金魚鉢
緋色ザキ
金魚鉢
五歳くらいのとき。
おばあちゃんの家で見た金魚鉢。
金魚はガラスでできた狭い空間の中をただただ泳いでいた。
僕が餌を入れると、それに勢いよく食いつき、それが終わるとまたゆらゆらと泳ぎ始める。
その当時の僕は、それが酷く悲しく思えた。
けれど、十八歳になったいま、ふと思う。
いまの僕も、金魚鉢の中のように閉ざされていて、抑圧された空間にいるのではないかと。
人工知能の発達によって、世界は大きな展望を遂げた。
人間の仕事や生活などありとあらゆるところに人工知能やそれを持ったロボットが介入するようになった。
さまざまなネットに関する問題が取り上げられた十年ほど前とは打って変わり、人工知能がネットを監視するようになり、誹謗中傷をする人もほとんどいない。
近年では、人工知能が人間の身体的、精神的な特性やこれからの展望を予測し、従事するべき仕事やスポーツ、暮らしかたなんかを示してくれたりする。
一言で表すとすれば、それはとても便利な世界。
ただ、言葉を変えれば、人工知能に依存する世界。
そして、僕にとって何一つとして満たされない世界。
でも、まわりの人たちを見ると、毎日が楽しそうだ。
この世界に異を唱える人なんていない。
朝起きて、ご飯を食べ、職場や学校、あるいは別の場所に行き、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。
友人と遊んだり、同僚と飲み会に行き、その日のことをSNSでつぶやいたり、ブログにあげて共感を得る。
何かがあったときも、ネットに接続し、人工知能に指示を仰ぐことでほとんどが解決される。
まるで、いくつかの用意された型にのっとり、そのマニュアル通りに過ごしているようにしか見えない。
そう、まるで金魚鉢の中の金魚みたいだ。
僕は、そんなまわりの人間たちに激しい嫌悪感を抱いていた。
でも、僕が、そんな嫌悪の対象の彼らとなにが違うのかといえば、なにも変わらない。
だから、そんな自分が嫌になって、本当に嫌になって何度も自殺を考えた。
ただ、いつも橋から下に飛べなかった。
恐怖からではない。
いつも、自分が死んだあとのことを想像するのだ。
警察か警備ロボットに発見され、もしかしたらテレビで報道されるかもしれない。
親や友人は悲しみ、僕を知る人間にも少なからず衝撃を与えるかもしれない。
でも、それだけだ。
時が過ぎれば、また何事もなかったかのようにレールに戻る。
鉢の中を泳ぎ続ける。
それではだめだ。
それでは犬死になってしまう。
そうじゃなくて、金魚が鉢から出て、池や川を旅するような、そんなことがやってみたい。
でも、現実はそう、上手くはいかない。
高校を卒業後、人工知能の適性によって示された営業職にはつかず、大学で教育について学んだ。
未来ある子供たちを導きたい。
人工知能に隷属しないような子供たちを育てていきたかった。
しかし、その未来は一瞬でついえる。
人工知能は僕の教育者としての適性がないことを示し、その道は絶たれることとなった。
僕は再び鉢に戻されることとなった。
仕事がないと生活はできない。
幸い、営業職への適性があった僕は、その仕事にありつくことができ、毎日働いてくたくたになるという生活を送れるようになった。
忙しい日々。
そんな中で、同期の女性と付き合うことになる。
忙しい中に、彩りが添えられた日々。
僕はこのまま、彼女と結婚し、子供ができて、孫ができて、老いて死んでいくのだろうか。
そんなことを考えては、ふと浮かぶ、僕のもしかしたらあったかもしれない教員としての生活。
僕はいま、まさに金魚鉢の中にいるのではないか。
世の中という檻に閉じ込められているのではないか。
僕は、無性に怖くなった。
彼女と別れ、いまの仕事を辞めた。
そして、昼間から公園でお酒を飲むようになった。
いまの僕は金魚鉢の中の金魚。
