秘密は秘密のままで

綿来乙伽|小説と脚本

通勤時間は30分。

 私は目を開けた。隣に座っていた女子高生が高校の一つ前の停留所で降車するために立ち上がった反動で、座席が揺れたからだ。私は始発からこのバスに乗っていた。まだ朝の七時に辿り着かない頃、駅に停まる度にたくさんの人間がバスを圧迫していった。この乗客達の中に、このバスが混めば混むほど喜ぶ者はいるのだろうか。これだけ広い世界で、たくさんの価値観を手にして、年齢も性別も育ってきた環境もこれから目指すべき場所も全部違うはずなのに、「バスは混まないで欲しいし座りたいし早く全員降りてしまえば良い」と思っている。それでも全員がバスに乗って車内を詰まらせていくのは、全員の矛盾から出来た異世界なのである。


 私が始発から目を瞑っていた。昔から朝が苦手で、交通機関を使う時はいつも目を瞑るようにしていた。目を瞑るだけで少しくらいは眠気が覚めるという祖母の教えを信じ続けているからだ。目を覚ましたのは、終点まで残り半分くらいの場所だった。私の視線の先には、顔をしかめている女性が立っていた。彼女は目を泳がせながら必死に窓の外を見ていた。まるで誰かに助けを求めるかのように、乗客ではなく、外の誰かに助けを求めているようだった。彼女を見つめていると、窓を向いていた彼女が、私に視線を合わせた。私は驚いて彼女のことを数秒見つめた。


 「痴漢です!」


 彼女は私の顔を見ながら大きな声で叫んだ。乗客はざわつき、彼女と彼女の後ろに立っていた男性を避けるように、空くはずのない空間を作った。


 「ち、違います僕は」

 「この人、ずっと私の後ろに立って太腿触ってました」


 驚きの声と蔑んだ表情が、バスの空気をさらに曇らせた。気付けばバスは停まって、彼女と男性、そしてどこからか現れた屈強な男性二人組がバスを降りて行った。


 だが私は知っている。彼女は痴漢を模倣し金銭を要求する犯罪者だ。彼女はいつもこのバスに乗っていた。時間はまちまちだが、出勤ラッシュと帰宅ラッシュの時間、つまりバスが混んでいる時間を狙って乗車し、男性の前に立ち、その時を待つ。そして、加害者に仕立て上げた男性と、他男性二人といなくなる。彼女はいつだってその手法でか弱い男性を主食にしていた。私はそれを何度も見ているし、やろうと思えば証拠を掴み警察に届けることも出来る。だがそんなことはしない。私は彼らに一ミリも興味がないからだ。だって彼女達もまた騙されており、私はそれをも知っているからだ。


 彼女の後ろに立っていた男性は、本物の痴漢常習犯だった。どこかで顔を見たことがあると思っていたが、女性に数々の性被害を負わせている指名手配犯だった。彼は帽子とマスクと眼鏡をしていたし、この時間の人間は他人のことを考える余裕はない。だからたとえ指名手配犯が同じバスに乗車していようと、隣に立っていようと、そのバスが安全に目的地に到着すればそれで良いと思うのだ。交通機関でも人身事故が起きた時に、被害者を心配するより、腕時計やスマホゲームに目が向いている人間の方が多いのがこの国だ。人は自分が思っている以上に、自分にしか興味がない。痴漢されたフリをする女性も悪く、指名手配犯の彼も悪い。悪い者同士が悪いことをするのに、他の人間が邪魔をする必要がない。そんなことより、それを悪だと考え、嫌なことだと考え、やってはいけないことだと考えられる人間に被害が及ばなくて良かった。私は彼らを見た時そう思ったのだ。


 痴漢をでっち上げた彼女の前に、一人の男子高校生が座っていた。彼はいつも終点までバスに乗っている。彼もまた口を噤まなければいけないことがある。彼は、置換されていた様子を、彼女のスカートの下から盗撮していた。ざわついた車内であることと、たくさんの音楽を耳に取り入れている人間しかいないこの場所で、録画開始の音が聞こえる奴なんていなかった。だが私はその様子をしっかりと見ていた。なんなら、痴漢をした男性より、座っていた男子高校生の方が得をしている。自分は手を下さずとも、女性が痴漢されている様子を確認出来たのだから、彼は一生分の運を使い果たし、そして何らかのモラルを失った。彼もまた、秘密を抱えて生きていかなければいけない。


 「お客さん、起きて」


 私は気付けばまた目を瞑り、本当に眠りについてしまった。終点に着いていたバスに、さっきまでの乗客と淀んだ空気は無く、夢から醒めた私と、運転手の彼が立っていた。


 「いつも眠ってますよね。ちゃんと寝てますか?」


 私は彼を見つめた。彼はいつも私の心配をしてくれる。私が朝出勤し、夜帰宅する。いつも同じバス、彼のバスに乗ることを彼は知っているのだ。


 「大丈夫です」

 「お仕事、頑張ってください」


 彼は私に手を差し伸べた。白い手袋は、少し大きいのか、指先数ミリの布が折れている。それにとても綺麗な白。年季が入るなんてまだまだ遠い、真っ白な手袋。彼はバスの運転手になってまだ二年だ。私は彼が、彼の運転するバスが、好きだ。


 「ありがとうございます」


 私は彼の白さを抱き締めて、バスを降りた。振り返ると彼は小さな口角を精一杯上げて笑ってくれた。これも、いつも通りだ。


 私は彼に別れを告げて、自宅に帰るバス停まで歩き始めた。

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秘密は秘密のままで 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21

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