愛してるって、伝えるために

蓮水 涼

愛してるって、伝えるために


 叶わない恋だとわかっていた。

 それでもいいと思っていた。

 そう、いいと思っていたんだ。

 彼が、彼女が――――幸せなら。



   **



 ブランシュは普通の平民だ。

 ちょっと貧乏で、ちょっと父親がいないだけの、どこにでもいる一般人だ。

 母子おやこ二人でこれまでを生きてきたし、これからもそれは変わらないだろうと思っていた。

 それがまさかの、突然の母の再婚。

 いや、娘のブランシュから見ても母は美しい人である。とても子どもがいるとは思えない美貌は年を重ねても衰えない。ゆえに、母を悪い男から守るのがブランシュの役目だった。

 それが、いつのまに良い人を見つけていたのだろう。

 しかも再婚相手はなんと貴族。伯爵様だ。

 目玉が飛び出るどころか、逆に引っ込んで潰れるかと思ったブランシュである。恐れ多すぎて信じられなかった。

 だというのに。


(キ、キラキラしてる……)


 どうやら本当に相手は貴族だったようだ。ブランシュは、目の前にいる紳士を穴が開くほど見つめた。


「初めまして、ブランシュ。僕が君のお母さんの再婚相手、バジル・オービニエだよ。これからよろしくね」

「よ、よろしく、お願いします」


 オービニエ伯爵は、ブランシュの夢見る貴族そのものだった。

 身なりのいい服、紳士的な態度、流麗な発音。とてもではないが、同じ世界の住人とは思えない。

 急に自分が恥ずかしくなった。これでも一等状態のいいワンピースを着てはいるけれど、伯爵に比べれば何も着ないほうがマシかもしれないと思うほどだ。

 ブランシュは、ワンピースの裾をぎゅっと握った。なぜ母はこんな人を選んだのだろう。貴族との結婚なんて――ましてや子連れでなんて、苦労するのは目に見えているというのに。

 それがわからないほど、頭がお花畑な人でもないはずなのに。


「さあブランシュ、君の兄も紹介しよう」


 そうしてブランシュは、初めて義兄あにと対面したのだった。


   *


「お兄様」

「ん? なんだい、私のかわいいブランシュ」

「そんなことを言って私の機嫌を取ろうとしてもダメですよ、ジョルジュお兄様」


 現在、ブランシュは義兄であるジョルジュの執務室にいた。

 平民からいきなり貴族となったブランシュは、当初はそれはもう大変だった。周りからの白い目。どうせ遺産目当てだろうと母の悪口を囁かれる日々。遺産目当てならもっと年老いたおじいちゃんを選んどるわ! と何度ブランシュが心の中で叫んだことか。

 それ以外にも、マナーやダンス、教養を身につけるための勉強だって、かなり大変だった。

 ブランシュでさえそうだったのだから、実際に結婚した母なんかはもっと大変だっただろう。

 それでも伯爵は母の味方だったし、その息子であるジョルジュも、平民の母子おやこに優しかった。ジョルジュはジョルジュで妹が欲しかったらしく、二人の支えがあったからこそ、ブランシュも、母も、辛い中でも笑ってこられたのだと思う。

