ついのみち
@onsen1982
ついのみち
歩きながら、考えていた。
母と暮らしたことを、後悔はしていない。
あの時、小学生だったわたしは、母の手に触れた。
忘れもしない、あの、小さなお地蔵様の前で。
両親はわたしに判断を委ねたわけではなかったが、その行動が、自分の中にある心の揺らぎの行末であったことは間違いない。
ぎゅっと握られた手を見つめる父の顔を、今でも時折思い出す。
握っているのはわたしだけで、母の手の指が曲げられていないことに、父は気づいていただろうか。
思いが一方通行だったわけではないと、今なら理解できる。
母は、父からわたしを奪うことに罪悪感を覚えていたのだと思う。
母を選ばなくても、わたしはきっと母と暮らすことになったのだろう。
そう思うようにしている。
歩き慣れた桜の並木道を、狭い歩幅で歩く。
この四十年で、一番ゆっくりと。
年々早咲きになるイズヨシノは、毎年入学式には盛りを過ぎる。
満開の誇らしさはないが、ピンクの花と初々しい緑の葉が寄り添う様子は、何だか優しくて微笑ましい。
一年生を担任した時は、決まって「なかよしの葉桜さん」と子どもたちに紹介した。
母と同じ道を歩むことを決めたのは、別に、母に影響されたわけではない。
母はわたしの将来について、少し寂しく感じるほど、何も干渉してこなかった。
だから深く考えることもなく、あっという間に高校三年になり、急に決断を迫られた。
きっかけは、家から通える大学が教育学部だったこと。
教育実習で出会った子どもたちがかわいくて、就職活動に乗り遅れて、何となく採用試験を受けて。
大量採用の時代ではなかったけれど、我ながら真面目な性格ではあった。
「教師はしんどいよ」と言っていた母だが、合格したことをすごく喜んでくれた。
それどころか、何でも聞いてと、どこか得意げだったのを覚えている。
もしかすると母は、わたしに同じ道を歩いてほしいと思っていたのかもしれない。
この道は、本当に自分が選んだ道だったのだろうかと、不安に思いながら始まった教員生活だった。
小学校に英語が導入される時期だったこともあり、中高の英語の免許を持っていたわたしは初任の頃から重宝された。
英語学力を伸ばすことが目的というよりも、言語が違う相手でも積極的にコミュニケーションをとろうとする力を育てたかった。
仕事にやりがいを感じ、教員向けの英語指導力アップ講座にも通った。
講座に参加した教員の中には、海外留学を経験している人もたくさんいて、交流する度に劣等感を覚えた。
悩みを打ち明けた時、「そんなの関係ないよ」と言ってくれたのが、今のパートナーだった。
講座で仲良くなったのを機に距離を縮め、お互いに「頃合いかな」と思うタイミングで結婚した。
子ができ、仕事と子育てとの両立に苦しんだ時期もあった。
親の仮面と、教師の仮面。
どちらもわたしだが、正直に言うと、教師の仮面を被っているわたしの方が好きだった。
教師をしている自分が好きだったというより、子育てをする自分に自信が持てなかったのだ。
家庭から距離を置くことで、自然と、自分の子のことよりクラスの子のことを考える時間の方が長くなった。
我が子が問題を起こして学校から電話がかかってくると、ちゃんと構ってあげられていないからだと、いつも自分を責めた。
仕事を辞めようかと、真剣に考えたこともあった。
学校では、わたしの代わりなんていくらでもいる。
落ち込みがひどくなると、母に電話をした。
そんな時、近くに住む母はすぐに顔を見せに来てくれた。
(おいしいもの食べて、熱いお風呂に入って、ぐっすり寝たらいいよ。)
母の言葉は、いつも温かかった。
同業者だったが、具体的な解決策をくれたことは一度もなかったと思う。
でもそれが、わたしにはうれしかった。
いくつになってもわたしは母の子どもなんだと感じた。
きっと、母はわたしと比べものにならないくらい大変だったろう。
