牙禅は夢を見る

ああ、またか。


 鬱蒼うっそうと木々が生い茂る中、大木の傍らに瘦せ細った女がいた。薄汚れた衣類を身に纏い、腕の中には同じく汚れた布にくるまれた何かがいる。


「……」


 女は何も発しない。話さないのか、話せないのか。

 何かを抱えている女の腕が小刻みに震えている。呼吸は浅く、はっはっと荒い息遣いがここまで届く。


 静寂。


 普段獣や鳥の気配で溢れる森が、息を殺すように影を潜めて女を見ている。


 己は知っている。この女が何をしに来たのかを。


 女がふぅーーと深いため息を吐いた。と同時に、抱えていた何かをそっと大木の根本に置き、くるりと向きを変え走り去っていく。去り際の女の横顔が一瞬光ったように見えた。女が消えた後の森は再び獣の気配で溢れかえる。


 己は置かれた何かを草陰から覗き込んだ。細長く、小さいそれは動かない。

 ギャァギャァと烏の鳴く声が響き、草木が風に揺れカサカサと音を立てる。


 ーーいつもなら。

 いつもなら傍観するだけだ。

 獣に見つかれば喰われ、ほおっておけば衰弱して死ぬだろう。

 けれども今回は違う。目の前の何かが己を呼んでいる。


 布にくるまれた何かにゆっくりと四肢を近づける。


 小さな顔が見えた。やはり幼子。産まれてから日が浅いのか?痩せ細り、動く気力もないのかぴくりともせず目を瞑ったままだ。

 もはや死んでいる?確かめようと顔を近づけた時、幼子の目がうっすらと開き目が合う。


 幼子は薄目ながらも己の顔を見つめ続ける。

 生きたいと願うかのように。


「……生きたいのか」


 幼子は何も言わない。ただ、無垢な瞳を己に向けるだけだ。

 己は幼子を包む薄汚れて湿った布をくわえて、森の奥深くに向かう。



 ーーーーーー






「ぜーーんにーーいちゃーーん!」


 誰かに呼ばれる声がして、牙禅はまどろみの中からはっと目が覚める。

 牙禅はゆっくりと目を動かし辺りを見渡した。薄汚れた古木で作られた室内の壁、簡素な机、そして身体にかかった薄布が1枚。


 何も変わらない、いつもと同じ部屋だ。


 ――夢を見ていた気がする。

 夢の中では何か別の生き物になっていて、誰かを見ていたような……。


 牙禅は寝床からゆっくり身体を起こし、頭と顔の境目に手を添えた。

 頭の奥がズキズキと痛む。


 深く深呼吸をして首関節を慣らし立ち上がった。そこに、


「ぜんにーーい!どこーー?!」


 と、再び声がする。若い少年の声だ。


「……っるせぇ……」


 寝ぼけていた頭が徐々に冴えてきた。


「禅兄ちゃんっ!ここか?!」


 牙禅の部屋の扉がバンッという音と共に勢いよく開く。


「鉄……寝室に勝手に入るなってあれほど……」


 牙禅は鉄の方をゆっくり振り返り、頭を軽く掻きながら返事をした。


 鉄は10歳になる少年だ。重力に逆らった短い髪の毛と小さくつぶらな瞳は憎めない可愛さがある。いつも活発に動き回っていて今日も朝からせわしない。


「禅兄、まだ部屋にいたの?おーきーるーじーかーんーだーぞっ」


「声がでかい。あーー頭に響く……頼むから寝かせてくれ。俺は昨日夜警担当だったんだ」


 夜警は集落周辺の警護を行う役割で、集落内の成人を迎えた男性が交代で担当している。皆が寝静まる中、落日らくじつ(らくじつ)から入日いりひまで休憩なしで警護しっぱなしの過酷な労働だ。


