吊り橋効果、上等

如月紫苑

第1話

 本当にロクでもない生き方をしてきた。

 ぶっちゃけ、自分で言うのもなんだが、俺はクズだ。

 下半身と頭が緩いけど友人は多い方だと思う。何も考えないで馬鹿やって一緒に時間を潰して。今時真面目に頑張る方が損をする。

 親もロクデナシだった。

「お前は何もできないクズだ」

「さすがクズのガキもクズよね」

「お前もあのビッチのクソガキだな」

 罵り合う親の生き様を冷めた目で見てきたら真面目に生きるのが馬鹿らしくって考えるのを止めた。褒められようと頑張っても、罵られる。悪い事しても、罵られる。だったら無駄な抵抗はしない方が楽でいい。結局学校は途中で行かなくなった。行っても行かなくても生活は変わらないと悟ったからだ。最後に両親と会ったのは、もう何年前だろう。このまま死ぬまで会わなくとも、もういい。何も期待しない。期待もされていないだろうし。

 友人達も皆同じような家庭事情で同じように生きてきた。何も考えないでいられるそんな関係性。深く悩まないで済む。何も望まなければ、何にも傷付かないでいられる。誰かがいなくなれば、別の似たような奴が代わりにその席を埋める。女も同じ。声をかけるのもかけられるのも好きだ。セックスも気持ちいい。そして事後の体温。あれは凄く好き。誰かといると安心する。

 全部どうでもよくなって気軽に生きてきた。『普通』の生活を手に入れた所で何かが違ってくるとは思えない。俺みたいな奴にちゃんとした女が見向きをする筈もない。だから仕事も女も長続きはしない。友人達から適当な仕事を紹介して貰い、暫くはそれで食い繋ぐ。住む場所なんて日に日に変わったり、誰かの部屋の一角だったり、女の所に転がり込んだり。荷物も大してないから困る事はなかった。重要な書類や物は車に置きっぱなしにしている。こんな生活が一番性に合っている。面倒事になったら適当に車に乗って別の街に流れて行く。そうすれば無駄な労力も使わないで済む。新しい街でもいつの間にか同じような友人も女も仕事もまたいる、ある。

 誰でも、俺も、替えが効く。

 面倒になっては流れ、そしてまた流れて。

 家を飛び出てから、もう何度目の引っ越しをしたのだろうか。特にやりたいと思うような事もない。これから先の事なんてどうにでもなる。だから仕事は最低限で。女遊びは上手くやったら金を貰えるし、一夜限りの関係でも暇潰しになる。体もスッキリする。別に誰でもいい。そこまで真剣に誰かに恋した記憶もない。軽い方が後腐れなくていい。そんな関係性で満足をする。

 とっても、シンプルな生き方。

 気付けば俺ももうそれなりの年齢になっていた。それなりに楽しけりゃ、困らない。それなりの、生活。

「おらぁぁぁああ!」

 頬に重い拳がめり込む。首がメリッと小さな音を立て、右に吹っ飛んでいく。口から唾が飛び散り、舌を噛み切りそうになる。

――――痛ぇぇぇぇぇぇ!

 先日引っ掛けた女が悪かった。別に恋人にしたいとかではなく、本当にただ単に簡単にやれそうな雰囲気に反応した。顔も体も悪くなかったしお金も持っていそうだった。クラブで何度か目が合った。俺が笑顔を向けたら、笑顔が返ってきた。だから声をかけた。いつものように簡単なゲーム。落とすのに殆ど時間がかからなかった。女も男目的でそこにいたのだろう。奢ったカクテルを半分飲んだ頃にはクラブで唾液を交換する濃厚なキスが出来るぐらいの労力。そのまま使い古した甘い言葉を優しく囁き続けて自分の寝床に連れ込んだ。

 でも自分の部屋に連れ込んだのは、本当にまずかった。

 その翌日の今、こいつらがここにいる。

「めんどくせー」

 口の中が切れて唾液混じりの血が呼吸と一緒にだらだらと垂れ続ける。つい口から本音が出てしまう。

グゴッ

 すかさず腹に革靴がずぶりとめり込む。爆発したような圧迫感で体から空気が飛び出し、体がくの字に折れ曲がる。

 瞬時に顎に拳が入って頭が上に跳ね上がり、目の前を花火が飛び交う。奥歯がガンッと衝突し合って息が止まる。喉に血が詰まって呼吸がままならない。

 無意識に腹を庇って丸まった。

 喉がヒューヒュー空気を貪っていてまともに息が出来ず、目の奥で光が次々と弾けて真っ赤になる。体が熱い。狭い視界にいかにもな雰囲気の鰐柄の靴が入ってくる。

 太い指が俺の髪の毛を鷲掴みにして強制的に上を向かせる。革靴から視線が外れる。

「五十万だ。三日以内に持って来い」

 不細工だけど、絶対に逆らえない雰囲気のヤクザが顔を近付けてねっとりとした声で凄む。タバコとミントの匂いが混じった臭い口臭が鼻に付き、妙に白い綺麗な歯並びでにたぁと笑う。まだ光が飛び交う目の前にあるやたらと剛毛そうな顎髭が気になる。その中の一本の白髪が目に留まってしょうがない。