でも、そこから逃れるためにどうすれば、どう生きていけばいいのか分からない。
その不安を酒でごまかす。
そんな生活が一年以上続いたある日、一つの結論が出る。
取りあえず、自分の適性が関係のないような仕事に就こう。そして人工知能の不備を身を以て証明するのだ。
僕はそうしていろいろな職業の面接を受けた。人工知能の適性は社会に深く浸透しており、なかなか思うようにいかなかった。
だが、人手不足の仕事などをいろいろと探しながら求人に応募し続け、結果的に都市部から少し離れたところにあるコンビニで働くことになった。
そこから一年。順調なはたらきを見せ、来月から社員に上がることができる、そんな矢先のことだった。
その日はたまたま僕一人しかシフトに入っていなかった。
ただ、客足は普段より少なく、別段問題もないなと、レジの小銭を確認しているときのことだった。
急に、店の前で警報が鳴った。
僕はすぐさまピンときた。
万引きだ。
自動ドアの方を見ると、少女の姿が見える。
僕は急いで少女を追う。
すると、僕が追いつく前に少女は足を止めた。彼女が自動ドアから外に出なかった理由。それは店の前に群がる警備ロボットが教えてくれた。
進むも地獄、引くも地獄。彼女はゆっくりと脱力をするとこちらを振り返り手に持ったパンを渡した。そして大きく頭を下げた。
それからほどなくして警察が来た。しかし、僕はこれをそんな荒事にしたくなかった。きっと彼女には何か理由があるのだ。
こちらの方で話して解決したいという旨を警官に伝えた。しかし彼らは首を横に振る。窃盗についてはこちらで対応すると決まっていると一点張りだった。
彼らもまた金魚鉢の中にいるのだと悟った。僕は少女をちらと見た。ただ無言で俯いている。
このままでいいのだろうか。僕は鉢を出たかったんじゃなかったのか。
気づくと僕は少女の手を引いて走っていた。店の裏口から外へ出る。当然、警察が追ってくる。けれどもここは僕が一年近く働いていた土地であり、地形は完全に頭の中にインプットされている。
細い道を縦横無尽に走り続けた。少女は無言で僕に手を引かれながら走っている。
どれくらい走っただろうか。いつの間にか後ろを追ってくる人はいなかった。心臓がバクバクと音を立てる。息も苦しい。額の汗を拭って少女を見ると、同じように呼吸を乱していた。
僕はなんだかほっとしてその場にへたりこんだ。
さーっと風が吹く。そして、木々の葉を揺らす。静寂が僕らを包み込む。
「なんでこんなことをしたんだ?」
しばらくして、少女が小声でそう問うてきた。
僕は首を傾げた。なぜだろうか。
「僕にもよく分からないんだ。でも、君がなぜパンを盗んだのか。それを聞かずに警察に連行されるのは困るなって思ったんだ」
「変な人だな。そんなことのためにこんなことをしでかすなんて。お前はこれで立派な犯罪者だ」
そうだ。僕は犯罪者になった。窃盗幇助罪だったか、そんな罪が課せられる。
けれどもそれはいまあまり重要じゃない。
「そんなことより、君はどうしてパンを盗んだのか聞かせてくれるかな?」
少女は僅かに俯くと、口をぐっと強く一文字に結んだが、やがてふっと息を吐いて話し始めた。
「家族を養うためだ」
僕は首を傾げる。
「救貧法があるから、そんなことをする必要はないんじゃないか?」
法律によって、最低限の生活は保障されている。どれくらいのものや金が支給されるのかは分からないが、少なくとも住居や食料には困らないはずだ。
「私はノーレジだからその支援は受けられない」
僕はその言葉にひどく動揺した。
ノーレジ。ノーレジスターの略。いま世界では出生と同時に自身の存在を公的な機関で登録する必要がある。なんらかの理由でそれがされなかったもののことをノーレジというのだ。
