牙禅と森2
「夜に立ち入るのはいつぶりだ?」
「小さい頃に遊んでたとき以来じゃないか?」
集落裏の森は傾斜と高低差がありとても歩きにくい。加えて自然の草木がそのまま手つかずの為、視界も悪く獣が身を潜めるのにはぴったりな場所だ。
裏の森を少し進んだ所で牙禅は気付いた。
「やけに静かじゃねぇか?」
夜とはいえ草木が擦れる音もせず、獣の気配も感じない。
息を殺し、目を閉じれば本当に森の中かと疑うほどの静寂が訪れる。
あまりにも静かすぎる森に牙禅は自然と冷や汗が流れ出た。
牙禅と斗喜は互いに目を合わせ頷き、腰の刀に手を添えながら足音を消し、忍ぶように奥へと進んでいく。
「落長は森を登り切った更に奥に罠を置いたらしい……」
斗喜はあたりを警戒しながら呟く。
2人は森の傾斜を抜けて、開けた場所に出た。
道という道は無く、野草があちこちで空に向かって伸びている。
これでもまだ罠の場所には到達していないようだ。
辺りは月の光が届かないため薄暗い。腰から垂らした明かりは足元と周囲を軽く照らすだけで、薄暗く不気味な静寂に包まれる森の中にいる不安な気持ちを拭ってはくれない。
風も止んだのか、草木の擦れる音すらしない夜の森は嫌でも異常さを感じる。
「何も居なさすぎる」
牙禅も斗喜も互いに幼少の頃から狩りをして育った。
獣の気配や息遣いはすぐに分かるものだが、今この森には生きているものがいないんじゃないかと思うくらいなんの気配もない。
ゆっくりと更に奥に進んでいく。
途端、獣と鉄の臭いが辺りに立ち込めた。
鼻の奥まで届く強烈な臭いに牙禅と斗喜は顔をしかめると同時に刀を抜いて構える。
足を進めると、牙禅の足元を照らしていた光が草木の緑が赤黒く染まっている様子を照らし出した。
「牙禅、これ……」
斗喜は腰から垂らした明かりを手に取り、腕を伸ばして先を照らす。
そこには大量の獣の死体が転がっていた。10匹以上いるだろうか。黒っぽい皮と四肢が見える。恐らく狼だろう......全て首が無い状態で死んでいる。首から流れ出た血が辺り一面を赤黒く染め上げており、異様な雰囲気の原因だと瞬時に理解させられた。
「時間は経っちゃいるが、今日狩られたな」
牙禅は獣の死体を近くで見ながら言う。
首は鋭利な刃物で切られたのか、傷口が崩れておらず首があれば元通りになれそうなほど綺麗な状態だった。
「それにこいつら……全部化獣だ」
首から流れ出た血は乾いておらず、革靴の裏には濡れた感覚がある。
化獣の血は、絶命すると乾かない。
「化獣?さっき死んだ獣じゃないのか?」
「見てみろ」
牙禅は一匹の狼を顎で見るように促した。
「そいつは肢の先が全て2つに分かれている。こっちは尾が二股になりかけだ」
斗喜は言われた通り目の前の死体を確認する。牙禅の言う通り、肢先や尾先が通常の狼とは様子が違っていた。
「本当だ……一体誰が……」
なぜ首が無いのかは分からないが、日中森の様子がおかしかった理由が分かった。
普段人の前に姿を見せない化獣が、裏の森で大量に殺されている。
その臭いや気配は森を伝い、生き物全体に恐怖心を与えたのだろう。
「何にしろ報告はしないと」
「だよな……。牙禅、これどうする?」
斗喜は狼の化獣を指さして言う。放置してよいのか、ということを聞いているらしい。
「このままここにいたら獣に襲われる可能性もある。今は放っておくしかない」
化獣の皮は頑丈で使い勝手が良いからいつもなら持ち帰るのだが、今回は数も多いし日も落ちている。翌日に持ち越すしかないだろう。
「戻るぞ」
「ちょっと待ってくれ。一応獣用の罠は確認しておきたい」
目の前の異常事態にも関わらず、落長に言われたことは律儀に守ろうとする斗喜。
牙禅は少し考え込む。
「なぁ、落長はいつ罠を仕掛けたって?」
