あの夏に囚われている

第九話「この瞬間がずっとずっと続きますようにと」

電車を降りた日陰と美晴は、涼しい夜風を受けながら廃校へと続く坂道を歩いていた。空はすっかり暗くなり、ポツポツと街灯の明かりが道を照らしている。虫の声が辺り一面に響き渡り、夏の夜を感じさせる静かな時間だった。

日陰がふと思い出したように口を開いた。

「そういえば……」

その静かな声に、美晴が日陰の横顔を覗き込むように顔を向ける。

「美晴が存在しているのは俺のおかげって……どういうことなんだ？」

日陰の言葉には、彼がずっと疑問に思い続けていたことがにじんでいた。

美晴はその問いに、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐにいたずらっぽい笑顔を見せた。

「え？気になるの？」

その軽い口調と笑顔に、日陰は少しだけ肩をすくめた。真面目に聞いたつもりなのに、軽くかわされているような気がして、わずかに頬が熱くなる。

「……まぁ、気になるな。」

彼の素直な返事に、美晴は満足そうに微笑み、カメラを指差した。

「そこにさ。私に会う前の廃校の写真とか残ってる？」

日陰は「？」という顔をして立ち止まった。言われた意味がよく分からず、少し考え込んだ後に答える。

「あると思うけど……なんで？」

「いいからいいから！じゃあ、それ見せて！」

美晴の勢いに、日陰は半ば呆れたような表情を浮かべながらカメラを取り出し、撮影履歴を遡り始めた。画面をスクロールする指先が少しだけ迷いながらも、ようやく手を止めた。

「これが初めて撮った日かな。」

日陰は慎重にカメラを美晴に渡す。

美晴はカメラを受け取ると、ふふふと含み笑いを漏らしながら画面をじっと見つめ始めた。写真をスライドさせる指はどこかリズミカルで、その顔には少しだけ懐かしむような表情が浮かんでいる。

日陰は、美晴の楽しそうな様子に少し安堵しつつも、やはり何が目的なのか分からず首をかしげたままだった。

しばらくして、美晴がようやく指を止めて、満足げに笑みを浮かべる。

「よし！これくらいかな。」

彼女はそう言うと、カメラの画面を日陰に差し出した。

「まずはこれ！」

日陰は美晴に差し出されたカメラの画面をじっと見つめた。そこには、廃校の校舎が映し出されている。夕陽の中に佇む古びた建物。その何の変哲もない写真に、日陰は眉を寄せた。