「あっ……わりぃ!ごめん!でさ!」


 鉄は一瞬申し訳なさそうな顔をし、牙禅に謝った後言葉を続けた。


「落長が!明日久々に出迎え式やるって!」


 出迎え式。集落に新たに人が移住する時に必ず行われる儀式だ。牙禅の住んでいる集落は小さく、外との交流も少ないためここ数年は儀式が行われていない。


「出迎え式か……久々だな……」


「俺さーもう今からどんな人が来るのか楽しみで寝れねえわ!分かる?この興奮!」


 鉄は興奮しすぎたのか頬が赤くなっている。子どもは無邪気で羨ましい。


「それは人を叩き起こしてまで言うことなのか?」


 牙禅は大きなあくびと共に鉄に言う。


 正直なところ、出迎え式と聞いてもまったく興奮しない。この集落に誰が来たってやることは同じ。どうせ俺が駆り出されるんだろう。


「そうだ!落長が禅兄のこと呼んでたから伝えにきたんだった!」


「……だろうな」


 鉄は牙禅を頭の先から足先までじろじろ見て、


「ぜんにぃさぁーー髪ぼっさぼさだし見た目くったくただよ?それで行くのは恥ずかしいんじゃない?」


 眉を潜めながらそう言うと、駆け足で部屋から離れていった。


 寝ているところを起こされたあげく、身なりの評価を勝手に付けてさっさといなくなってしまった。まったく、嵐のようなやつだな。


 確かに癖毛だが普段整えられている牙禅の髪は寝起きでぼさぼさだった。


 日々鍛錬を怠っていないので長身の身体は筋骨隆々。着ている衣服の下にうっすらと張った胸部と腹筋が垣間見える。しかし集落の夜間警備明けでそのまま眠ったため、身体中が汗ばみ汚れている。


 牙禅は切れ長の目に整った顔立ちだったが、今は無精髭姿でくたびれた雰囲気もある。

 髪や自分の顎に軽く触れ状態を確認した牙禅は、机の上に無造作に置かれた小刀を持ち部屋を出た。


 牙禅の住んでいる寝屋は集落の子ども達も住む共同寝屋だ。いくつかの小さな部屋が並び、奥に共同の水場がある。


 水場には水盆と銅鏡が置いてあり、普段から身なりを整えるのに使っていた。


 牙禅は深めの水盆から水を汲み顔を洗った後、銅鏡に映る自身の姿を見ながら小刀を肌にぴったりと当て滑らせていく。左右の髭を剃り、剃り残しが無いか確認し小刀を置いた。


 次にそのまま軽く髪を濡らし、下から上に掻きあげる。銅鏡の裏に置かれた木蝋もくろうを少量手に取り、髪が前に垂れ落ちてこない程度に手櫛でつけていく。


 こんなもんだろ。

 身体は後で洗えりゃいい。


 牙禅は自室に戻り、よれた衣類を寝台に脱ぎ捨て、壁に掛けていた浅黒い衣服を上から被った。

 肌に程よく密着する腕と首元を隠すこの上着は着心地が良く、警備や鍛錬に向いている。牙禅は更に細身の袴を身にまとい、獣の皮で作った腰当てを装着した。

 腰当ての右側には鞘に収められた小刀が2本付いており、左側には刀を収められる帯が付いている。小刀は何かあったときの為に、鍛錬中も護身用として常備していた。一通りの着替えが終わった後、獣皮の靴を履き外へ出る。


