さよなら電車

初瀬 叶

さよなら電車

「はぁ……疲れた」

久しぶりの学会。未知の感染症のお陰でここ最近はWebでの出席が主だったが、発表する立場になるとそうはいかない。


遠方での開催だった為、昨日に引き続き今日も泊まりだ。

会場近くのホテルが取れなかったので、電車で二駅先まで移動。慣れないスーツ姿に余計に疲労を感じる。


電車は意外と空いていて、すんなり座ることが出来た。有り難い。ヒールの足が痛む。


たった二駅先、眠ってはいけないと分かっているのに、私の上まぶたと下まぶたが仲が良すぎて目を開けていられない。


ちょっとだけ。目を瞑るだけ。そう自分に言い訳しながら、私はいつの間にか目を閉じていた。



私の母は美容師だった。


たばことお酒が大好きで、お喋りが大好きな母。

母の美容室には、お喋りに来るお客さんがたくさん居た。

学生の頃は何かと衝突する事も多かった。私が理屈っぽい人間だからだ。 よく母を怒らせた。

母一人、子一人。喧嘩も多かったが仲の良い親子だったと思う。


私も仕事を始めると、お互い夕食の時ぐらいしか顔を合わせる事はない。 母は美容師、私は医療従事者。

ハッピーマンデーで月曜日がお休みの時には、必ず二人でランチを食べに行った。 私が運転手。母は昼間っからビールを飲む。

何故かレストランでは、私の前に置かれるビールに何度も二人、苦笑いした。


そんな母が「どうにも最近腰が痛い」と言い出した時、私は職業病なのでは?と軽く考えていた。

今どきの美容師さんは椅子に腰掛けて仕事をするスタイルの方もいらっしゃる様だが、中腰で仕事をする母が腰痛になったって、そう不思議ではない。そう思っていた。

「整骨院に行っても、マッサージを受けても痛みがとれない」 と言う母に、整形外科の受診を勧めたりもした。


ある日の日曜日。 「今度はお腹も痛くなってきた。明日の休みに病院に行こうと思う」

いつもより二時間程早く、美容室を閉めて帰って来た母に私は驚いた。 母は我慢強い人だったから、

そんな母が自ら病院に行くと言い出すなど、よっぽどの事だと思った。

「大丈夫?」と尋ねる私に、 「便秘が酷いから、そのせいだと思う」 と母は答えた。


翌日。自分の昼休みに母のスマホへ電話を入れる。 ……出ない。まだ病院に居るのだろうか?

大きな病院だ。検査を含めると午前中いっぱいはかかるかもしれない。そう自分を納得させた。

何度か自分のスマホを確認するが、折り返しの連絡はない。 夕方。あと一時間程で私の仕事も終わるという時間に母から連絡が入っているのを確認した。 「電話出来る?」 そんな短い母からのメッセージに少しだけ心がざわついた。