 俺は逆らわずにズルズルと地面に滑り落ちる。

 口臭野郎は派手過ぎる柄のスーツを着ていて後ろに似たような派手なシャツを着て睨みを利かせている二人のチンピラを侍らせている。髪型をシャッフルしたら絶対に名前を間違える自信があるぐらい、どいつも同じ顔をしている。もっともこれ以上お近付きにはなるのはごめんだが。

 口臭野郎がまた俺の腹を蹴り上げる。

「ぅぐ!」

 呼吸が詰まって一気に噴き出た吐しゃ物が鼻からも垂れ出る。喉の奥からツーンと強い胃酸の刺激がして反射的に涙が出てくる。相変わらず喉がヒューヒュー音を立てている。口から垂れ流しの涎と血と吐しゃ物がゆっくりと顔の下に溜まっていく。無意識にお腹を庇いながら片手で頭を抱える。

 まるで虫けらを見るような視線を外し、ヤクザが部屋から出て行く。取り巻きの一人が俺の部屋の畳に唾を吐き捨ててもう一人と下卑た笑いを上げながらついて行く。

「色男じゃなくってゲロ男だな」

「ゲロ男ぉ、三日以内だぞぉ」

――――……クソが

 口の端から垂れ流れる血の泡交じりの涎がやっと止まる。

 口の中が痛い。鼻が痛い。顔面が痛い。腹が痛い。

――――あー……でもチンコが無事でよかった

「あー……痛ぇ」

 呼吸が整う頃にはアドレナリンが切れてもっと痛くなってきた。

――――勘弁してくれ。悪いのは大股広げてアンアンしていたビッチだろうが。こっちは不可抗力な被害者だ

 床に寝転がったまま煙草を咥えてゆらゆらと立ち上がる煙をボケっとした目で追う。吸い込むと煙草の火がチリチリと音を立てる。

「五十万ねぇよ」

 溜息が出る。腹部の痛みで浅い呼吸しかできない。

「クソだりぃ。……ビッチに一発五十万……」

 脈打つ様な鈍痛がする顎に顔を顰め、また溜息をする。

 まぁ、ここはやっぱり。

「払うかよ」

 煙草を自分の血と涎溜まりに押し付けて消し、壁を支えにして立ち上がる。もう一度胃液が込み上げてくるのを何とか飲み込む。

 思い立ったが吉日。適当な物をバッグに詰めて車に放り込む。こういう時は身軽な事に感謝だな。

――――確か明後日が給与日。働いた分はちゃんと貰いたい。次職にありつけるのがいつになるのか分からないのならば尚更資金は必要だ。現金払いじゃなければ今すぐにでも出られたけどな。取り敢えず明後日まで大人しくして、それから逃げればいい

 簡単にシャワーで顔を洗う。口に指を突っ込んで軽く確認してみると、幸運な事に歯には影響がなさそうだ。嚙んだ頬の皮膚が捲れてぶら下がっているのを引き千切る。

 部屋と車を行ったり来たりしている間、同じアパートのおばちゃん方が階段で半分隠れるようにヒソヒソと話をしているのが見える。そして聞こえてくる。

「――――……最近の若い人達って、ほら、ねぇ……――――」

「――――……ちゃんとした定職にも就かないで……――――」

「――――……派手な服装の女性達が……――――」

「――――……毎日毎日……――――」

「――――……物騒……――――」

「――――……親の顔が……――――」

 流石に最後の台詞は苛付いたので振り返る。びくっと肩を震わせる二人にとっておきの笑顔を向ける。ちりっと怪我した皮膚が引き攣って痛い。

「どぉぉぉも、煩くしていて、すみませんねぇ。いやぁ、まだまだ青二才なんで世間の渡り方をまだ探索中でして。枯れる前に遺伝子が合うパートナーを見付けようと躍起なんですわ。やっぱし抜群に合う相性かどうかは試してみないと分からないって言うじゃないですかぁ。竿と穴が合わなくって将来萎れちゃうのも嫌ですし」

 にっこりと、笑顔、笑顔。おばちゃん達の顔が俺の顔よりも変色していくのは中々面白い。大振りなジェスチャーで腕を広げて肩を竦める。

「奥様方はいいですねぇ。結婚したいぐらい体が合うパートナーを見付けられて。夜の心配もないし、ウラヤマです。俺も早くそんな人見付けたいですねぇ」

 とっておきのスペシャル笑顔でウィンク。語尾にハートでもくっつける様にノリッノリで話しながら歩み寄る。二人は真っ赤になりながら目を合わせず、そそくさと逃げて行く。ドアが煩く閉まる。

――――自分に直接害がないと思う時だけ悪口を言うのか。てめぇらに迷惑かけてねぇだろが

 だけどあの気まずい表情には多少すっきり出来た。これで暫く感心しねぇ出歯亀を引っ込めていりゃいいのだが。

――――でも考えてみれば痣だらけの笑顔じゃちょっとあれか。俺、もしかしてじゃなくめちゃくちゃ不審者じゃね?

