名前



「俺は神谷伊織じゃない。さっきのセーラの質問に答えるなら、ホントの神谷伊織は学校で見てる方かな」



 オムライスを食べながらのいきなりの激白は、到底信じられないものだった。






「俺は神谷伊織じゃない」って。

 まんま神谷伊織の顔でそう言われたところで、どう解釈すれば良いんだろう。



「それ……は、やっぱり双子だったって事?同じ顔の神谷がもう1人いるって事?」


「ううん、そうじゃない。そうじゃないって事はセーラが1番知ってるじゃん」



 神谷は……いや、どうやら神谷じゃなかった神谷は、スプーンを持った右手を軽く振って見せる。



 そんな事言われても、もうマーカーの跡はなくなってるから、あたしにはわからない。

 昨日の神谷と今日の神谷が、違う神谷だったとしてもあたしにはわからない。



 でも、この時点で“わからない”を連呼してても話が進まない。



 あたしはスプーンを置くと、隣に座る神谷……いや、神谷じゃなかった神谷へと向き直った。



「あのね。もうこの前から頭の中が、隣の神谷だの学校の神谷だの神谷じゃなかった神谷だのって神谷神谷で正直うるさい。もう限界まで面倒くさい」



 あたしはすっごい真面目に話してるというのに、それを聞いた神谷じゃない神谷は「うん」って頷きながらも、喉の奥で笑ってる。



「だから率直に聞く。名前は?」


「………え」


「だってあんたは神谷伊織じゃないんでしょ?だったらあんたの名前は何て言うの?」


「…………」



「もう神谷神谷と神谷三昧でゴチャゴチャするから名前教えてよ」と続けるあたしを、神谷じゃない神谷はまるで……そう。



 例えるなら“心臓を撃ち抜かれた人”みたいに驚愕の表情で見つめて来た。

 まぁそんな人は生まれてこの方見た事はないんだけど。



 だけど雰囲気的にはそんな感じだった。

 心底驚いたって表情だった。



 何でそんな驚くんだろう。

 あたしそんな変な事言った?



「あ、イヤなら良いの別に!決して詮索するつもりとかじゃなくて、ホントにただややこしかっただけだからさ!」


「…………」


「それに神谷じゃないのに神谷って呼ばれても、神谷だって……いや、神谷じゃない神谷だって複雑なんじゃないかなーって」


「…………」


「ほら、ね?今のややこしかったでしょ?どんだけ神谷だよって感じかと思って……」


「………が……て」


「え?」



 ちょっとの間、どんだけ驚いてんのって感じの顔してた神谷……じゃない神谷だったけど。



「セーラが……決めてくれて良いよ。俺の事は好きに呼んで」



 やがて微かに視線を下げると小さな声でそう呟いた。



 あたしが決めろって何なのそれは、とは思ったけど。



「じゃ“コーキ”で良い?虹が輝くと書いて虹輝こうき!ね、良い名前でしょ!?」



 即座にあたしが答えると、視線を上げた神谷……じゃなくてコーキは、やっぱり驚いた顔してた。

 でもすぐに何かを我慢してるような表情になり「それで良いけど、その名前どっから出て来たの」と拳を握った左手で口元を隠す。



「あのね、あたしの好きな俳優さんが今ドラマでやってる役の名前なの!でも、そう呼ぶのを断られても心の中ではそう呼ぶつもりだった!それだけでもかなりややこしくなくなるもん!」



 一気にそこまで喋ったところで遂にコーキは肩を揺らし、必死で声を押さえながら大笑いを始めた。

 そして「良いね、その明るい性格」と、声を詰まらせながら続ける。



 そんなにも大笑いしながらこんな事を言われても全然褒められてるようには感じられないけど、別に褒めて貰おうと思ってこの性格なワケじゃない。

 普段から、考えても仕方のない事は考えないようにしてるだけ。



 だってその方が楽なんだもん。

 ある意味、防衛本能とも言える。



 でも、それは。



「ねぇ、やっぱもったいないよ。学校でもそうやって笑ってれば良いのに」



 ただ、話が見えてないだけだったりもする。



「それは伊織の管轄だからさ。学校へ行ってるのは伊織だし」


「う……ん」



 そうだった。

 神谷はコーキじゃないし、コーキは神谷じゃない。



 ただ、やっぱり良くわかんない。



「あのさ、神谷とコーキは双子じゃないんだよね?」


「うん」


「って事は、この身体は神谷って事?」


「そうだね」


「コーキは神谷と、神谷伊織の身体を共有してるって事?」


「大当たり」


「それってさ、良い心と悪い心って意味じゃなくて?」


「………ん?」


「ほら、人って心が2つあるじゃん。良い心と悪い心」


「あー、うん。なるほどね」


「神谷とコーキもそういう感じ?」


「……その考えで行くなら、セーラ的に“良い心”なのはどっちなんだろう」


「コーキ」



 即答するとまた笑われた。

 やっぱ絶対コーキは……いや神谷は笑ってる方が素敵だと思う。



「俺は良い心なんて持ってないけどね」


「うん、そこは良いの。かろうじて神谷よりは性格良さそうって話だから」


「ねえ。それって褒められてる?」


「かろうじてね」



 やっぱり笑われた。

 バカにしてる感じじゃないから、ちょっと嬉しい。

 やっぱイケメンが笑ってくれるのはイヤな気分じゃない。



 しかも「美味いねこれ!」なんて言いながら、自分が作った料理をホントに美味しそうに食べてくれるのも嬉しい。

 来週から神谷の分までお弁当作ろうかなーなんて思うくらいには。



 みんなビックリするだろうなー、あたしが神谷と一緒にお弁当食べてるとこなんて見たら―――



「―――でも、そうじゃないんだよねー。心の問題じゃなくて、俺と伊織はそれぞれ別の人格だから」


「う……」



 そうだった。



 見た目は神谷でも、神谷とコーキは別の人だった。

 しかも学校にいるのは本体神谷の方だから、一緒にお弁当食べるなんて有り得ない話だった。

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ケルベロスの誘惑 ひなの。 @hinanomaru

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