牙禅と集会所

「俺からっ……出ていけ!!」


 牙禅は負の感情を振り払うように、右腕を上に向かって力を入れて振り上げる。先ほどまでぴくりともしなかった斗喜の手がばっと離された。


 掴まれた腕部分は斗喜の手の形に凹んでいた。咄嗟に左手で痛みのある右腕を押さえる。


 目の前の斗喜は相変わらず表情がない。閉じていた眼が開いたが、瞳に生気はなく白く濁っていた。


 あぁ、もうお前は別の何かになっちまったんだな。


 視界が少しだけぼやけた。牙禅は目を閉じる。そして再びゆっくりと開いた瞳は、元の薄茶色から光の透けるような緑の翡翠色へと変わっていた。


 牙禅が斗喜を見るのと同時に、斗喜は左腕を牙禅に向けて突き出し手をかざした。


 急に目の前が真っ暗になり、身体が引き裂かれるように勢いよく後方に引っ張られる。


 そして急に放り出されたのか身体を地面に打ち付けた。


「うっ……」


 突然の事で頭が揺れ痛む。牙禅が周りの状況を確認すると、なぜか森の入口にいた。


「……は?」


 さっき居た場所から森の入口までは多少歩く距離だった。一瞬で戻されたのか?


「わけわっかんねぇ……」


 牙禅は立ち上がり、森の中を見る。もう1度先に進もうとするが、見えない壁のようなものがあるのか前に進めない。


 左腕を伸ばし、身体が進まないのを再度確認して牙禅はその場にとどまる。


「どうなってんだ……」


 斗喜……。


「……くっ……」


 身体中が痛い。それに急に流れ込んできたあの嫌な感情……。


 ずっとどこかに残っている感じがする。


「落長に……伝えねぇと」


 痛む頭を押さえながら、ふらつく身体を動かし、集落へ足を進める。


 一瞬のことで何が起こったのか理解していない。


 一緒に来た斗喜は隣にいない。


 あの音は?濃い霧はなんだったんだ?化獣の死骸も……身体が黒くなった斗喜も。


 俺は何も分かっていない。


 頭の中を同じ疑問が駆け巡る。


 そして気が付けば集落の入口へとたどり着いていた。


 夜は外出禁止命令が出ているため、集落へ戻っても人の気配はない。皆寝静まっているようだった。


 集会所の方を見ると灯りが漏れている。


 まだ落長は集会所に残っているらしい。


 牙禅は少し身体を引きずりながら、集会所へ向かう。


 この時間まで、集会所にいるなんて……。


 集会所は日中は住民も立ち入りが自由だが、いつも夜間は閉ざされて人が立ち入れないようになっている。


 この時間、子ども達はいつも寝ている。つまり集まっているのは集落の大人共ってことだ。


 ゆっくり近づくと、中から誰かの話し声が聞こえてきた。まだ距離があり何を言っているか分からない。


 明日の儀式の準備?いや、いつも最終準備は落長が1人で行っている。補佐は俺が担当だから違う相談か?


 どうやら複数人いるらしい。男達の低い声が聞こえる。

 牙禅は集会所の入口に1度手をかけたがそのまま手を引き、集会所の横道を抜けて裏側に気配を殺しながら移動する。


 集会所の裏側は普段人は出入りしていない。埃や蜘蛛の巣を手で掃いながら集会所の壁に身体を沿わせ、中の話に聞き耳を立てる。


 この時間に誰か聞いているとは思っていないのか、中から大きな笑い声が聞こえた。


「いやはや、落長のおかげで我々も安泰ですな!」


 この声は……いつも落長の後ろを付いて回る腰巾着爺か?斑目とか言う無能野郎だ。


「声が大きいぞ。誰か聞いていたらどうする」


 落長の声だ。やはり大人が集まり会合を開いているらしい。


「まぁまぁ、もう皆眠っているでしょう……」


「やっとだ……。やっと我々の時代が来た」


 また別の声。これは子どもに狩りの指導を行っている右治……?


