マーメイド

彩亜也

マーメイド

 夜のプールサイドを歩いていた。月明かりを反射する水面に吸い込まれそうになる。私はざらざらとしたタイルの上に座ってこのまま世界が溶けてなくなればいいのにと俯いた。

 名前も知らない町に訪れたのは母の提案。いつも世界のどこかにいる彼女はつい数日前にふらりと帰ってきて私の手を引いて飛行機に飛び乗った。広い座席で眠り続けること数時間。気づけば知らない国に降り立っていた。

 母は捕まえたタクシーに行き先を告げると私と鞄を押し込んで手を振る。それに抗う気力もないまま見たこともない異国の田舎景色を眺め気づけば海を見下ろすホテルにたどり着いていた。支払いをカードで済ませるとフロントで名前を伝える。さすがの準備の良さで私の言葉がわかる通訳さんが待ち構えていた。案内された部屋に荷物を置いて母の到着を待って夕食を摂り、酔っぱらいの大声から逃げる様に静かな場所を探して私はプールにたどり着いたというわけだ。

 その時ちゃぷんと音を立てて水面が揺れた。誰かいるのかと顔を上げれば水の中から誰かがじっとこちらを見つめていた。黒い髪に月に照らされて青白く浮かび上がる頬。その目は銀色に輝いて私は息を呑んだ。その人はしばらくじっとしていたけれどゆっくりと私に近付いてきて水から上がった。女性に見えたその人はスラックスだけ履いていて手には水かきとエラに線状の穴が数本見えた気がした。驚いて瞬きを繰り返せば見間違いだったのか髪を掻き上げる彼の手に水掻きは無かった。

「こんなところで何を?」

 その声は男性にしては高く、女性にしては奥行きがあった。彼はそのまま私の前で立ち止まるとぽたぽたと水を垂らしながら私を見下ろす。

「あなたこそ、なんでそんな恰好で水の中に?」

 私の疑問に彼は怪しく笑った。

「大切なものを落としてしまったんだ」

 そう言って私の前に右手を差し出す。そこにあったのは大きな真珠。その美しさに目を奪われていると彼は笑って「ほしい?」と尋ねる。

「大切なものなんでしょ?それならいらない」

 私の返答が良かったのか彼は私の隣に腰を下ろすと知らない歌を歌った。静かで深く沈むような声は心地よく、いつもなら音のないところに逃げる私はしばらくその場で聞き入った。

 翌朝彼に会いたくてロビーにいたけれど彼は現れなかった。もしかしてとプールにも足を運んだけれどおらず、仕方なく部屋に備え付けられたバスタブに浸かる。海を一望できるように大きな窓が取り付けられたバスルームで電気を消して月明かりだけを頼りにひたっていると昨晩の彼を思い出してたまらなく会いたくなった。

 その時微かに耳に届いた歌声に私はたまらず駆け出した。体も濡れたまま服を着なおしてプールサイドへ急げば――――彼がいた。彼は息を切らす私を見ると笑って持っていたタオルで私の髪を拭く。

「会いたかった?」

 彼は嬉しそうに言った。私は頷いて彼の隣に座ると昨日と同じようにその歌声に酔いしれた。

「ようやくパーティよ!」

 ここへ来て一週間が経過したその日、母は朝からいて私にドレスや靴を渡してきた。母によれば明日の夜に開かれる仮面舞踏会目的だったという。私はその夜重い足取りでプールサイドへ向かうとざばんと音を立ててプールに倒れるように入った。軽い衝撃の後すべてが鈍くなった世界で水の冷たさだけが怖いほど感じられて目を見開く。次の瞬間強い力に引き上げられ私は重力の世界に舞い戻った。

 仰向けのまませき込んで目を開けば心配そうにのぞき込む彼の瞳と視線が交わる。たまらなくうれしくなった。それで笑えば彼は眉間に皺を寄せて初めて怒った。

「なんでこんなことしたのさ」

 私は彼に明日の夜のパーティについて話した。

 世界一退屈で世界一煩わしい最悪の発明だと。彼はそれを黙って聞いた後ずいっと顔を近づける。突然視界いっぱいに広がる端正な顔に仰け反れば彼は慌てたように背中を支えて笑った。