 ちょっと笑ってしまう。顎がまだ痛い。腹の方も若干変な色になり始めている。やけに体が怠く重く感じる。

 この街を出るのなら最後にまた海が見たい。それが気に入ってここに半年も住んでいたのだから。

 冷蔵庫に入っていたビール、日本酒の小瓶、貰い物のジャックダニエル、缶も全部持って行こうか。もうこの部屋に戻るつもりはない。正直今は誰とも会いたくないし、最後に会いたいと思うような友人もいない。

 全部が酷く面倒に感じる。



    ◇

 くたびれた愛車で海岸沿いに出る。腹では鋭い痛みが続いている。窓からの風が絶えずする頭痛を紛わらせてくれる。

――――……あのミント口臭豚野郎

 ふと左に細い横道が見える。周りの木が生い茂っていて舗装もされていない、普段気付かないような道。入ってすぐに少し空けた草だらけの駐車場で車を停める。何もない暑い空気に乗って潮の涼し気な音が聞こえる。

 暫く夕暮れを眺めながら飲んでいると地平線から満月に近い月が登ってくるのが見え始める。明日辺りは欠けのない月が見えるのだろうか。

「今夜も月が綺麗ですね」

――――確か回りくどい言い方で「愛している」だっけ? 昔は今よりもセックスが元凶で色々大変だっただろうな。そういえばクソババアも夏目漱石が大好きだった。親父とするする言っていた離婚はもうしたのだろうか

缶タブを開けて勢いよく一気に飲み干す。痛みが少し紛れる気はするが、それは多分俺の願望なだけかもしれない。

 駐車場から波の音の方向に向かって歩いてみる。大きな岩が所々転がり、長く放置された枯れ木が重なり合って小さな虫が表面を走り回る。濃厚な磯の香りが肌に絡み付いてくる。

 磯の香りを酒の盃にして急ピッチで次々と缶を開けていく。持っていたスーパーの袋がガサガサと煩い。

 少しふら付きながら浜辺と生い茂った雑草の境目を当てもなく歩く。むわっとした暑さでシャツが気持ち悪く湿気って体に纏わり付き、口の中の傷がピリリッと痛んで思わず顰め面になる。

 ただでさえ高めの体温なのに、暑い。

「あ?」

 やたらと背の高い雑草の後ろで一瞬何かが光る。俺は好奇心に任せてそちらに足を向ける。

――――まるでジャングルだな

 何枚か鋭い葉がシャツから露出している肌を引っ掻き、怪我でやたらと敏感な肌がぴくぴくと痙攣する。時折顔に張り付く蜘蛛の巣を払う。酔っぱらっていなければ多分来なかったであろう山道を歩いていく。

 それは空へと崩れ上がっていく石の山にも見えた。大きな物を下にして徐々に小さな物が上に重ねて置いてある。それが幾つも幾つも積み重なり、車二台分ぐらいの面積を埋め尽くしている。端には年季の入った四角い縦長で墓標によく似たものが立っている。表面の文字は風化していて読めない。石碑の麓には大き目の熟れた桃と半分入った一升瓶が供えられている。

キュポン

 いい音を立てながら蓋を抜き、石碑の麓の石に日本酒を軽くかけ流す。緩かった土や汚れが少し流れ、何年も前に石に焼き付いたような枯れ葉も軽く指で撫で落とす。袋に放り込んでいた缶コーヒーをその石山のお供え物の横に供えて軽く手を合わせる。

「これでちょっとは俺を助けてくれよ」

――――やっすい願掛けだな

 もはや神頼みも良いところだと自虐的に笑ってしまう。いつだって俺も周りもクズ。助けてくれるような友達なんていた事はなかったし、ガキの頃は大人も皆見て見ぬ振り。

 でも今は。

 俺もクソみたいな大人になったな。親父の大きな拳で滅多打ちにされる痛みと耳の奥で笑っている母の幻聴が聞こえる。だせぇ。

――――まともな奴なんか、いやしねぇ

 その日本酒を一口煽る。口の中が痛い。一匹だけ聞こえてくる蝉の声に何故か妙に苛つく。

 運が悪い。本当に、いつも運がないな。

 口に込み上がってきた反吐を吐き出す。

 運というか、自分の業か。

――――何もかも、嫌いだ

 石山を背に後ろ振り向いた時、足がもつれてしまった。暗くって雑草の根元に絡まった石が見えなかった。

 最後に覚えていたのは迫りくる地面に毒づいていた事だ。



   ◇

「うぇ」

 嫌な汗と目に見えない虫が全身を舐めまわしているような気持ち悪さで跳ね起きる。さっき酔っぱらって転んだ時とっさに顔は庇ったものの、そのまま短時間意識が飛んでしまっていたらしい。地平線にいた肥えた月が真上を通過したところだ。腕に出来た擦り傷が見なくとも弱い痛みを発していて己の存在を出張する。

「気持ち悪ぃ暑さ……」

 心臓がまだ煩い。

 この面倒な一件が始まってから、時間がとても長いような永遠に終わらない程ゆっくりと流れているような感じがする。そういえば朝からあんな感じで今日はまだ抜いていない。昨日の夜はあの女と一緒だったか。時間が随分過ぎたように感じるのにまだ一日も経っていない。腹が痛い。

