交換条件②



 翌日、17時ちょっと前にあたしは家を出た。



「夕食前なのにどこ行くの」ってママが声を掛けて来たから「ちょっと2分ほど先まで」って答えた。

 ウソじゃない。



 だから神谷の家に着いたのは、丁度17時だったと思う。



 インターフォンを押そうとして、ちょっとだけ躊躇する。



 もし出て来たのが昨日の……っていうか、素敵じゃない方の神谷だったらどうしよう。

 もしくは「実は双子でしたー」って、同じ顔の神谷が2人並んでたらどうしよう。



 ……って、別にどうしようもなくない?



 出て来たのが最低神谷だったなら「間違えました」って帰れば良いだけだし、もしも双子だったとしても「そうなんだー」で終わる話。



 良し!って決意して指に力を込める。



 やっぱり一呼吸ほど置いてから、開けられたドアからは―――



「ホントに来てくれたんだ!」



 ―――素敵神谷。



「だって昨日、約束したし……」


「うん。でもまさかホントに来てくれるとは思わなかった!」



 嬉しそうに言いながら神谷は、いつもよりも大きくドアを開く。



 え?って首を傾げるあたしに、端に寄った身体でドアを支えた神谷が、当たり前のように「入って」と促す。



 しまった、そこは盲点だった。

 まさか家の中に招き入れられるとは。



 これは……良いんだろうか。

 言われるがままにノコノコと連れ込まれても良いとこなんだろうか。



 仮にも一応、年頃な男女なワケだし。

 違う意味で豹変した神谷が、いきなり襲って来たりしたら……



 なんて考えたのは一瞬。



 断然好奇心の方が勝ったあたしは、アッサリと神谷の部屋の中へと上がり込んだ。

 能天気、万歳。



「お邪魔しまーす!」



 入ってすぐ、左手側にトイレ。

 多分、ユニットバスだろう。



 その先にはドアの開かれた意外と広いリビングがあって、その部屋の中にはなんと対面式の立派なキッチンまである。



 ただ、1度も使われた形跡はない。

 まぁ当然か。

 男子の1人暮らしだし。



 後は、木製のテーブルと2人掛けのソファー。

 そしてTV。



 部屋の隅には階段があって、どうやらロフトもあるらしい。



 いつかは1人暮らしがしてみたいあたしにとっては、正に理想的な部屋だった。



 ただ、もの凄く生活感のない部屋だった。



 とにかく、物がない。

 女子みたいにゴチャゴチャと小物を置く事はないにしろ、それにしても何もない。



 テーブルの上にはポツンとスマホが置かれてるだけだし、周囲には脱ぎ散らかした服もない。

 食べ掛けのインスタント食品もペットボトルも、とにかく生活を感じさせる物が何もない。



 というより、むしろ“ニオイ”そのものがない。

 モデルルームの方が、まだリアリティがあるんじゃないだろうかって感じ。



 掃除が行き届いてるというより、スッキリしすぎてやたら居心地が悪い。

 生活をする為の部屋というより、ここから出て行く為に整えられたような部屋。



 こんなにも何もない部屋で、毎日神谷はどんな過ごし方をしてるんだろう。



 そういえば昼食時間には、いつもフラリといなくなっちゃうから神谷が何かを食べてるとこすらあたしは見た事がない。

 この調子だと、まさか1日中何も食べずにいるんじゃないだろうか……



 なんて考えたのは確かだった。



「なぁセーラ。俺に夜ごはん作って」



 でもまさかホントに、それを催促されるとは思わなかった……!