結婚式の時には涙ながらに伝えられた感謝の言葉も、日常の中では恥ずかしくて、面と向かっては伝えられなかった。
母との別れは、何の前触れもなく、突然やってきた。
毎週末に食材を配達してくれる販売員から、母の家で応答がなかったことを知らされ、様子を見に行った時にはもう手遅れだった。
近くに住んでいるし、いつでも会えるからと、必要な時しか顔を見せに行かなかった。
同じ屋根の下で暮らすことを提案すると、「一人のほうが気が楽だから」と、わたしたちに気を遣ってくれた。
電話口で子どものクリスマスプレゼントをお願いしたのが、母との最期の会話になった。
葬儀の日、父の姿を見かけた。
転勤で地元を離れているとばかり思っていたが、帰ってきていたのだ。
父はわたしと目が合うと、少し頭を下げただけで行ってしまった。
後日、「先生には本当にお世話になりました」と、母の教え子と名乗る人たちが何人も訪ねてきてくれた。
母が働いている姿は一度も見たことがなく、どんな教師だったかも知らない。
でも、こうして会いに来てくれる教え子がいるということは、きっと子どもたちに慕われる先生だったのだろう。
母は優しくて、強い人だった。
母のことで数日お休みをもらった時、さすがにクラスのことが心配になって、夕方学校に電話をしたことがあった。
トラブルの多いクラスだったので、大変なことになってやしないかと。
でも、代行で入ってくれた先生から聞いたのは、こんな話だった。
「二組さん、かしこかったですよ、先生のいない時こそがんばるんだって、何でも自分たちで動いて。」
「先生に伝えておくねって言ったら、うれしそうにしてました。」
その報告を聞いた時、何かが吹っ切れたような気がした。
わたしがいなくても、あの子たちの担任は誰かがするし、その方がうまくいくかもしれない。
でも、それでも、自分ができること、自分にしかできないことがきっとある。
母が、そうであったように。
仕事も子育ても全力でやるんだと、固く決意した。
わたしは若い先生たちを集めて、自主研究会をつくった。
月に一度先生たちを家に呼び、英語教育の教材研究や実践報告をした。
子どもと関わる時間が増えたわけではなかったが、家で研究会をするようになってから、不思議と我が子との関係も落ち着いてきた。
参加した先生たちが宿題を見てくれたり、逆に、模擬授業の相手をしてもらったり。
教師としての自分を、やっと子どもに見てもらえた気がした。
家庭と仕事との垣根が消えたように感じた。
仕事に集中することは、家庭を犠牲にすることだと思っていた。
家庭を優先することは、仕事から逃げることだと思っていた。
そうではなかったのだ。
子育てが落ち着いた頃、わたしはキャリアの分岐点に立っていた。
結局、管理職にはならなかった。
教頭になり、遅くまで仕事をしていた母の姿を見ていたから、というのも少しある。
でも、一番の理由は、少しでも長く子どもの近くにいたかったから。
仕事を辞める直前まで、教室にいたかったのだ。
何となくで始めた教員生活だったのに、いつの間にか、一端の教育者になっていた。
パートナーに「管理職試験受けないの」と聞かれたので、「受けない」とだけ答えると、何かを察してそれ以上何も聞かないでいてくれた。
あまり考えたことはなかったが、あの人と一緒だから、ここまで来られたのかもしれない。
明日から、お互いに第二の人生だ。
想像しただけでうんざりした日もあったが、何だか少し楽しみになってきた。
最後の職場が母校だったことは、ただの偶然だった。
中規模で働きやすそうな現場だと思ったけれど、希望を出したことはなかった。
入ってみると、何ということはない。
あの頃の自分は、もういない。
新しい子どもたちとの出会いがあるだけ。
わたしは先日、六年生を卒業させて、教師の仕事を終えた。
大きな花束を抱え、歩き慣れた桜の並木道を、狭い歩幅で歩く。
この四十年で、一番ゆっくりと。
並木道の丁度真ん中、小さなお地蔵様の前を通り過ぎる。
道は、続いていく。