――――暫く上で腰振れないだろうなぁ

 自分の半立ち見て溜息を付く。なんで人間ってこう怖い目やアドレナリンの後に性欲が上がるんだろうか。

――――あー……まぁ、誰もいねぇし、いいっか

 ジィィィっとチャックを下げて期待に立ち上がった物を引っ張り出す。扱き始めるとすぐに息が上がってくる。

ヌチュ

 酔っぱらっている頭の中で自分の息継ぎが熱く響く。汚さないようシャツの裾を口に、左手を後ろに回して上半身を支える。変色が進んでいる腹が赤黒くうねる。汗が胸筋を滑り落ちていく。

 右親指で亀頭を引っ掻くようにして扱く。先から少し滲み出た物が指を濡らしていく。

 風なんか吹いていないのに周りの葉が、枝が、聞こえる。夜なのに煩い蝉が一匹遠くで鳴いている。さっき転んだ時に脱げたサンダルを横目に踵を撫でる草の感覚を楽しむ。少しこそばゆいような、引っ掛って痛むような。胸を伝う汗が少し擽ったい。周りで虫が飛んでいるのか小動物がいるのか、草が揺れ動く。

ジリジリジリ ジリ

 虫が肌の上を這うような不快な感じが股間に響く。気持ち悪いような、でも全身を快楽に蝕まれるような感じに目を閉じて気持ち良さを貪る。息が上がって手の動きが自然と速くなってくる。霧がかかってはっきりしない頭の中を濃厚な磯と草の香りが支配する。

ヌチュッ ヌチュッ

 こめかみ辺りがぴくぴくと痙攣する。

「……っ」

ドクッ ……ビュルッ ビュルルル

 濃い精子が前の地面に飛び散る。暗い夜にそれだけがやたら白く栄える。

 噛んでいたシャツを離して満足げに長い溜息を吐く。

「はぁ……、罰当たりだよな」

 いつの間にか石碑に背を預けていたらしい。立ち上がって身なりを整え、石碑に「ゴメンナサイ」と頭を下げる。ついでに端の方で崩れた石を積み重ねる。

――――セックス依存もここまでくると考えもんだな

 月が高く昇って来た時より更に明るい。先ほど搔き分けて進んできた獣道を戻る。途中で気付かなかった分岐を進んでみると徐々に木が減り、立ち上がっている雑草も短くなってきたと思った瞬間。

――――海だ

 一気に開けた視界に、とても静かで綺麗な海が映る。風が弱く、月の明かりで波の上が輝く。宝石の輝きか、はたまた0と1で出来たコンピューターの暗号かのように光を絶えず弾き散らしながらゆっくりと水面が変化していく。岩礁が疎らにあり、低めの断崖が左右で海を囲い込んでいる。

 気持ち良さそうな水面に引き寄せられてサンダルのまま水の中に足を踏み入れる。

ザーザザザー ザァァァァァ

 足の指の間の砂や小石が気持ち良く引き潮と共に海の方へと流れる。

 とても静かな穏やかさ。虫の声も遅い時間になりここでは聞こえない。波の畝りと小石が互いにぶつかり合って澄んだ音だけの世界。

――――……世の中はこんなに平穏なのにな

 途端。

 視界の端で断崖から、何かが、水面に落ちるのが見える。

「――――え?」

ザ……ボン

 何かが水に落ちる重たい音と、岩礁に向かって走り出すのが同時だった。

 足がもつれて早く前に進めない。

 早く!

 サンダルが石の裂け目に引っ掛る。砂では足が体重でズブズブと沈んでいく。岩礁は滑っていて足が滑りもつれる。

 海に飛び込む。

 熱い体をヒンヤリとした波が強く押し返す。前に進むのを拒まれる。岩礁辺りの海は焦りが出るぐらい変化なく波が蠢く。

 波の音以外は何も聞こえない。静か過ぎる。

 何もいない。

 誰もいない。

 膝がすぐ横の硬い岩にぶつかる。ガリッと皮膚の表面が剥ける。どこだ!

ザボン!

 潜る。

 また潜る。

 そして、また潜る。

 何もいない。

――――クソ!

 何回も水面に出てはすぐに潜る。焦燥感に水の中で激しく腕を回して探す。岩礁に何度も腕や足がぶつかる。

――――絶対に、人が落ちた!

 そんなに深くはない。潜ればすぐに海底に手が着く。でも岩礁が影になって何も見えない。

 また息を止めて下まで潜る。

 真っ暗な海は何も見えない。

ゴボゴボゴボ…… 

 耳が塞がる。海藻が体に絡み付く。何も見えない世界。一生懸命広げて伸ばした指先が、肌に触れる。

 それはとても冷たく、重い。

 咄嗟にそれを掴んで引き上げる。顔が水面を割って一気に息を吸うのと男の頭を引き上げるのが同時だった。

「おい! 大丈夫か!」

 首がダランと力の抜けた男を無理矢理浜へと引っ張りあげる。頭をぶつけたのか、血がこめかみから滲んで暗い砂へと吸い込まれる。意識がない身体は重く、大きく、無理矢理岩の上を引き摺って行く。張り付いた黒髪の下で蒼ざめた瞼や唇がきつく閉じられている。

「おい! 聞こえるか⁉ おい!」

 頬を何度か強く叩く。鼻の下に手を翳して呼吸をしているかどうかを確認する。何も感じない。俺は急いで海水を含んで重たそうなシャツの胸元に耳を押し付ける。自分の荒れた呼吸しか聞こえず焦燥感が増す。うろ覚えの心臓マッサージをし始める。

――――反応がねぇ!