母の病名は「進行性膵臓癌」ステージ4。 膵臓癌は遠隔転移をしている場合は、手術適応外だ。 残された治療は抗がん剤のみ。

母は治療はしなくて良いと言った。あまり生に執着のない母だったが、 私はどうしてもそれを受け入れられなかった。

医師だって、治療を勧める。前日まで仕事をしていた母だ。体力もあるだろうからという医師の説明だった。

私は母を説得した。まだ母と離れたくない。 母はまだ若い。私は母の生命力に賭けたかった。


結局、母は病名を告知されてから約二ヶ月半でこの世を去った。

抗がん剤の治療は思った以上に母の体力を奪った。 元々痩せている母が、ますます痩せていく。下血が止まらず、輸血を繰り返した。

どんどんと弱っていく母に、医師もこれ以上の治療は無理だと判断した。

母は生前から、延命治療を拒否していたので、私は母の意志を尊重した。

ホスピスへ移る時間はないので、この病院で緩和治療をしましょうと言う医師の言葉に、私は仕事を休む決意をした。 個室に移った母にずっと付き添えるように。

家には犬と猫がいたので、その世話と夜寝る時以外は母と病室にいた。

母を終末期せん妄が襲う。母が母でなくなっていく様で怖かった。

呼吸状態が悪化し、モルヒネを投与してから約一日で母との別れが訪れた。

最後まで私は母の耳元で話し続けた。人間、最後まで耳は……声は聞こえると聞いていたから。

「ありがとう」「大好き」「母さんの子どもに生まれて良かった」と。

最期、母を独りにさせなくて良かった。看取る事が出来て良かった……快く仕事を休ませてくれた職場の同僚に今でも感謝している。


母が入院する前に「怖くないか」と私は尋ねた。 母は「死ぬのは怖くない。夜眠って、目が覚めないだけだ」と言った。

心残りはあるかと尋ねれば「最後にもう一度ディズニーランドへ行きたかった」と母は言った。

その時の私は完治はなくても、きっとまた元気になってくれると信じていたから 「行けるよ。また一緒に行こう」と約束した。

その約束を果たす事が出来なかった事が、今でも私の心の中に澱のように沈んでいる。


母は生前、いつも 「あなたに迷惑をかけたくない」 そう言っていた。 「認知になっても良い、寝たきりになっても良い、だから長生きして」と言う私に「それは嫌だ」 と顔を顰めた。

母が亡くなった今、こんな時まで有言実行でなくても良いのに……と頑固な母に苦笑してしまう。


母が亡くなってから初めての春、仏壇に桜を飾った。 「今年の桜は見れるのかな?」 正月に一旦家に外泊した時の母の言葉。

大きな桜ではないけれど、少しでも喜んでくれたら良いと思った。

亡くなった母に私が出来る事など限られている。 治療をした事が良かったのか、悪かったのか……。正直今でもわからない。 けど、どちらを選んでも、きっと私は後悔していただろう。

ドラえもんの『もしもボックス』がない限り、『もしもこうしていたら……』の世界を覗き見る事は誰にも出来ない。 一生、私には正解がわからないままだ。


母はシングルマザーで私を育ててくれた。物凄く苦労をしたと思う。 私はあまり親孝行な娘じゃなかった。

母は本を読むのが大好きだった。それは私にも受け継がれている。

私に「いつの日かミステリー小説を書いてみたい。実はもうトリックも考えてるあるの」 と少し恥ずかしそうに言った母を覚えている。 なんでも器用にこなす母の事だ、私は 「いつの日か小説家としてデビューしたりしてね」 と笑った。