 日はすっかり昇っており、頭上近くから強い日差しが牙禅を照り付けた。


 この集落には何も無い。

 娯楽は無いし、新たな発見や出来事も無い。

 毎日起きた後は鍛錬をし、集落周辺の警備を行う。

 集落は八蘇山の麓にあり、獣に襲われる危険も考えられるからだ。


 集落の住民の半数は齢70を超えた年長者で、残りは俺を含む若年者。

 みんな出稼ぎに行って帰って来るやつは少ない。


 牙禅は集落の中でも最も体力があり、刀や体術に心得のある人物の内の1人のため、日々交代で警備や偵察、獣狩りに出ていた。


「落長はいつもの集会所か?」


 落長は集落で最も大きい集会所で日々を過ごしている。

 何をしているかは正直知ったこっちゃねぇが、集落の金勘定や外部とのやり取りを行っているらしい。


 金勘定と言えるほど特産品も無ければ仕事も何もないはずなんだけどな。


 牙禅は集会所の扉を叩く。


「落長、牙禅です」


 中から返事は無い。

 牙禅は返事を待たず、扉を開けようとした。しかし古くなった扉は建付けが悪く、なかなか室内へ歓迎してくれない。

 ――ああ、コツがあるんだったか。

 扉に手をかけ、軽く手前に引き上げてから一気に押す。

 こつを掴めばすんなりと集会所に入ることができた。


 集会所は集落の若者同士交代で清掃しているため、集落の中でも清潔に保たれている。

 非常事態が起こった時には集落中の者が集まり、被害を確認する流れだ。

 まぁ、過去10年以上急を要することなんざ起きてないんだが……。


 集会所の奥は座敷となっており、4〜8名ほど座れる余地があった。

 落長は最も奥に位置する場所に腰かけ、考えごとをしているのか目を瞑っている。


「落長」


 牙禅が再度声をかけると、落長と呼ばれた男は顔を上げた。


「おお牙禅。待っていたぞ」


 落長は白髪交じりの伸びた銀髪を後ろにひとつで束ねている。今年で73を越えたが、眼光は鋭く、かつては凄腕の狩人だったことを感じさせる。しかし身体の衰えは止められない。10年以上昔に獣にやられた脚はゆっくり歩く程度しか動かせず、筋肉もほとんど落ちてしまっているようだ。衣類から見える腕は細く、衰えを感じる。


「ここに」


 落長は指を動かし近くに来るように促しながら続ける。


「明日、久々に移住者がやってくるでな。久方ぶりの出迎え式を行うことにした」


「はい」


 落長には俺が小さい頃から世話になっている。

 牙禅は主に従い付きそう警備兵のごとく片膝を付き、返事をした。


「出迎え式にはにかわが必要でな……ただ、獣ではなく化獣(ばけもの)の膠が欲しい」


 ーー化獣。獣でも人間でもない存在。獣とほぼ変わらない見た目をしているが、身体のどこか1箇所が本物と異なる。しかし個体ごとに異なる箇所が違うため、獣と見間違えることの方が多い存在。


「お前は眼が良く利く。頼まれてくれんか」


 集落の人々は、ほとんど化獣の存在を認識できない。目の前にいても、自分に危害を加えずにいるのならそれはただの獣なのだ。


 その点、牙禅は化獣をなんとなく見分けられる。それは幼い頃から獣狩りに森に出ており、狩人としての経験を積んだからだろう。よく観察すればすぐ違いを見つけられる。


 それに化獣を殺るには少し骨がいる。集落の中では俺が最も適任と考えるのは当然のことだ。


「御意のままに」


 正直なところ、あまり気が乗らない。ここ最近集落の周辺でほとんど化獣を見かけていない……探すのには骨が折れそうだ。


 すぐに牙禅は立ち上がり扉に向かおうとするが、


「そうだ」


 と、呼び止められた。


「明日は禊が必要だから準備しておけよ」


「……御意」


 返事をして牙禅は集会所を後にする。


 やっぱりな。


 禊は牙禅が最も嫌う行事だった。

 通常の禊では川や水に浸かって穢れを落とすが、ここでの禊は名ばかりでまったくの別もの。

 落長の指示のもと移住者と共に個室に入り、半日から丸一日かけて集落と落長に忠誠を誓うよう誘導する。同時に役立つためのすべも教えていく。


 つまり洗脳するのだ。


 落長は頼み事をするときはいつも急で、事前に情報を伝えない。

 集落の若年者は基本事後に知らされるか、最悪何も伝えられないまま過ごす事もある。

 神事も、行事も、全て。

 気が付いたら仲の良かった姉のような女はいなくなっていたし、出稼ぎに行ってくるといったやつらは2度と集落に戻ってこない。

 幼い頃は気に留めていなかったことも、成長し大人になると疑問や疑惑に成り代わる。


 禊を終えた移住者はしばらく集落で過ごした後、性別年齢関係なく四十(あい)国へ送られているらしい。記録にないから推測でしかないが。


 さて、と。


 もう日は昇り切っている。夜間の森への立ち入りは集落の掟で禁じられているから、化獣を探すにはなるべく早い方がいい。

 眼が利く自分でも、暗すぎれば狩られる立場になっちまう。


 牙禅は早々に共同寝屋の自室に戻り、机の上に置かれた緋色と漆黒を足した鈍色の刀を手に取った。

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