 二本指で顎を引き上げて唇を重ねた。冷たくって動かない。

 思いっきり息を吹き込み、心臓マッサージを始める。


一! 二! 三! 四! 五! 六! 七! 八! 九! 十!


 両手を重ねて力を込めて押す。十でまた急いで唇を重ねる。息を吹き込む。

 まだ反応がない。

 俺のか彼のか、どちらのか分からない血の味がする。俺は自分の焦りに促されてまた強く心臓マッサージを繰り返す。


一! 二! 三! 四! 五! 六! 七! 八! 九! 十!


 その冷たい口に息を吹き込む。急いで唇を重ねた前歯がカツンと当たり軽い振動が伝わる。再度肺活量が許す限り息を吹き込む。シューと空気が彼の体内に流れ込む音がする。

「クソ!」

 右拳を振り上げて強く彼の胸の上に降り下す。

 水がゴボゴボ激しく湧き上がる音と共に黒っぽい水が男の口から一気に噴き出て顔を濡らす。血と砂が流れて精鍛な顔が現れる。首がカクンと後ろに折れる。急いで顔を横向きにして気道の中の水も吐かせる。

「おい! 聞こえるか! おい!」

 今度は軽めに男の顔を叩く。

「……ぐ」

「目を開けろ!」

 ゴボッゴボッとまた小さく水を何度か吐き出し、男の体が小さく跳ねる。くぐもった声がして男の瞼が開く。

――――綺麗な目

 これが第一印象だ。

 珍しい、灰色の虹彩。とても透明で、夜の海みたいな色合いで引き込まれる。

「救急車呼ぶから待っていろ!」

 頭を抱えながら携帯をびちゃびちゃになったジーンズの後ろポケットから取り出して振る。水滴や小石が飛び散る。慌てて上手く掴めずに携帯が滑って飛んでいきそうになる。

「……だ」

 飲み込んでしまった水を男が激しく咳き込みながら吐き出す。まだ口の端から少量の水が溢れ出る。男は冷たい手で俺の携帯を持つ手を抑える。目はまだ虚ろだが少しずつ焦点が合ってきた気がする。

「で、んわ、……だ」

 ちょっと低めの、掠れた声だ。苦痛に顔を歪ませながらも頭を左右に振る。

「お前、溺れたんだぞ⁉ 頭も打っている」

 男は自分のこめかみに触れ、赤く濡れた指先を見る。また濡れた部分に血が滲む。海水で濡れた左目の横を血が染め広がる。

「大……丈、夫。頼む」

 俺は荒々しく男の短い前髪をかき上げる。

「……っ!」

 痛むのか男はまた顔を顰める。ちょうどこめかみ添いに四センチぐらいの傷になるだろうか。俺は掌を思いっきり押し付ける。

「……っ」

 強めに止血をしている俺の手に彼の手が重なる。無意識に俺の手を剥ぎ取ろうとしているのか、一緒に止血しようとしているのか、曖昧な手の位置だ。かなり沁みるのか目をきつく閉じて眉間に皺を寄せている。

「綺麗じゃねぇけど、他に止血する物ねぇからこれで我慢な」

 男は眉間に皺を刻んだまま微かに頷く。また深く咳き込む。

「病院は? 引き上げた時、お前の心臓止まっていたぞ。これも診て貰った方が良い」

 今度もまた頭を振る。目を開けて俺を見上げる。

「……大丈夫だ」

 顔色がまだ青白いが少し唇に赤みが差してきた気がする。

「あんた……が、蘇生したのか?」

「あぁ」

 声は酷く掠れている。海水で結構喉が荒れてしまったのかもしれない。俺をじっと見上げる顔は落ち着いている。

――――綺麗な目だよなぁ。でも無表情過ぎて、なんか人形みてぇ

「ちょっと待っていろ」

 止血を変わって貰い、慌てて周りを見回す。いつの間にか放り出した袋が随分と離れた場所で転がっている。中身は散らばっているが幸運にも波に攫われる前だ。

 俺はジャックダニエルを取りに走って蓋を開ける。男の手を退かして見てみるとまだ完全には止血していないが確かに慌てる程ではなさそうな傷だ。頭はいつだって小さな怪我でも出血が多い。

 生々しい傷にゆっくりとウィスキーを垂らす。かなり沁みるのか男は目をきつく閉じて歯を食いしばっている。顎の筋肉が動く。携帯で照らすと傷口にまだ砂が少し入っている気がする。傷に指を軽く這わせ、砂を転がし流す。ついでに残った液体で付近の髪の砂も少し流す。

「ちょっとはマシになったけど、これ、マジで消毒ぐらいはした方が良いぞ」

 顔を傷に近付けていた為、直ぐ近くで目が合う。瞬きもしないで俺を見つめ返す。人工光で灰色の虹彩が薄っすらと緑掛かって見える。夜のせいなのか、アドレナリンが垂れ流しになっているせいなのか、瞳孔が開いている。