「これが……なんなんだ？」

そう呟きながら、画面をさらに覗き込む。しかし、特に目を引くものはない。ただの廃校だ。

「これって……ただの校舎だよな？」

彼は少し首を傾げながら美晴に問いかける。その言葉に、美晴はニタリと笑みを浮かべた。

「え〜？わからないかな〜？」

その悪戯っぽい声と表情に、日陰は軽く肩をすくめた。

「いや、さっぱり。普通の廃校の写真にしか見えないけど……」

美晴は「本当に気づかないんだ」とでも言いたげに目を細め、ちょっと馬鹿にしたような笑顔を浮かべている。その笑顔が妙に癇に障るようで、日陰は思わずため息をついた。

「教えてくれる気あるのか？」

美晴はその問いにますますニタニタと笑い、わざとらしく視線を泳がせながら言う。

「どうしよっかな〜、気づかない日陰が悪いんだもん！」

「……頼むから、からかわないで教えてくれよ。」

困ったように眉を下げる日陰を見て、美晴はようやく小さく吹き出した。そして、いたずら心を満たしたのか、カメラの画面を指差しながら真面目な顔になる。

「じゃあ、ヒントね。この写真をもう一度、よーく見てみて。」

日陰は半信半疑のまま、再びカメラの画面に目を落とした。美晴が指差す場所をじっくりと見つめると、そこには小さな黒いモヤのようなものが写り込んでいた。

「ん？なんだこれ……」

眉をひそめてモヤを凝視するが、それが何を意味するのかさっぱりわからない。単なるレンズの汚れか光の反射だろうか、そう考えかけたとき、美晴がにっこりと微笑んだ。

「気づいた？これ、私！」

その衝撃的な発言に、日陰は固まり、「へ？」と間抜けな声を漏らした。その反応を見た美晴は大笑いしながら肩を揺らしている。

「はははっ！その顔、ほんっとに最高！『へ？』って声、めちゃくちゃ面白い！」

「これが美晴？」

日陰は混乱したままカメラの画面と美晴の顔を交互に見比べたが、繋がらない情報に頭が追いつかない。

「まあまあ落ち着いて、次も見てみてよ。」

美晴は笑いをこらえながらカメラを操作し、次の写真を表示した。

「ほら、これ！ここ！」

指差したのは別の日に撮影した廃校の写真だった。日陰が画面を覗き込むと、また黒いモヤが写り込んでいるのがわかる。ただし、前のものより濃く、形が少しずつ人型を作り始めているように見えた。

「これも私！」

「……！？」

日陰は額にじんわりと汗が浮かぶのを感じながら画面を見つめるが、状況が飲み込めない。

「次はね～これ！」

美晴はさらにカメラを操作し、次の写真を指差す。そこには廃校の正面玄関が映っており、黒いモヤが画面の中央付近で明らかに人型を作っていた。

「これ、輪郭が……人型になってる……」

日陰は息を呑みながら呟いた。その形のはっきりさに、自分の知らないうちにこんなものが写っていた事実に軽い恐怖さえ感じた。

「そうそう、これも私！」

無邪気に笑ってみせる美晴。

そしてカメラを更に操作して続ける。

「これなんかさ、結構ハッキリ写ってるよ！」

美晴が指差した写真には、廃校の下駄箱の横でピースをしている黒いモヤが写っていた。そのモヤは笑っているような顔まで薄っすらと見え、まるでこちらに向かって微笑んでいるようだった。