 そしてそんな優しい義兄に、世間知らずの義妹は簡単に恋をして。

 見目もよく、紳士的で、いつも柔和な笑みを浮かべる義兄。

 ブランシュいもうとをどろどろに甘やかし、ブランシュが泣けば優しく「どうしたの?」と頭を撫でてくれる義兄。

 そんな義兄は、当然、社交界でも人気で。

 恋をしないほうが無理だった。

 ハニーブロンドの髪を見れば義兄を思い出し。

 ラピスラズリの瞳に映りたくてそわそわする。

 それがたとえ不毛な恋と解っていても、目で追わずにはいられない。


「お兄様、またご令嬢のお誘いを断ったそうですね?」

「仕方ないよ。彼女はブランシュのことを侮辱した。そんな女性を婚約者には迎えたくないからね」


 ブランシュは、あえて大袈裟にため息をついた。


「どうしてお兄様はそう……。あのですね、いつも言ってますが、私のことなど言わせておけばいいのです。実際、平民だったのは事実です」

「でも今は貴族だ」

「それでも、血は流れていません」

「たとえ血が流れていないとしても、私は君より立派な淑女レディを知らない。君がこれまでどれほど努力してくれたのか、私や父は知っている。それを生まれだけで侮辱する人間なんて、付き合っても利益になるとは思えないよ」


 ブランシュはもう一度ため息をいた。

 優しい義兄はいつもこうだ。ブランシュたち親子を庇ってくれるのは嬉しいが――本当に飛び上がるほど嬉しいのだが――それではジョルジュの評判が下がってしまう。ブランシュはそれが許せなかった。


「お願いです、お兄様。私はお兄様が悪く言われるほうが我慢なりません。お兄様は優しすぎるのです」

「ブランシュ……」


 ジョルジュが座っていた椅子から立ち上がる。

 ブランシュの目の前で立ち止まると、彼は俯いたブランシュの顔を上に向かせた。優しく頬を包む手は温かい。この温もりに、ブランシュはいつまで甘えていられるだろう。


「そんな悲しい顔をしないで、ブランシュ。私は君が思うほど優しくはないよ。非情にもなれる人間だ。でもそうだね。君がそう思ってくれるのは、私が君にだけは嫌われたくないと思っているからだろうね」

「お兄様……?」


 まぶたの上に、ちゅ、と優しいキスが落とされる。家族に対する親愛のキスだ。

 ジョルジュはよくブランシュにキスをする。それがブランシュの心を大いに乱しているだなんて、この義兄はきっと気づかない。

 なぜなら彼は、ブランシュを本当に〝妹〟としてしか見ていないから。


「ブランシュ。君の言いたいこともわかっているよ。父上はもう引退したいと言っているから、もうすぐ私がこの家の当主になる。その前に婚約者くらい見つけろと言いたいのだろう?」

「……そうです。貴族の当主ともなれば、独身では苦労します。私は、お兄様には幸せになってもらいたいのです」

「それは私だって同じだ。私も、ブランシュには幸せになってほしいと思っている」


 ブランシュは曖昧に微笑んだ。

 ブランシュが幸せになることは、たぶんもうない。すでに幸せを知ってしまっているからだ。

 ブランシュの幸せは、ジョルジュのそばにこそある。ジョルジュが婚約者を見つけたその時から、ブランシュの幸せは失われていく一方だろう。


(それでも、お兄様が幸せなら……)


 ジョルジュが幸せなら、まだ救われる。ジョルジュが笑っていてくれるのなら、自分の不幸など喜んで受け入れよう。何よりも愛しい人だから。誰よりも幸せになってほしいのだ。

 