並木道の丁度真ん中、小さなお地蔵様の前を通り過ぎる。
五十年ぶりの懐かしさを噛み締めて。
大きな理想を抱え、満開の桜の並木道を、狭い歩幅で歩く。
どんな新しい世界が、わたしを待っているのだろう。
教育大の先生曰く、コーディネーターの役職はあくまで建前で、二年後には地元初の民間校長になる予定だ。
世間では定年を迎える年に、わたしは、母校の小学校で人権教育コーディネーターとしての人生をスタートさせる。
世界中を周り、周り、周って、ここに戻ってきたのだ。
母校へ赴任することになったのは、必然に思えた。
どこかで元気に暮らしていてほしい。
会えなくてもいい。
今はどこで何をしているのかもわからない。
今思えば、きっと、お金の援助はあったのだろう。
父と暮らし始めてから、一度も連絡をとっていない。
母は、葬儀には現れなかった。
観た、と言っても、父の視線は画面に定まっていなかったけれど。
地元の花火大会のテレビ中継を、病室で二人きりで観た。
父との最期の記憶は、花火大会だった。
わたしが誰だかわかっていないようだったが、大切な誰かだということはわかるようで、帰る時には必ずわたしの手を握り「体に気をつけて」と言ってくれた。
わたしは日本での仕事をメインにし、毎晩父の病院へ行った。
見舞いに来てくれたご近所さんの話では、最近は徘徊が目立っていたらしく、わたしへ連絡をしようと思っていた矢先の出来事だったという。
顔を見てほっとしたのも束の間、数回の言葉のやり取りで、もう父とは普通に会話ができないことを悟った。
家で転倒し、足の骨を折ったらしい。
急いで帰国し、父が入院する病院へ駆けつけた。
父が怪我をしたと知らせが届いたのは、地元の教育大の教授とフィンランドの小学校に視察に行っている最中だった。
そのことをネットで語り、本になり、また講演をした。
確かに、異文化理解という点において、日本は世界より数歩遅れて歩いている印象を受けた。
ある小学校に講演をしに行ったことを皮切りに、学校現場でのお仕事をもらうことが多くなった。
「今の話を本校の児童にしてくださいませんか。」
が、わたしの話を聞き終えた先生たちは、割れんばかりの拍手で応えてくれた。
教員研修の一環だそうで、集まった先生たちはひどく疲れていて、生気を感じなかった。
学校の先生たちが集まる、人権の集い。
講演の仕事をもらうようになったのは、丁度そんな時だった。
活字もいいけど、直接話を聞いてもらうのって、すごく心地良い。
すっかり老け込んだ父は、わたしの土産話をずっと頷きながら聞いてくれた。
本を携えて数年ぶりに帰国した日本では、多様性が謳われていた。
ネットを通じて発信していた旅の記録が出版社の目に留まり、本を出版することになった。
わたしは、自分が知ったことを誰かに伝えたい欲求に囚われ始めた。
好きなことにがむしゃらな時期を過ぎ、ミドルエイジを迎えた頃。
あの時からわたしの興味は、教育に少しずつ傾いていった。
では、今の日本の学校現場は、どうなのだろう。
わたしたちが受けてきた教育とは別物。
先生たちは何もしていないように見えて、巧みにコーディネーターとしての役割に徹していた。
子どもたち自身がそれぞれの興味関心を動機付けにして学習が広がっていく。
何を学びたいか、どう学ぶか、何を学んだか。
教師が教えるのではなく、子どもたちが主体となって授業が進んでいる。
あるインターナショナルスクールに臨時講師として派遣された時、カルチャーショックを受けたことがあった。
一日二十四時間では足りなかった。
初めのうちはすぐに返事を書いていたが、やりたいことが増えるにつれ、父への手紙は後回しになった。
それでも、その他愛のない一通の手紙が届くことで、手紙を書いていない間もずっとわたしのことを考えてくれていることがわかった。
元気にしているか、仕事の調子はどうだ、など、いつも代わり映えのしない内容だった。
もともと寡黙だった父だが、手紙でも言葉数は少なかった。