 ふいに彼の目からツーと一筋の涙が頬骨を伝って耳の方へと流れる。びくっとして彼は顔を酷く辛そうに歪める。俺は前の海に視線を移し、黙って手で震える彼の目を覆う。

「……っ」

 熱い涙が次から次へと溢れてきては下の砂に消えていく。堪えた声が空気を引き裂いて俺の耳に届く。

 目で黒い海の波を追う。静かな、とても静かな夜だ。先程海の中で怪我した場所がチリチリと痛む。



    ◇

 暫く静かに泣いて男は落ち着いたのか、俺の腕に触れる。黙って手を退かし、彼に目を向ける。目が合う。彼の目元が微かに赤くなって腫れている。先程の強いお酒の匂いに交じってふわっと良い香りがする。

――――これ、体臭か? なんか、白檀みたいな感じの、深い、良い香り。下半身にくるような

 ……何考えているんだ。

 ハッとして俺は男から離れて軽く頭を振る。やっと焦っていた気持ちも落ち着いてきて一息付く。俺もアドレナリンで変な影響を受けているのか。

「……ありがとう」

 男はまだ横になっているがもう意識ははっきりしたみたいだ。やはり声は掠れている。

 俺は袋の残りを拾ってきて隣に座わる。海はとても大人しく穏やかな黒い影をしている。砂と海水でベタベタになった全身の不快感を拭うようにビールのタブを開ける。ちらりと男の足元を見ると気になっていた靴は履いている。

 自殺?

 事故?

 どちらにしても死にかけた、というか実際に死んでいた、男に勧める物じゃねぇよなぁと思いながらも男に一本渡す。他に何もないからしょうがない。目礼をして男は上半身を起こす。

 シャツが体に張り付いている。結構しっかりとした体付きでそれなりに身長がある俺よりも更に高そう。砂が筋肉で盛り上がった背中一面を汚している。シャツから伸びている両腕も筋張っている。火事場の馬鹿力とはこういう事か。よく海から引きずり出せたなと思う。さっき濡らしたままの黒い前髪がそのまま後ろに流れていて彫りの深い精悍な顔が良く見える。ビールを開ける指は長くって力強い。一口飲んでまた咳き込んでいる。痛そうに顔を歪める。

 波が静かに石や岩に打ち上がる。

 暫く休んで喉の痛みがマシになったのか、男は『明音あかね』と名乗った。

「何と言ってお礼をすれば良いのか」

 さっきの掠れ声は海水の影響だったのだろうか、それでも妙に艶っぽいハスキーな声がする。

 とても静かで落ち着いた大人の男の雰囲気で彼は話す。

「他にケガは?」

 軽く自分の手足を動かして確認しているそばからパラパラと半渇きの砂が落ちる。シャツの前一面も砂だらけで見ているとジャリジョリって音が聞こえるぐらいの汚れだ。明音は砂塗れの掌を振って砂を少し落とすと重そうなシャツに手を掛け、脱ぐ。かき上げた前髪から水やウィスキーがまだ滴っている。腕を引き抜く三角筋の動作が無駄に綺麗に流れて見える。

 育ち良さそうだな、と思いながら目の端で見ているとギョッとするぐらい長い脇腹の傷痕が視界に入る。それは背中から脇腹まで走っていて、古い物のようで輪郭は凹み、内側が白く盛り上がっていて独特の微かに表面に光沢がある傷痕だ。月明りが無数の重なり合っている胸元の痕を照らす。一つ一つ小さな物でやたらと左半身に集中している。広く厚い胸筋に少し鳥肌が浮いている。

――――体が完全に出来上がっているじゃねぇか

 道理で心臓マッサージしていて厚く硬かったわけだ。同じ男としてちょっと羨ましい。

「すっげぇ体」

 つい呟いてしまう。

「ケガはなさそうだな」

 明音は自分の体を軽く無頓着な感じで見渡して頷き、また一口飲む。ふっと優しい表情になって精悍な顔をくしゃりと崩して笑う。

「何か……いつもよりビールが美味しいな」

――――もしかして意外と俺よりも年下?

 軽く鼻に皺が寄った顔は愛嬌がある犬のようでもある。超大型猟犬っぽいが。

「俺も美味く感じるわ」

 つい釣られて笑ってしまう。考えてみたら結構凄い事したばかりじゃないか。

――――俺、頑張った。うん、エライ

 落ち着いてきたら全身中の忘れていた体の傷が痛みを再び主張し始める。思い出したくもない一日の出来事を思い出して消えない問題事に溜息を吐く。明日感じるであろう激痛を想像するだけで今から憂鬱だ。無意識に体動かす度に鈍痛がする腹部を擦る。引っ掛っただけのサンダルを蹴り落として趾をワシャワシャ広げながら脚を投げ出す。解放感に落ち着く。

「……俺よりもあんたの方が酷い怪我をしていないか?」

 何とも言えない表情で明音が俺を見ている。フハッとつい笑ってしまう。

「あー……ある意味俺も死にぞこないだからなぁ」

 横の男が立てた片膝に腕を組み、頭を乗せて見ている。顔に影が落ちて薄いグレーの目の感情が読めない。

「こっちの死に損ないには何があったかは聞かないんだな」

「話したきゃ勝手に話していて良いぜ。聞く事ぐらいは出来る。俺からは聞かねぇよ」

 俺も明音を見る。彼はフッと軽く自虐的に笑う。

「助けた命のアフターケア?」

「単に自分から面倒事に首突っ込む余裕も興味もねぇんだよ。お前が喋りたけりゃ俺はそれを黙って聞くぐらいだったら出来る。何かするわけでもねぇ。それに目の前で溺れている奴がいたら流石に誰でも助けるだろが」