「な、なんだこれ…ピースしてるじゃないか！」

日陰はほぼ叫ぶような声を上げ、画面に顔を近づけて凝視した。

「はははっ！ほんと面白いでしょ！こんな感じで写ってたなんて、私もびっくりしたよ」

美晴はお腹を抱えて笑いながら写真を見ている。その無邪気な笑い声を聞きながら、日陰は唖然として言葉を失った。

「いや、怖いよ！完全に心霊写真じゃないか！」

日陰の言葉に美晴は笑いながらだが眉を根を寄せた。

「待って待って！怖くないでしょ！」

「いや、心霊写真は怖いでしょ！」

日陰が怖がる様に言うと、美晴は笑いながらカメラを覗き込んだ。

「でもさ、それを言うなら今日撮ってくれた写真も心霊写真だよね？」

さらりと言い放つ美晴に、日陰はハッとして息を呑んだ。

「あ……そうか。確かに……」

一気に肩の力が抜け、恐怖が和らいでいくのを感じた。目の前にいる美晴を見ていると、確かに幽霊という感覚が薄れてしまうのだ。

改めて考えてみれば美晴を撮影することは、確定で心霊写真を撮影していることになるのだ。

それに、美晴が黒いモヤの状態で写っていたとしても、それの正体が美晴なら全く怖くないな。

と我に帰るような感覚を覚えた。

美晴は日陰にカメラを返し、優しく微笑んだ。

その笑顔にはどこか温かみがあって、日陰の緊張を少しずつ解きほぐしていく。

「ふふ、ね？だから怖がる必要なんてないよ。」

彼女の無邪気な声が静かな道に響く。日陰は苦笑いを浮かべながら、カメラを受け取ると肩をすくめた。

「……確かにそれもそうか…。」

そう言いながらも、日陰は未だに疑問が晴れない顔をしていた。

美晴は日陰をじっと見つめた後、「で、何が言いたいかと言うと――」と切り出した。

「君のカメラが、私を切り取ってくれたんだよ。」

日陰はその言葉に一瞬固まり、口を開く。

「ど、どういうことだ……？」

戸惑いを隠せない日陰の様子に、美晴は少しだけ困ったような表情を浮かべた。

「うまく説明できないけど……私はね、ずっと廃校を漂ってたの。ただの“モヤ”みたいな存在だった。」

日陰はその言葉を聞き、思わずカメラの画面に目を落とす。さっき見た黒いモヤの写真が頭に浮かぶ。

「モヤ……？」

美晴は頷くと、どこか遠くを見つめるような目をして話を続けた。

「その時の私は、ただ『ここで過ごしたい』っていう気持ちだけで漂ってた。多分、それ以外の感覚はほとんどなかったんだと思う。」

日陰は真剣な顔で美晴の言葉を聞いていた。彼女の言葉がどこか切なく響いたからだ。

「意識は殆どなくて……ただここにいたいって感情だけはあって……そんな曖昧な存在だったんだけど。この場所……今じゃ廃校だったけど、昔はすごく賑やかだったんだよ。声が明るく響いていて、居心地が良くて……それは覚えてるんだ。」

美晴の表情が少しだけ柔らかくなる。過去の記憶を思い出しているようだった。

「ただ……ある日を境に、その声がぱったり止んじゃったの。それからはずっと静かで……今だからわかるけど、多分その時は、寂しさでいっぱいだったんだと思う。」

日陰は彼女の言葉に息を呑んだ。今ここにいる美晴からは想像もできないほどの孤独が伝わってくる。

「そんな時だったんだ、君が来たのは。」

美晴はふっと微笑む。日陰はその言葉に自分の胸がざわつくのを感じた。

「カメラのシャッターが切られた瞬間、私の中で何かが変わった気がしたの。ずっと霧の中にいるような感覚だったけど、日陰が写真を撮る度に意識が少しずつはっきりしていったの。」

「……写真を撮る度に？」

美晴は大きく頷いた。

「そう。最初はただの黒いモヤだったけど、日陰に撮られる度にいろんな感覚が蘇ってきたんだ。それからこうして人の体で動けるようになったのも、日陰がカメラを向けてくれたからだと思う。」

日陰は目を見開いたまま、美晴の言葉を飲み込むように聞いていた。そんな彼を見て、美晴は少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「ねえ、日陰はこの場所を自分に重ねてたんじゃないかな？」

「……え？」

不意に投げかけられた言葉に、日陰は目を丸くした。

「この場所はさ、暗くて寂しくて、ひとりぼっち。時間だけがただ流れていく、廃れていくだけの場所。でも日陰は、それを写真に残した。覚えておいてほしい、忘れないでほしい、ここに居るよって気づいてほしいって思いながら撮ったんじゃない？」

日陰はその言葉にハッとする。言葉にされて初めて、自分が何を思ってこの廃校を撮っていたのかがわかる気がした。

「多分その気持ちが、少しずつ伝わったんだと思う。だから私、もう一度こうやって人間の姿になれたんだよ。」

美晴はそう言うと、ふわりと笑顔を見せた。その表情は、言葉にならない感謝や喜びを含んでいて――日陰は不意に胸が熱くなるのを感じた。

「……俺が、そんな……」

日陰の言葉は途切れたまま、宙に消えた。

言いようのない感情が胸の中を渦巻いている。

日陰は、美晴の存在の意味を、そして自分が写真を撮る意味を噛み締めるようにしていた。

「だから、日陰。ありがとう！君のおかげで私は今、とっても幸せな青春が送れてるんだ！」

美晴はそう言って、これ以上ないほどの笑顔を浮かべた。その笑顔は太陽のように明るく、見る者すべてを温かく包み込むようだった。

だが、その光があまりにも眩しいせいか、日陰にはどこか儚げに見えた。

まるで、その笑顔が今にも消えてしまいそうな――そんな気がしてならなかった。

日陰は口を開きかけたが、言葉は出ない。

胸の奥からこみ上げてくる感情に気づかないふりをして、ただ目の前の美晴の笑顔を見つめていた。

そして、彼は心の中でそっと思った。

美晴が「幸せだ」と言えるこの瞬間を――この先もずっとずっと一緒に送れるようにと。