ブルックリン橋の襲撃
ハイウェイの旅は順調だったが、車内から緊張感が抜けることはなかった。誰もがむっつりと黙り込み、暗がりに五感を研ぎ澄ませている。
やがて、緩やかな曲線を描いてライトアップされたブルックリン橋と、その奥に横たわるマンハッタンの夜景が見えてきた。煌びやかな摩天楼の群れから、ひと際のっぽなワールド・トレード・センターの尖塔がのぞいている。
ようやく近づいてきた家路の終わり。しかし、一行のなかでは湧き上がる安堵感より、長時間尾を引き続けてきた警戒心のほうがまだ勝っていた。そのおかげだろう、橋の上に差しかかって間もなく、突然前方の路上に現れた人影に、シェリファは即座にブレーキを踏むことができた。
「なんだあいつは」
どうやら車道左上にかかるプロムナードから飛び下りてきたらしい、という判断を下す暇もそのときはなかった。急停車でつんのめった上半身を起こすおれの目に入ってきたのは、フロントウィンドウめがけてものすごい勢いで突っ込んでくる男の姿だった。
がたん、と車体が激しく揺れる。大男がボンネットを踏みしめ、バールのような凶器を握る右手を振り上げている。
シェリファが悲鳴を上げた。それに混じって、がちゃんというフロントガラスの割れる鈍い音が響く。
窓の中央に大穴が空く。ぱらぱら落ちる破片の向こうで、男は凶器を放り捨て、車内に飛び込む構えを見せる。
「くそっ……」
うめくおれの視界のはずれでそのとき、小さな影の動く気配があった。
「ようやく、おれの出番が来たみたいだな」
好戦的な声音。閃光のごとく飛び出したブロンドの少年は、窓に空いた穴を俊敏にくぐり抜けると、勢いのまま男の腹に拳を叩き込んだ。
「ザジ!」
少年の突きを喰らった男は悲鳴もなく吹き飛び、路上に巨体を打ちつける。
「やったか」
「いや、まだだ!」
鋭く声を張り上げ、ザジはボンネットから飛び下りる。五メートルほど前方では、襲撃者がのそりと起き上がるところだった。
どっしり屹立するような長身に、さっそうとまとった黒いロングコート。オールバックにした長髪を背中で一本に束ね、彫りの深いエキゾチックな強面をしている。
だっ、とアスファルトの地面を蹴って男がザジに迫った。自身より頭ひとつ分以上大きい男から放たれる強烈なパンチをしかし、少年は軽やかにさばいて反撃の拳を繰り出す。
敵も負けてはいない。矢のようなザジの一撃をあっさり片手で受け止め、そうかと思うと長い脚の描く鋭利な弧が少年の身を退ける。
「……奴が使ってるのは、空手だね」
息を詰めて攻防を見守っていたおれの隣で、ルナが冷静な口調で言う。運転席のシェリファがはっとした顔で振り返り、
「だったら、同じ空手でザジが負けることはないよね?」
「どうかな、それは」
シェリファの希望的観測に対し、ルナは硬い声を返す。彼女の示唆どおり、格闘は双方一進一退に見えて、わずかながらザジが押されつつあるようだった。
「おい、おれたちもここに留まってたらまずいんじゃないか」
おれは慌ててノートパソコンの入ったショルダーバッグを拾い上げ、かたわらのドアに手をかけた。
「ばかっ、ヒデト!」
ルナが制止の声を上げたときには、すでにおれはアスファルトの路面に足を下ろしていた。そこに聞こえてきた、くあっ、という渇いたうめき声。振り返ると、ザジがカローラのフロントバンパーに背中を打ちつけるのが見えた。
コートの男の影が、素早く動く。気づけば、そびえるばかりの長身が目と鼻の先に立ち塞がり、冷酷に光る双眸がおれを見下ろしていた。
とっさに動けなかった。まるで石のようになった身体の底から、不気味に胎動する恐怖がせり上がってくる。
案に相違して、加えられた衝撃は軽かった。あたかも友達みたいな気安さでとんと首を打たれ――次の瞬間、おれの全身から力が抜けていく。
「くっ……!」
抵抗の意志もむなしく膝を突くおれの腕からバッグをもぎ取り、男はふたを開いて中身を一瞥したあと駆け出した。
「待てっ!」
ルナの声が聞こえる。どうやら彼女も車を降りたらしい。薄れゆく意識のなかでどうにか首を巡らすと、車道の先で橋の欄干に向かって立つ男の黒い背中がある。
ルナが追いすがるが、タッチの差で男の姿が消え失せた。
「うそでしょっ?」
甲高い驚きの声とともに、ルナは欄干に両手を突いて橋の下を見やる。かすかな水音がこちらの耳にまで届いてきた。
もう限界だった。
ふら、とおれの頭が傾いだ。黒く塗りつぶされていく視界の中央で、ルナが慌てたように振り返っている。
ヒデト、と彼女は叫んだようだった。だがそれを認識する前に、おれの思考は完全に闇に呑み込まれてしまった。
瓶詰め月の盗み方 花守志紀 @hanamori4ki
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