ノーレジが存在するということは聞いたことがあった。でも、実際に見たのは初めてだ。現実での遭遇は僕を不安に陥れる。学校の授業では、彼らは野蛮で未開だと習った。会うことなんてほとんどないが、もし会ってしまったらすみやかに逃げ、連絡をしなさいと学校できつく指導された。
「やっぱり、お前もそういう反応をするんだな」
少女は落胆した顔になった。
僕はそれではっとした。
その対応は、僕が一番嫌悪する類いのものであったはずだ。このぬるま湯な社会の影響に体は浸ってしまっていたのだ。あがいてもあがいても、本当の意味でそこから抜け出せてはいなかった。
目の前に立つ少女は普通の人間だ。少しだけ汚れていることと、国からの支援が受けられないことを除けばなんら変わりない。
「ごめん」
僕は大きく頭を下げた。彼女に対する失礼な態度を心から悪いと思った。
「お、おい。よせ。どうしたんだよ」
少女は慌てたような声を出す。けれども僕は頭を上げない。許してくれるまでは上げることはできない。それほど失礼なことをしたのだ。
「もういいよ、別に。慣れてるからさ。さっさと頭を上げろよ」
ぶっきらぼうな物言いに僕はゆっくりと頭を上げた。彼女は僕の顔を見て、小さくため息をつくと頭を掻いた。
「お前、本当に変なやつなんだな」
「それほどでもないよ」
きっと彼女はけなしているのだろうけど、僕はそれが褒め言葉のように思えた。
彼女はうえっと嫌そうな顔を向ける。僕はそれに思わず笑ってしまう。
「なに笑ってるんだよ」
「いや、別に」
そう言いながらも僕は笑い続けた。こうやって心の底から笑うなんて、もしかしたら初めてのことなのかもしれないなと思った。
それから僕はノーレジについていろいろと少女に聞いてみた。
どういう人がノーレジになるのか。どれくらいいるのか。普段どんな暮らしをしているのか。どんなことを求めているのか。
聞けば聞くほど興味深いもので、心の底から関心を持った。
そしてまた、こうも感じた。なぜノーレジを登録者にしないのだろうかと。
それを少女に問いかけると、こんな答えが返ってきた。
「人工知能はシステムだから、私たちという問題を解消しようとはしない。人間も人工知能にぶら下がるだけになって問題の解消に当たろうとしない。だからこうなってるんだよ」
それはひどく明快な答えだった。
けれどもまた、ノーレジについて全く誰も関心を持っていないということはない気がした。世界は広く無数の人間がいるのだから。
僕らがおおかたのことを話し終えた頃、サイレンの音が聞こえ始めた。警察が僕らの足取りを察知したのだ。
「あー、おいでなすった。お前はこれでおしまいだな」
少女が楽しそうに笑う。たしかに僕の経歴に傷がつくのは間違いない。けれども、それ以上に今日は有意義な時間だった。それにこれくらいならすぐに出てこられるはずだ。
「ところで君は大丈夫なの?」
「ああ、連行されてもすぐに開放されるよ。なんなら食料だって少しもらえる。私たちノーレジとお前たちは本来区分けされるべき存在なんだ。お互い、干渉を極力避けている。なんたって私たちは闇でお前たちは光だからな。ぬるま湯が心地よくて社会の歪さに目を向けたくないんだよ。だから警察も私たちになにかするんじゃなくて遠ざけようとするのさ」
たしかにそうだ。僕らは極力関わらないようになっている。
少女の話では、登録者は都市部に住み着き、ノーレジはそれ以外のところに住み着く。登録者の居住区域が法律で定められていた理由を僕は理解した。僕らの社会は分断され、混じり合いがほとんど起こらない。
それはきっと、少女が言うように、僕らが見たい世界だけを享受するようになっていったためだ。
しばらくして、警察がやってきて僕ら二人に手錠をかけた。
僕らは全く抵抗しなかった。パトカーは二台あり、それぞれ別のところに行くことになることが分かった。ここで引き裂かれ、再びお互いの生活に戻る。いや、僕は牢屋の中かもしれない。
ただ一つ確かなことは、まず間違いなく交わらない。それがなんだか無性に嫌で僕は振り返った。