「さぁ、そこまでは聞いてないな」
ふと、辺りを見回すと濃い霧が立ち込めていた。目の前にあった化獣の死体が見えなくなるほどの濃霧。
牙禅は咄嗟に後ろに飛びのき、
「斗喜!」
と叫ぶ。近くにいた斗喜の姿が見えない。
「ここだ!」
少し離れた場所から斗喜の声がした。まだ近くにはいて無事なようだ。
「こっちへ来い!」
牙禅は声を張り上げた。濃霧はものすごい早さで辺りを覆い尽くし、すぐ目の前にあった木々も見えなくなる。気が付けば灯りは消え、暗闇が牙禅を襲う。灯りが無くなった途端牙禅の身体に蘇る恐怖心。いくら鍛えていようが、こんな状況になれば誰だって恐怖が襲ってくる。
「今行く!どこにいる?!方向が分からない!」
「ここだ!」
霧のせいで方向感覚が失われていく。牙禅と斗喜はお互いに声をかけて互いの場所を確認した。
ーーバキッ……
近くで木の枝が折れる音がした。ーーいや、そんな可愛らしいものじゃない。
バキバキバキ……
太い幹自体が割れたかのような、大きな音が響き渡る。
近い。
「牙ぜ……」
濃霧の中から斗喜が手を伸ばし現れた。と同時に、現れた方向に猛烈な勢いで吸い込まれるかのように消えていく。
牙禅は咄嗟のことに驚愕の表情を浮かべることしか出来なかった。霧が濃すぎて斗喜の姿はどこにも見えない。
ボキッ……ゴリッ……
辺りから何かを砕くような音が聞こえる。
化獣の血の臭いで鼻はもうイカれてる。前だって何も見えない。様子が分からない。
何かがいる。巨大なのか?怪力なのか?どこから現れた?どうして気付かなかった?
牙全の頭の中を疑問が駆け巡る。しかし常識外の状況に頭が働かない。
『オ……マ……エモ……』
頭に響くように、低く暗いぼやけた声が聞こえた。
姿は見えないが、恐らく目の前の何かがこの声を発している。
「お前、も……?」
続く言葉はない。
が、急に牙禅の右腕が何かに掴まれる。
「……っ!」
牙禅を掴んだのは濃霧から伸びた人の手だった。骨がミシミシと軋むほど強力な握力で掴まれている。
右腕に力を入れ、引き離そうとするがびくともしない。
「離せっ……!」
こんなん人の力じゃない。
でも。
この腕は。
「斗喜……!」
濃霧が急に晴れ、牙禅の腕を掴んでいるモノの全体が見えた。
斗喜がいた。
さっきまで一緒にいて、話してて。
なのに目の前の斗喜は明らかに様子が違う。
顔は真っ黒になり、表情がない。瞳は閉じたまま。斗喜の黒くなった肌は侵食するかのように、牙禅を掴んだ手まで徐々に染まっていく。そして、斗喜の手が掴んでいる牙禅の腕へも侵食していく。
「やめろ!」
牙禅は身体から引き離そうと斗喜を思い切り蹴り上げる。しかし、硬い岩を相手にしているかのようにびくともしない。
牙禅の右腕に侵食した黒は手のひら、指先、そして肩へと広がっていく。
腕にはずっと力を入れているのに。相手の力が強すぎて離せない……!
何かが入ってくる……!
苦悶の表情を浮かべる牙禅。黒が牙禅の首へと進んだそのとき、
バチン!
激しい音と共に黒は肌から浮かび上がり、そのまま四方に飛び散った。同時に、牙禅の胸の中にどす黒く嫌で悲しい感情が湧き上がる。
なんだ……?
苦しい。悲しい。痛い。辛い。
負の感情が一気に牙禅の内側に溢れる。
自然と涙が流れる。負の感情は止まらない。
自分の意思とはまったく違う、何かの感情に呑まれる。
苦しい悲しい痛い辛い苦しい悲しい痛い辛い苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
「くっ……がああぁああ!!」
牙禅の身体中に強烈な痛みが走る。
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