私が本を出版した事を天国の母は喜んでくれているだろうか? ミステリー……ではなく恋愛小説なのは予想外かもしれない。

「孝行したい時分に親はなし」

出来れば私の本を読んで貰いたかった。出版を一緒に祝いたかった。そして感想を聞きたかった。

しかしそれはもう叶うことのない望みだ。


そう思っていた。


「母さん?」

気づけば私は、母の美容室に居た。鏡越しに母と目が合う。


「何を驚いた顔をしてるの?ショートカットにしたいって言ったじゃない」


少し長かった髪の毛をショートカットにしたのは……もう随分昔だというのに……。

私は生まれてずっと、母に髪の毛を切って貰っていた。母が亡くなってから生まれて初めて他の美容室に行った時は、恥ずかしながら緊張してしまった事を覚えている。


「うん……」


もう二度と話すことが出来ないと思っていた母が後ろに居る。振り返りたいのに振り返る事が出来ない。振り返ったら消えてしまいそうで怖い。

私はそのまま、鏡越しに母と会話を続けた。


「母さん……私ね、小説を書いたの」


「知ってる。凄いね!読書感想文は苦手だったくせに」

理系だった私に母はそう言って笑った。


「読んでくれた?」


「読んだよ。ライトノベルっていうの?初めて読んだけど面白かったよ」


「そう……。ありがとう」


「あんたはいつも、思いついたら直ぐに行動に移すよね。正直……羨ましいよ、あんたのそういう猪突猛進な所」


生前の母も良くそう言っていた事を思い出す。


「基本的に考え込むの苦手だからね」


「確かにね。悩んでも寝たら忘れてるもんね」


「酷いなぁ。それってなんか馬鹿みたいじゃん」


「羨ましいって言ってるの。私はクヨクヨ悩む質だから。だから、いつもあんたと話すと元気を貰えるの。悩むの馬鹿らしいってね」


これもいつも言われてた言葉だった。前と変わらぬ元気な母に私は思わず涙が溢れた。


「母さん……皆、泣いてたよ」


母が病気になってから私に頼んだ事は『病気の事は誰にも知らせるな』という事だった。

店をずっと休んでいれば色んな人に尋ねられる。私は『少し体調が悪くて』と嘘をつく後ろめたさを感じながらそう答えていた。


「悪かったね。あんたにたくさん嘘をつかせたね」


「葬式で、皆に責められたんだからね!」


私はたくさんのお客さんに『何故教えてくれなかったのか!酷い!』と責められた。母と仲良くしていたお客さんは特に。

母の専門学校のお友達もショックを隠せない様だった。

母も一人っ子だったから、親戚も少なかった。母のいとこ達も皆、早すぎる死を悲しんだ。


「分かっている、ごめんね。弱ってる姿を誰にも見られたくなかったからね」


いつも元気な母。その母から元気を貰っていたお客さんがたくさん居た。母の気持ちは良く分かっていたつもりだ。だから私は母の意思を尊重したのだから。


「母さんの気持ちは分かってたよ。でも私を責めるお客さんやお友達の気持ちも良く分かったから」


「あんたに嫌な役割を押し付けちゃったね」


その言葉に私はゆっくり首を振った。


「でも……母さんが皆に愛されていたのが分かって……改めて凄いなって思った」


皆、皆、泣いていた。母は人が良すぎて、良くトラブルにも巻き込まれていて、そんな母に私は何度も苦言を呈していた。

『他人の生活にあまり首を突っ込むな』と。その度に私は『あんたは冷たい』と言われていたのだが、お葬式での皆の涙が温かかったのは、母が温かい人だったからだ。


「フフフ。あんたに褒められるなんてむず痒い」


「私だって、褒める時は褒めるよ!」


そう口を尖らせた私の肩に母が手を置いた。

その温もりを感じて私はまた泣きそうになる。


「あんたが娘で良かったよ。これからも頑張って」


その言葉に答えたいのに、涙で上手く喋れない。


「私も……」

その一言が精一杯だった。


「さぁ、終わったよ!」

私に掛けたケープを外す。一種鏡が見えなくなって……母の姿は消えていた。


私は急いで後ろを振り返る。やはり母の姿はもうそこには無かった。



「……いじょうぶ?」

誰かが私に話しかけている。私はその声にゆっくりと目を開けた。私の頬は涙で濡れている。


目の前に着物姿のおばあさんが立っていた。私はそのあまり背が高くないおばあさんを見上げる。


おばあさんは私に向かってハンカチを差し出した。


「あなたも……大切な人と『さよなら』をしたのね」

おばあさんは優しくそう言った。


「あなたも……?」


「この電車はね、大切な人とお別れした人が乗る電車なのよ」


「え?」

私は周りを見渡す。私が学会の後に乗った電車とは違って見えた。


乗客は私を含めても十人も居なかったが、皆、目を閉じたり、ハンカチで目元を拭っていた。


「特に……心残りのある人がね。十分なお別れが出来なかった人がもう一度大切な人と改めてお別れをする為の電車なの。あなた……とても苦しそうに泣いていたから」

おばあさんは申し訳なさそうにそう言った。


私は途端に恥ずかしくなり、


「すみません」

と謝った。


「謝らないでね。居るのよたまに。あなたの様に苦しそうな人が」


そう優しく言った見ず知らずのおばあさんに私はつい口走っていた。


「本当は……謝りたかったんです。治療をしたくないって言った母に……無理に治療をさせた事を。でも結局謝れなかった。謝ったら、治療を頑張った母を否定する様で……」


「大丈夫よ。あなたの気持ちをあなたのお母さんはちゃんと分かっていますよ。きっと謝って欲しくなかったんでしょうね、お母さんは」


その言葉に、私はまた涙が止まらなくなった。


「ほらほら、そろそろあなたが降りる駅なのではない?」


何故かそのおばあさんは私の目的地を知っている様な口調でそう言った。


ふと外を見ると、確かに私が降りるべき駅のホームが近づいているのが見える。


「本当だ!」


私は慌てて立ち上がって、開くドアの方へと急ぐ。手にハンカチが握られているのに気付き、私はおばあさんに返そうと振り返る。……しかし、先程の老婆の姿はそこにはなかった。


ホームに降り立つ私は、走り去る電車を見送る。手に握られたハンカチがさっきの出来事が夢ではなかった事を証明していた。



学会から戻って、私は真っ先に仏壇の前に座った。

私の本は母の仏壇に置いている。

あの不思議な経験が何だったのかは、今もわからない。

でもこれからも頑張るから、見守っていて欲しいとそう思う。


母が誇れる自分でいたい。 大好きな母に「自慢の娘だ」と思って貰える自分でいたい。

私はこれからも小説を書き続けようと思う。 ほんの少し、母の夢の欠片を譲って貰った気分だ。


しかし、中々筆が進まないのが目下の悩みである事は間違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよなら電車 初瀬 叶 @kanau827

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画