「かわいい私のブランシュ。君の幸せは、いったいどこにある?」


 だから、口癖のように訊ねられるこの質問に、ブランシュはいつもどおりの嘘をつく。


「お兄様が幸せな家庭を築いてくれることですわ」

「君はいつもそればかりだね」


 ジョルジュが苦笑する。確かにそうだ。ブランシュは、いつもこの決まり文句で返していた。

 そして義兄の「でも私は、君が結婚するまで結婚はしないよ」までがテンプレートだ。


「でも私は、ブランシュが結婚するまで、自分が結婚するつもりはないよ」

「……ええ。お兄様も、いつもそう仰いますね。ですから私、お父様にお願いしてきたんです」


 テンプレートとは違う展開に、ジョルジュの眉根がぴくりと動く。

 いい加減日常テンプレートから抜け出さなくては、いつまでたってもジョルジュは幸せにならない。

 いつまでたっても、ブランシュはこののろいから解き放たれない。

 だから、胸の痛みを押して行動した。


「父上に、何をお願いしたの?」


 心なしか義兄の声に慎重さが混じったように思う。自分の婚約者を勝手に見繕われたと誤解しているのだろうか。それならば、誤解はすぐに解けるだろう。

 なぜなら、ブランシュがお願いしたのは……。


「お父様には、私の婚約者を決めていただくようにお願いしました。カバラスティ男爵の嫡男、レオン様が候補のようです。ですから」

「聞いてない!」


 突然、義兄が声を荒らげた。

 いつも穏やかなジョルジュにしては珍しい、苛立ちの孕む声音だった。


「私は聞いてないよ、ブランシュ。君に婚約者だって?」

「はい。だってお兄様は、私が結婚したら結婚するのでしょう? だったらもうこうするしかないのです」

「君の婚約者は、私が吟味に吟味を重ねて選ぶつもりだった。カバラスティ男爵の息子は確かに評判の良い方だ。でも彼は私と同じ年齢だろう。そんなの許せない」


 ブランシュは目を瞠った。

 どうして義兄と同じ年齢だと駄目なのだろう。しかも、許せないだなんて。


「あの、お兄様? どうしてお兄様と同じ年齢だと駄目なのです?」

「それだけが理由じゃない。彼とは同じ学園に通っていたから、成績がいつも上位にあることも、それなりに人望があったことも知っている。一緒に生徒会だって運営していた。――だから、許せない」


 ブランシュはますます首を傾げたくなった。

 聞いていると、レオンという婚約者候補はむしろブランシュにはもったいないくらいの相手のように思われるが。


「君の婚約者には、私より優秀で、腕が立って、優しくて、ブランシュのことを真に愛してくれる男でないと許さない」

「そんな……私はそこまで求めてません。お兄様のお力になれるなら、どんな方でも」

「いいはずがないだろう。それでは君が幸せになれない。私は……私は、君に幸せになってほしい。私が君を手放すことを諦められるような、私では到底敵わないと思うような男と、幸せになってほしいんだ。だからレオンでは駄目だ。諦められない。なぜ私と似た条件の男に君を渡さなければならないの? そんなの許せるはずがないだろう。私が、こんなに君を手に入れたくても、手に入れられないのに。それなのに、私と同程度の能力を持つ男が、君を簡単に手に入れられるなんて許せない……!」


 それはもはや愛の告白だった。

 義兄が悲痛な表情かおをしているのに、申し訳ないと思いつつも仄暗い喜びを覚えてしまっている自分がいる。


「幸せになって。私が諦められるような男と。お願いだよ、ブランシュ……」


 それはまるで、幸せにならないでと言われているようだった。

 自分ジョルジュ以外の男と、幸せにならないでと。

 義兄が学園を首席で卒業したことも、今はその有能な頭脳で活躍していることも知っているブランシュには、そうとしか聞こえなかった。

 苦痛に耐えるように眉根をきゅっと寄せる義兄を、ブランシュは正面から抱きしめた。


「わかりました、お兄様。まだ先方にはお話を入れていませんから、お父様には私からなかったことにしてもらえるよう伝えておきます」

「……本当に?」

「はい」


 ジョルジュの手が背中に回る。

 こういうときの義兄の腕は、いつも離したくないと言わんばかりの力強さがある。

 いや、腕だけでなく、全身でブランシュを感じようとするように抱きしめてくる。何よりも好きで、幸せな時間だ。


「愛しているよ、ブランシュ」

「ええ、私も。愛してます、お兄様」


 この〝愛〟に名前がつかないことを、切に願う。

 だって名前さえつかなければ、二人はずっと一緒にいられるのだから。

 名前さえつけなければ、「愛している」と伝えることも、伝えてもらうこともできるのだから。




【愛してるって、伝えるために】




 今日も明日も、二人は見て見ぬふりをする。



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