爆弾を落とし、そのうちの何機かは増槽を切り離して旋回上昇していく。イラク軍のミグ戦闘機は彼らに任せておけばいいだろう。飛行場を見下ろせば、地上で翼を休めていた敵機がいくつも燃え上がっていた。クレーターだらけの駐機場と滑走路。


 最後のHARMを放った直後に、残燃料の警告音。あれだけ飛び回れば燃料もあっという間に減るというものだ——空中給油機の空域へと、ホーネットの機首を向ける。飛行隊の仲間たちもあらかた狩りを終えたか、あるいは空のパトロールに加わっている。


 新世紀最初の年に任されたイラクでの初仕事はこうして無事に終わった。

 9.11テロが起きる二カ月前のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2024年12月12日 18:00
2024年12月13日 18:00
2024年12月13日 18:00

成層圏の女王蜂 海猫 @umineko_283

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画