日本にあまり帰らなくなってからも、年に一度は父から手紙がきた。
でも、どこの国へ行っても、わたしはわたしでいることができた。
どこの国へ行っても、文化が人を作っていた。
わたしは短期の仕事で貯めたお金を使って、世界中を飛び回った。
だからこそ知りたい、もっともっと世界を知りたい。
日本を出たからこそ理解できた日本の良さもある。
決して日本が嫌いになったわけではない。
初めこそホームシックめいたものにかかっていたが、気がつけば、母国に帰るのは年末年始だけになっていた。
人間の適応力には驚かされる。
会う人ごとに、何枚もの仮面を取っ替え引っ替えしていた自分との決別だった。
そしてわたしは、この国では包み隠さずに自分を表現するのだと、固く決意した。
日本という国が、どれほど聞き手中心の文化であったかを痛感した。
察することができなくて非難を浴びるのではなく、伝える側に責任が伴うのだ。
この国では、伝わらなければ相手にしてもらえない。
次の日からその子は、すんなりアロマをやめてくれた。
わたしが、嫌いなのはあなたではなくてアロマだと伝えると、その子はケロッと表情を柔らかくして、I wish you had told me earlier!(早く言ってよ!)と呆れたのだ。
ある日その子が激情して、自分が嫌いなのかと問い詰めてきた。
同室の子がアロマ好きで、その匂いに耐えられなくて、意図的に部屋にいる時間を少なくしたことがあった。
そして、大切なのは、言語の理解よりも文化の理解であることを肌で感じた。
いや、英語力ではなく、コミュニケーション力と言った方が相応しい。
受験英語から抜け出せなかったのは最初の半年くらいで、英語しか通じない環境は、わたしの英語力を見る見る高めてくれた。
高卒からの海外留学には計り知れないほど高いハードルがあったが、何でも早い方がいいというわたしの判断は間違っていなかった。
自分が選んだ道は正しかったのだろうかと、不安に思いながら始まった留学生活だった。
もしかすると父は、わたしの人生を縛っているのではないかと心配していたのかもしれない。
それどころか、どこかほっとしたような表情だったことを覚えている。
わたしの決断に、心配性の父が反対しなかったことは意外だった。
いろいろなシステムの学校、いろいろな性格の友だちに出会ったことで、未知への期待は膨らんでいった。
父の転勤の度に転校していたわたしは、新しい環境に適応することに慣れっこだった。
決め手は、新しい世界を見てみたかったこと。
だからわたしは、否応にもこれからのことを考えるほかなく、あらゆる選択肢を並べて思案した。
父はわたしの将来について、少し鬱陶しく感じるほど、真剣に考えてくれた。
留学することを決めたのは、別に、家を出たかったからではない。
入学式を早めようか、などと、バカげたことを考えてみる。
日本で暮らす子どもたちには、桜の美しさを知ってもらいたい。
早咲きの桜なのか、この様子では、入学式には盛りを過ぎてしまうだろう。
五十年ぶりの懐かしさを噛み締めて。
満開の桜の並木道を、狭い歩幅で歩く。
そう思うことがある。
父を選ばなかったら、わたしは母と暮らすことになったのだろうか。
わたしは、母ではなく父を選んだことに罪悪感を覚えていた。
思いが一方通行だったわけではない。
握っているのは父だけで、わたしの手の指が曲げられていないことに、母は気づいていただろう。
ぎゅっと握られた手を見つめる母の顔を、今でも時折思い出す。
両親はわたしに判断を委ねたわけではなかったが、その行動が、自分の中にある心の揺らぎの行末であったことは間違いない。
忘れもしない、あの、小さなお地蔵様の前で。
あの時、小学生だったわたしは、父の手に触れた。
父と暮らしたことを、後悔はしていない。
歩きながら、考えていた。
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