「まぁ、そうだよな」

 二人の間に妙な沈黙が落ちる。

「飛び込みか」

 余裕も興味もないと言った舌の根が乾かぬうちについ聞いてしまった。口から飛び出した質問に頭の中で「うわぁ……やっちまったぁ!」と盛大に叫んでしまう。相手に悟られないよう、少なくとも無表情は心掛けてみる。

「……まぁ、そんなところだ」

 やっぱりマズイ事に触れたらしい。表情が全く読めない。基本は無表情な人なのだろうか。

 自殺未遂にも、色々ある。今まで知り合った人達にも少なくはない一定数の経験者がいた。カッティングから縦切り、合法ドラッグから違法ドラッグのOD、車やバイクの事故。途中でいなくなった者もいた。皆何かを欲していて何かから逃げていて。何も出来ないのならば、どうこう言う資格もない。目の前で死にそうだったらその時は助ける。その後はその人次第。それが、俺の精一杯。

 助けられないのならば、手は差し出せない。

 差し出して良いのは、最後まで助ける時だけ。

 だから、俺は差し出さない。

「良く来ているのか、ここ?」

「……近いんだ。たまに夜来る」

 俺の方を見てまた自虐的に笑う。

「普段の夜間は、人っ子一人もいないんだけどな」

「じゃ、お前はわざわざ、一日二十四時間週七日もあるのに、俺がたまたま来たこのピンポイントの瞬間を狙ったんだな」

 にやりと返して、缶を差し出す。

「一週間に一万八十分。一万分の一の確率か。最高のタイミングに」

 明音が苦笑しながら缶を軽やかにあてる。カンッと軽やかな音が波の音に乗って響き渡る。

「乾杯」

 二人で残りを一気に空ける。また新たな缶を出して明音に渡す。俺は目の前の海を眺めながらタブを開ける。

プシュッ

 良い音がして泡が手の方にまで垂れてくる。その温かい泡を舐めるのを明音が見ている。

「そういやぁ、近くに石碑みたいなのがあったんだけど、分かるか?」

 明音は少し動揺した表情で俺を見る。

「ああ。あれは『賽(さい)の河原』を元にした石塚って聞いた事がある。地元の人でもあまり行かない場所だけど……本当に良くあんな隠れた場所見付けたな」

「あぁ、さっき迷い込んでさ」

「あそこは静かだし日中は木の合間から海が見えて良いんだ。さっきも寄ってから来たんだけど……。あ、ちょうど入れ違いだったみたいだな」

「桃と日本酒の人か」

 明音が苦笑する。というか、あれを見られてなくってマジで良かった、とちょっとドキドキする。

「あそこで海を見ながら一杯引っかけるのが好きなんだ」

「まぁ、確かに殺伐としていたよな。賽の河原って何だ?」

「三途の川の河原」

「……それに、俺はどう反応すりゃ良いんだ?」

 明音は自虐的にではなく、可笑しそうに笑う。

「それこそナイスタイミングじゃないか?」

「なんか怖ぇーな」

 俺も笑う。波の音が耳に心地良い。

 瞬間、ハタっと気付く。確か、風がなかったのに草揺れてなかったか? あまり気にしてなかったけど……『あ、ちょうど入れ違い』の下りがやたらとわざとらしくて気になる。

――――クソ。マジでこいつに見られていたのなら、流石にちょっと恥ずかしい

「あぁー! ぶどう糖が欲しい!」

 彼が俺の声に微かにたじろぐ。今更ジタバタしてもしょうがない。過ぎた事だとあまり考えないようにする。そういえば今日は全く何も食べてない。腹部がこれだけ痛いと食べる気があまり起きないのだが体力の消耗は激しい。横から彼が同調する。

「甘い桃が良い」

「桃派だなぁ。こういう疲れた時はブドウが良い。今だったらスイカも捨てがてぇ」

 彼が鼻白む。

「葡萄はいい。スイカやメロンみたいな甘い瓜系は……ちょっと」

「アレルギーか?」

「いや、瓜科の漬物は好きだぞ。甘い瓜は……ちょっと、味覚的に苦手だ」

 歯切れが悪い。

「あー、漬物は俺も好きだな。きゅうりのピクルスみたいなのは?」

「……不味い。漬物は和風に限る」

 分かりやすく明音が鼻に皺を寄せる。以外と話題が自殺未遂に触れなければ表情は豊かだしそれなりに喋る。好き嫌いがはっきりしている。気取らなくて気楽に会話を楽しめるタイプだと思う。

「和風は最強だろ。俺も好きだぜ。出汁をそのまま飲むのがいいんだよなぁ。焼きあごの味が好きだわ」

「それは俺も好きだな。鰹節も混ざっていると最高だよな。二日酔いに効く」

「それを今言うなよぉ。飲みたくなるじゃねぇか」

 つい笑ってしまう。これは絶対に太陽が登ったら出汁飲みたくなるパターンだな。

「コンビニで年中売っていて欲しいよな」

「同感だ」

「あ! どっかで、ベビーメロン? って、いうのかな。こう、掌サイズの小さなメロンを丸ごと和風の漬物にしているのがあったな。前に食べたら美味かったぞ。そんなに甘くなかったし」