 部屋の中央で立ったままのあたしの横を「俺、今日1日何も食べてないんだよなぁ」なんて言いながら通り過ぎた神谷は、2人掛けソファーの真ん中に腰を下ろした。



 そうやってあたしを見上げながら、やたら潤んだ瞳で縋るような視線を送って来る。



 そんな目で見るのは止めて欲しい。

 ここで断ろうものなら、罪悪感を感じてしまいそう。



「作っても良いけど……材料あるの?」


「うん、さっき適当に買って来た!そこにあるモノ何でも使って」



 言われるままに対面キッチンの向こう側へと回ると、一応許可を取って冷蔵庫の中身を確認する。

 ホントに適当に買って来たらしい食材が、小さな冷蔵庫の中に押し込まれてた。



「オムライスとかなら出来そうだけど、大丈夫?」


「マジで?すげえ嬉しい!」



 何もかもが新品同様のキッチン用具は、使うのも少し躊躇する。



「あの……一応聞くけど、これって昨日神谷が言ってた“交換条件”なんだよね?」



 でもそう訊ねるあたしに、神谷がうんうんと頷くもんだから仕方なかった。



「凄いなぁ。ちゃんと料理出来るんだ」


「簡単な物しか無理だけどね。うちはマ……母が3食バッチリ作ってくれるし」


「ふーん……良い家庭で育ったんだなぁ」


「良い家庭……なのかな」



 料理が出来るのを待ってるだけなんて退屈だろうと思うけど、神谷はスマホを弄るワケでもなければTVを見るワケでもない。

 何故かずっとあたしが料理してる姿を眺めてる。

 何だか嬉しそうに。



「それにしても1日何も食べてないって、どういう事?」


「なんかうっかり。忘れるらしい」


「え、うっかり?」


「うん、うっかり」


「うっかり……食べるのを忘れるの?」


「そう」



 そんな奇妙な事言うし。



 人間の3大欲求の内の1つを、うっかり忘れる事なんてあるんだろうか。

 あたしなんて1食抜いただけでフラフラになっちゃうのに。



「いつもなの?いつもうっかり忘れるの?」


「だからたまにこうして強制的に食べさせないと、いつか死んじゃいそうだからさぁ」


「いやホントだよ。何があっても食事だけは取らなきゃダメだって、うちのマ……母の口癖だよ」


「やっぱ良い家庭だなぁ」



 調味料もすべて新品で、買って来たばかりだというのは容易にわかる。



 って事は、今日までこの家にはなかったって事だ。

 生活臭がないのもその所為だろうか。

 そんなだからフラフラになって教室でいつも寝てるんじゃないんだろうか。



「ねぇ。そんなずっと見られてたら緊張するんだけど」


「そんな意地悪言うんだ」


「うわ、そう来る?学校じゃ寄るな見るな関わるなって言うクセに」


「なぁ?性格悪いよなぁ?」


「って他人事みたいに」


「まぁ許してやってよ」



 ホントに信じられなかった。

 あの神谷と、こんな風に喋ってるなんて。



 ただ、やっぱりちょっと気に掛かる。



 さっきから神谷は、一見自分の事を喋ってるみたいに聞こえるけど、どこか微妙に誰か別の人の事を語ってるようにも聞こえる。



「らしい」とか。

「させる」とか。

「してやって」とか。



 やっぱり目の前のこの神谷は、学校にいる神谷とは別人なんだろうか。



 っていうか、てっきりあたしは学校にいる神谷がホントの神谷だと思い込んでるけど、実際のところはどうなんだろう。



 もしかしたら今、目の前にいる神谷こそがホントの神谷だったりしないんだろうか。



 だったら学校にいる神谷は一体……っていうか、ホントにややこしい上に面倒臭い。

 神谷三昧で頭がおかしくなりそう。



「ちょっと多めに作っておいたから、明日以降も食べられるようにアレンジして冷凍しとく?」


「そんな事まで出来んの?マジ凄いな!」


「意外と料理嫌いじゃないからね。小さい頃は母が料理してるのを眺めてるの好きだった」


「そうなんだ。でも温めるの面倒だから別に良いよ」


「どんだけ面倒臭がりなの!?いつか倒れちゃうよ!」


「だよなぁ?だからこうしてたまに作りに来てくれたら嬉しいんだけど」


「………え」


「ショックだなぁ。そんなイヤそうな顔しないで欲しい」


「や、イヤなワケじゃなくて……」


「んじゃ、何?」


「だ、だって……」


「だって……?」



 実際のところ、ホントに別にイヤじゃない。

 もちろん、学校にいる時の神谷ならイヤだけど。

 今みたいな神谷なら全然イヤじゃない。



 ただ。



「ねぇ、どっちが神谷なの?」


「うん?」


「学校にいる時の神谷と、今の神谷。どっちがホントの神谷?」



 ジッとあたしを見つめる神谷は、一瞬……まるで戸惑うかのようにその目を伏せた。



 その雰囲気に、何だか聞いちゃいけない事を聞いちゃったかのような罪悪感が込み上げて来た……けど。



「―――なぁ。もちろん今日は一緒に夜ご飯食べてくれるんだよな?」


「………え」



 笑いを含んだその口調は、学校にいる時のような何とも憎らしい感じ。



 ただその表情は微笑を浮かべてはいるけど……まるで縋るかのような不安気な感じ。



 そんな神谷を見てたら何故かケルベロスを思い出した。



 あんな大きな身体のクセに、鼻を鳴らして甘えて来るケルベロス。

 切ない声を上げて、あたしを見つめるケルベロス。



 あ、マジでケルベロスかもしれない。

 神谷ってケルベロスに似てるのかもしれない。



 学校にいる時は、誰も寄せ付けようとしない地獄の番犬のケルベロス。

 こうして素敵に豹変する時は、あたしには吠えないケルベロス。



「セーラが帰ると食べないかもしれない」


「う………」


「独りにしたらきっと食べない」


「…………」


「せっかくセーラが作ってくれたのに、絶対食べないに違いない」


「………わかった」



 やっぱりどこか他人事みたいに言う神谷に渋々頷いたあたしは、仕方なくママに夜ご飯はいらないとラインを送った。



 もうあんたの分も作っちゃったわよ、もっと早く言いなさいよと叱られた。



 出来上がったのはオムライスとオニオンスープと、きゅうりとトマトだけのサラダ。



 隣り合わせに座った神谷の右手には、もう油性マーカーペンの跡はなかった。

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