「それなら参加するよ」

「え?」

「私も参加する。そうしたらきっと楽しいよ」

 そう言って笑った彼は美しかった。美しくて私は泣いてしまった。


「貴方は今日誰よりも美しいわ」

 私の髪をセットして母が言った。さすがはデザイナー。その名に恥じぬ腕前で私を何倍も美しく見えるように飾り立てる。私はそれが嫌でたまらなかった。本当の私を退屈だと言ってみんな避けていくから。

 日が暮れるころ会場に入れば母はすぐに取り囲まれて私は壁際に逃げた。彼は本当に来てくれるだろうかとプールが見下ろせるテラスの横でぽつんと立つ。そうしてしばらく待っていればどこからか黄色い声が聞こえてきた。

そこにいたのは目を引く男性。すらりと長い手足に体形に合った品の良いドレスコード、そして仮面の隙間から覗く銀色の瞳。私が彼だろうかと見つめればその男は私に気付くとまっすぐ近づいてきた。私も一歩踏み出そうとしたとき突然腕を引かれて振り返る。そこにはシャンパンを片手に微笑む女性がいた。オパール色の不思議な虹彩を持つ彼女は何も言わず私を見つめる。

「こんばんは、レディ。どうか僕とファーストダンスを踊っていただけませんか」

 突然聞こえた声に振り返ればあの男性がいつの間にか後ろで跪いていた。その向こうではほかの女性たちが悔しそうにしている。私は彼女が気になって断ろうとすれば「ぜひ!」なんて声が飛んできてさっきまで大勢に囲まれていた母が勝手に了承してしまった。

 断ることもできず演奏が始まると私は彼の手を取ってホールに出る。けれど頭の中は彼女の事でいっぱいで何度も彼の足を踏んでしまった。それでも次の曲も踊ろうと言う彼に謝って私は駆け出した。テラスの向こうに揺れるドレスの裾が見えて私は追いかけた。

 冷えるテラスで彼女は遠く海を眺めていた。その横顔があまりにも切なくて私は声を掛ける。

「あの!」

 彼女は驚いたように私を見ると涙をこぼした。それは不思議なことに地面に落ちると真珠になっていた。驚いて彼女を見ればあの微笑を浮かべて柵の向こうへ落ちていく。

「待って‼」

 そのあとのことは覚えていないけれど気づけば私は朝日が照らす砂浜で彼女と目を覚ました。

「どうして無茶したの?」

 大粒の涙を流す彼女はあの夜と同じ水掻きのついた手で私を撫でた。私はたまらず彼女を抱きしめて離れてしまわぬようにと腕に力を込める。

「それは私のセリフ‼良かった……貴方が無事でよかった」

「無事じゃない」

「どこか痛むの?」

 慌てて彼女を見るが目立った怪我はない。ともすれば内臓の話だろうかと青ざめる。そんな私を見て彼女は笑った。

「見てわからない?私人魚だよ?」

「それは見たらわかるよ」

「……人魚なんて不気味でしょう」

 彼女はそう言うと自分のエラを撫でた。

「どうして?こんなに美しいのに?」

 私がたまらず尋ねれば彼女は目を丸くして笑った。

「私が美しい?そんなの、初めていわれたやっぱり変わってるね」

 そう言うと彼女は私の頬を撫でた。人間の皮膚とは違う感触と冷たさが心地よくて笑みを漏らす。

「私、王子さまじゃないよ」

「そりゃあそうでしょ。なるならお姫様だし」

「女同士でもセクハラですよ?」

「これは失敬」

「……だからね、人魚姫が泡になるの耐えられないんだよ」

 そう言って彼女の額に張り付いた前髪を耳に掛ければ彼女ははじけるような笑顔で私の頬をぐりぐりともみくちゃにした。

「泡になんてならないよっ、だってこんなに愛されてるもの」

 彼女は歌う。どこか物悲しいあの歌を。私は手を引かれるまま海に落ちて二度と陸には戻らなかった。

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マーメイド 彩亜也 @irodoll

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