「正直このままこの地で朽ち果てるかと思っていたよ。落長はいつも全て1人で決められるから……」


「おい」


「あ、いや……しかし本当のことだろう。だからやっと我々を頼って下さってうれしいのだよ」


「……これから忙しくなる」


 落長の声だ。


「四十(あい)国が本格的に化獣狩りと繁殖を行う」


 壁の向こうでざわつく声がする。


「私は繁殖担当になった」


「それはつまり……」


「高い」


「おおおおお……!!」


「やっとか……!!」


 2人は歓喜の声を上げた。壁越しでも分かるくらい興奮しているのが伝わる。


「今までのように狩人を育成する必要もない。班目、単価を知っているか?」


「ん?繁殖のですかな?いや、私は無知なもんで、まったく!一体どのくらい……?」


「化獣狩りの派遣は1狩りにつき1弦(この国の単価)。1繁殖は300弦だ」


「さ、300倍ですと?!」


「しかもあの化け物どもは種付けから産まれるまで数十日。いい金になる」


「わ、我々も分け前がもらえるんですよね?」


「あぁ。今まで協力してもらった例があるからな、安心しろ。なんなら四十国の近くに移動しても構わんぞ?」


「おっほ!これは喜ばずにはいられん!」


「正直金が入ればこんな辺境にいる必要はない」


「いいですな、本当にここらは何も無くて不便不便!街での生活も楽しみたいものです」


 落長、班目、右治は好き好きに話を続けていた。牙禅は眉間に皺を寄せて聞き耳を立てる。


 気持ち悪い話しやがって……。


「あー……子どもらはどうします?繁殖を主軸にするなら育成は必要ないでしょう」


 右治が言う。


「いずれは必要なくなるな」


「いつ頃……?」


「1年くらいか。それまでに適当に食わせて男色や小児に気のある輩に売ればいいんじゃないか?」


「ほーう、落長も悪いですなほっほっほ」


「女は奴隷、男は男色。これでいこう」


 楽し気な落長の声には含み笑いが含まれているかのようだった。


 こいつら揃って屑ばかり。


 話を聞いていて黒く嫌な感情が胸を満たしていく。


 孤児ばかりの集落は善意なんかじゃない、悪にまみれた薄汚い感情と欲望で集められたに過ぎない。

 俺達は全員それに気付かず日々を過ごしていたのか……いや、俺は本当は少し感じていた。


 自分がやっていることの違和感。させられていることの意味。


 何も考えないように生きた結果これだ。


 胸糞悪い。


『まだ聞くか』


 急に低い声の主に話しかけられて牙禅は身体が強張った。さっと振り返り辺りを見渡すが誰もいない。


『この先は戻れぬぞ』


 また声がした。直接脳に響くような声。


 暗いから見つけられないのか?続けて見渡していると、少し離れた場所に獣が佇まっていた。


 背丈は低く、黒っぽい体毛に四肢がある。狼のようだ。雲に隠れていた月明かりが狼を照らす。


 背中が赤黒く光っている。……血だ。かなりの出血。足元には血が流れ落ち地面の色を変えていた。後ろ脚は肉が削げ白い骨が見える。


 普通なら絶命していてもおかしくない状態だぞ。


 その獣はこちらを見たまま動かない。その瞳は薄水色に輝いているように見えた。


「化獣……」


 牙禅はつい口に出す。


『警告してやろう』


 再度声。はっとした。目の前の化獣がこちらを真っすぐ見ている。


「この声、お前が……?」


『不可思議な顔をしているな』


 距離は離れているのに直接頭に響く声。信じられないが、目の前の化獣が話しかけているらしい。


「お前は……何だ。誰だ?」


 牙禅は中の大人に聞かれないよう小声で言う。


『お前達人間が化獣と呼ぶそれだよ』


「なっ……」


 化獣が話せるなんて聞いたことがない。少なくとも今まで生きてきた中では体験も噂も知らねぇ。


『お前はこの先戻れぬ』


 狼の化獣からゆっくり流れ出る血が床に血溜まりを作っていく。


『聞けば地獄、聞かぬも地獄』


「どういう……」


『遅いか早いか、彼方か此方の違いよ』


 恐らくこいつに襲う気はない。殺気がまったく無い。恐らく致命的な傷を負っているのもあるだろうが……。


「なぜ俺にそんな事を?」


『可哀そうなお前に対する私の優しさだよ』


 淡々と、目の前の狼の化獣は言う。いや、言うというよりは脳に伝えてくる、といったところか。


『迷ったら九十九つくもの元に向かうがいい』


 牙禅の周辺に突風が吹く。一瞬目を逸らし、化獣が居た位置に目線を戻すとそこに姿はなかった。あるのは赤黒い血だまりだけ。風は止み、月も雲に隠れた。


「なんなんだよ……」


 森でのことも斗喜のことも、目の前の屑共のことも化獣のことも。


 急にいろんな事が起こったからか、牙禅の動悸が激しくなる。


 俺を試すな。試さないでくれ。


「……いえば斗喜と牙禅ですが」


 集会所の中から斗喜の単語が聞こえてはっとする。

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