「なんだ、それは。漬物なのか?」

「ああ、出汁醤油みたいな感じだった気がするけど。シャクシャクしていて、すっげー美味かったぞ。数年前だからしっかりとは覚えてねぇけど」

「……それは、普通にちょっと気になる」

 明音がふっと微笑む。

――――目が綺麗だよな、マジで

 脳内麻薬の後遺症か、それともさっき吐き出した性欲の微熱が残っているのか、それか単に溜まっているのか。流石に野郎に食指が伸びた事は、今まで一度もない。考えた事もない。女が当たり前だったから。

 けど。

 鳥肌が立っている肌が。

 見事に山を連なっている腹筋が。

 黒く影を落としている臍が。

 卑猥に滑らかに下方へと延びる下腹部が。

 色っぽいよな。

 反応が見たくって触りたくなる。

 もっと近くで彼のあの匂いがする汗を舐めてみたい。

――――クソ。……さっきからなんなんだ

 地平線から顔を出した太陽がまだ酔っぱらっている目に沁みる。遠くの方から徐々に手前に迫ってくる白熱の光が海の上を滑ってくる。

――――あー……何かこれ以上は色々とマズイ気がする。ギブ

「……流石に眠ぃわ。俺は、もう行くぜ」

 立って服を叩く。砂や小石がボロボロと大量に落ちていく。足裏に付いた小さな切り傷がまたチリっと痛む。

 明音は無言で俺を見上げてから小さく溜息を吐く。

「……俺も帰るよ」

 彼も黒いズボンを叩き、立ち上がって肩にまだ湿気って砂だらけのシャツを掛ける。日焼けされた筋肉の白傷が艶かしく動きに合わせて伸縮しているように見える。黙ってみている俺に勘違いをしたのか『大丈夫、ちゃんと家に帰るから』と苦笑する。

 適当に缶や瓶を袋に詰めて昨夜の獣道を探す。彼の方がここら辺に少し詳しいみたいで一緒に砂浜を歩く。

「……本当に大丈夫か? 送るぞ」

 明音は軽く笑いながら目を細める。靴が非常に歩き辛そうに砂に埋もれる。

「いや、本当に近いから大丈夫だ。それにあんた、結構飲んでいるだろ」

 にやりと笑って手をひらひらさせる。無駄に精悍な顔が悪党っぽく見える。こっちが普段の彼の姿だろうなと思う。さっきの透明な涙を思い出してついそのギャップに下半身が反応しそうになる。遠くの方で車が走っている音がする。

「ここだろ?」

 小さな、それこそ昨夜来ていなければ見落とすような獣道だ。重そうな木の枝が腰辺りまで垂れ下がって雑草も膝の高さまである。砂浜に向かって雑草が折れていなければ見落としていただろう。よく見るとすぐ横にもう少し踏み込まれた小道になった獣道がある。こっちが本来の道じゃなかろうか。俺は相当強引に道を開拓してしまったらしい。酔っぱらいの図太い無神経さは怖い。

「道案内、サンキュー。……じゃあ、また」

「ああ。……ありがとう」

 明音はちょっと寂しそうにふっと微笑んだ。柔らかな表情だが、影はある。

 気不味い沈黙が落ちる。

 明音の後ろで海がキラキラと乱反射している。

 俺は明音に背を向け適当に手を挙げて枝を潜る。雑草が揺れる度に虫が飛び上がる。ちらっと後ろを見る。そのまま来た方向に歩き出した明音は酷く独りに見える。

 見える、が、俺に何か出来る事はない。自分の事すらままならないし、今の状況じゃ本当に何も出来ない。

 雑念を払うように頭を振る。

 前の方で草に埋もれている自分の愛車が見える。

 さてと、これからどうしようか。取り敢えず寝るか。それとも一発抜いとくか。自分の安直さに苦笑する。後ろの席に放り込んである適当な服に着替えて、ボトルの水で軽く足を洗う。冷房を全開にして煙草を咥えながら椅子を倒す。

「……俺、男もイケたんだな」

 自分のぼそっとした独り言に明音の冷たかった唇を思い出す。嫌悪感が全く沸かないどころか、舌の味を想像してしまう。中性的じゃなくって、しっかりした体躯の、オスって感じの男。男なんて、今まで全く意識した事なんてなかったのに。

――――あの目はまた見てみたいな

 傷を舐めたらどんな目で俺を見るのだろうか。明音の精鍛な顔を思い出す。

――――まぁ、もう会う事はないか。俺は今日ここを出て行くし

 ゆっくりと煙を吐き出す。あそこで離れて良かったと思う。長く会話すればする程、気になってしまう。逃げ辛くなってしまう。

――――また海に飛び込むのかな

 溜息を吐いて目を閉じる。

――――もう思い出しちゃ駄目だ

 俺は無理矢理頭の中を空っぽにした。



(つづく)

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2024年12月16日 17:00

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