「名前。君の名前を教えてくれ」
少女は驚いたような顔を一瞬して、それからへっと笑った。
「ほんと物好きなやつだな。……むじなだ。お前は?」
「僕の名前は登だ。またな、むじな」
少女の口持ちが少し上がったように見えた。
「もう、会うことはねーよ」
そう言って僕らは別れた。ここから僕の世界が大きく動き出すような、そんな予感を胸に感じた。
一年後。
出所した僕はノーレジについて調べ始めた。
ほとんどの教育機関では扱っていない話題であった。けれども、いくつかの大学でノーレジの研究者がいることが分かった。彼らは総じて社会から疎まれていた。
でも、そのおかげか僕はすんなりとその学部の受験を突破し、最もフィールドワークを盛んに行っている教授のもとで勉強することに決めた。
大学では年長者であることや前科持ちであること、そして何よりノーレジに興味があることからほとんど友達はできなかった。二年生になり、ゼミが始まったがゼミ生は僕一人。もう何年もゼミ生がいなかったようで教授は感激していた。
それからフィールドワークを重ねながら勉強をする日々が始まった。僕はそこで本当にいろいろなことを学んだ。世界の広さを知った。いかに自分は井の中の蛙だったかを思い知った。
そしてまた、夢が生まれた。
ノーレジの子どもたちに勉強を教えることだ。一度は諦めた教育者の道を再び進めるなんて、こんなに嬉しいことはない。
実際にフィールドワークで出会った子どもたちに勉強を教え始めた。手探りな部分も多く、失敗も多くしたがなんとか少しずつかたちになってきた。また、いつの間にかゼミ生も僕を合わせて三人になり、活気が出てきた。
僕が大学に入学してから九年が経過した頃、教授から助教授のポストにつかないかと打診され、快く承諾した。
一層頑張らなくては意気込み、僕は授業をする傍ら、新たな研究に着手することにした。どこの土地を対象にしようか。現在通っている大学の近くは一通り教授と僕が見てしまっている。
どうしたものかと考えていると、ふと、あの少女の顔が浮かんだ。
そこに行ってみようと思った。
僕は急いで荷物をまとめ、その日のうちに出立した。
よく知った土地。相変わらずコンビニもあった。町並みはほとんど変わっていなかった。同じような町並みで同じような暮らしが営まれている。
僕はコンビニの脇を抜け、自然が多い方へ進んでいった。
歩きながら思う。この先にはきっとノーレジの集落がある。けれども彼女がいるとは限らない。なんたって、あれからもう十年以上経過しているのだ。
どれくらい歩いただろうか。辺りを見渡すと、木々がうっそうとしていて人の気配は感じられない。空はオレンジ色に染まり、夜の訪れを感じた。
「今日はここで寝るか」
僕は用意してきた寝袋に入り一夜を過ごした。
小鳥のさえずりが聞こえる。
僕はゆっくりと体を起こした。朝日が木々の間を差し込み、美しい。人間が手を入れないからこその自然の美しさを感じ取った。
用意してきたビスケットなどで朝食を取り、再び歩き出した。途中、トンネルのようなものを見つけた。危険な匂いはしたが、好奇心に身を任せて突き進むことにした。中は狭く、薄暗い。僕一人がやっと通れるくらいの大きさだ。しばらくすると、前方に光が見えた。
心が躍り、歩みが早くなる。
ぱっと飛び出すと、目の前にはぼろぼろで造りの粗い住居と人の姿。
ふと一人の草むらに座る女性と目が合った。
その姿に、僕の記憶のある部分が敏感に反応した。
だいぶ変わってはいるけれど、きっとあのときの少女だ。
「むじな。君はむじなか」
「おー、誰かと思えば登か」
少女はへっと笑った。その顔はあのときとそっくりで、そうしてまた僕たちは再び交差した。
金魚鉢 緋色ザキ @tennensui241
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