第八話「あの日君が帰らなかった家へ」

校門の前、夏の朝の空気は爽やかで、湿った草木の香りが鼻先をくすぐる。時計の針はまだ8時を指す前だった。

日陰は少し早めに到着し、門の前で足を止めていた。首にかけたカメラを無意識に触りながら、空を見上げる。青空には薄い雲がゆっくりと流れている。


「……早かったか」


そう呟いたものの、落ち着かない心をどうすることもできなかった。昨晩、布団の中で一人悶えた記憶が頭をよぎり、顔が熱くなる。


(あの時の自分、絶対おかしかったよな……)


考えるほどに思い出されるのは、吉賀の「良い彼女を持ったな」という言葉。そして、それに引きずられて考えた美晴への思い。

彼女が校門に現れる前に頭を冷やそうとするが、そう簡単にはいかなかった。


「おーい、日陰!」


遠くから明るい声が響く。その声に反射的に振り返ると、セーラー服姿の美晴が軽快な足取りで近づいてくる。太陽を浴びて輝く笑顔はまるで夏の象徴の様だった。


「おはよう!」


その元気な声と笑顔に、日陰の心臓が一瞬高鳴る。


「お、おはよう……美晴さ……」


言いかけた瞬間、日陰は自分の口から出た言葉にハッとして言葉を切る。昨晩の葛藤が頭をよぎり、呼び捨てが急に恥ずかしく感じてしまったのだ。


「え?今『さん』って言おうとしたでしょ!」


美晴が目を細めてニヤリと笑う。その表情に日陰はたじろぎ、顔が熱くなるのを感じながら視線を逸らす。


「ち、違う……いや、その……」


言い訳しようとするが、美晴がすかさず追い打ちをかけた。


「さん付けは昨日から禁止になりましたよー?忘れちゃダメだからね、日陰!」


「わ、わかったよ……」


日陰はしぶしぶ頷きながらも、心の中で(忘れたわけじゃないけど……)と苦い顔をする。美晴は気づいているのかいないのか、いつもの調子でくるりと日陰に背を向けた。


「じゃあ、最寄り駅まで行こうか!今日は電車移動だからね!」


美晴に促されるまま、日陰は後をついて歩き出す。歩きながら、美晴の軽やかな足取りと鼻歌が耳に届くたびに、なぜか胸がざわついた。


「私、電車通学だったんだよね」


ふいに美晴が口を開く。その声に、日陰は眉を上げて何か思い出すようにして声を発した。


「確か海に行った時、電車通学って言ってたよな」


「うん!ちょっと遠かったからね。中学から電車通学で、高校も電車通学!……まぁ高校は通えなかったから、もしも通えていたらって話だけど」


美晴の声が少しだけ遠くを見ているように感じられる。日陰はその横顔を見つめながら、口を開くべきか迷う。しかし、美晴はすぐに振り返り、いつもの笑顔を浮かべた。


「でもさ、今こうして日陰と歩いてるとさ。登校中みたいでドキドキするの」


「え?」


いきなりの言葉に日陰は驚きつつも、美晴の顔には特別な意味は感じられず、ただ楽しそうに笑っていた。


「友達とこうして朝早くに駅を目指して、話しながら並んで歩く――なんか青春っぽくない?」


「……そうかもな」


日陰は美晴の言葉を受け止めながら、小さく微笑む。そしてなぜか、今のこの距離感が急に恥ずかしくなり、一歩だけ後ろに下がる。


「あ、あの、思ったけど……。学校がスタートで、目指してるのは美晴の家なんだから登校じゃなくて下校だよな」


申し訳なさそうに指摘すると、美晴は立ち止まり、振り返って小さくむくれた表情を浮かべた。


「うるさいなー!!そういう細かいことに気づかなくていいの!」


美晴の言葉に日陰は肩をすくめる。それから美晴はふっと息を吐き、指を揺らす。


「でも……下校の方が青春っぽいかもね。寄り道とかして、アイスとか買ったりしてさ!」


「寄り道って……どこに行くつもりだ?」


「イメージだよ、イメージ!下校って言えば、ダラダラ歩きながら友達とおしゃべりしたりするものでしょ!」


美晴が胸を張って言うその姿に、日陰は思わず笑ってしまった。


「何笑ってるのー!」


美晴はむくれたような顔をしながらも、楽しそうに笑って歩き続ける。その姿に、日陰は少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。


最寄り駅が近づいてきた頃、美晴が悪戯っぽい顔で振り返る。


「ねえ、日陰。今日こそ私、透明になって電車に乗ろうかなーって思ってるんだけど……怒る?」


「怒るよ。いくら幽霊でも無賃乗車はダメだろ!」


真面目すぎる反応に、美晴は吹き出して笑った。


「でもさー、私お金持ってないし、結局また日陰に出してもらうことになっちゃうからさ」


「切符代くらい、俺が出すよ」


日陰は少しカッコつけたように言う。その声には微妙な緊張感が混ざっていた。

(お小遣いだから自分で稼いだお金でもないけど…)


「ほんと?ありがとう!じゃあ、お礼に私ができることなら何でも言うこと聞くよ!」


「な、なんだよそれ……いいよ、そんなの」


「えー!何か恩返しさせてよー!何がいい?何してほしい?」


美晴が身を乗り出して聞いてくる。その瞳の輝きに、日陰は照れくさくなりながら視線を逸らした。


「……今は思いつかない」


「じゃあ今日中に考えといてね!」


美晴が満足げに笑う。その笑顔を見ながら、日陰は内心で静かに思った。


(むしろ、俺の方が美晴からたくさんのものをもらってる気がするけどな……)


日陰のそんな思いを知らず、美晴は楽しげに前を歩く。2人の影が、朝の柔らかな光に長く伸びていた。


---


電車の窓から見える景色は、のどかな住宅街が広がっている。整然とした家々と緑の木々が交互に視界を流れていく。空は夏らしい澄んだ青色で、遠くに白い雲がふんわりと浮かんでいた。


美晴はじっと窓の外を見つめている。その表情には、懐かしさと少しの緊張感が入り混じったようなものが浮かんでいた。電車の揺れに合わせて軽く揺れる肩が、彼女の心の動揺を表しているようにも見える。


日陰は隣に座り、美晴の横顔を盗み見る。普段の無邪気な笑顔はそこにはなく、静かに過去と向き合おうとしている彼女の姿があった。


(きっと、この景色を毎日のように見るはずだったんだよな……)


事故によって高校に通えなかった美晴を想い、日陰は胸の奥に小さな痛みを覚えた。それでも何も言わず、美晴の静かな時間を壊さないようにしていた。


ふと、美晴がこちらを向いた。目が合った瞬間、日陰は驚いて顔を逸らす。


「ん?」


美晴が不思議そうに首を傾げる。その仕草に気づかれたくなくて、日陰は無理やり窓の外に目を向けた。


「何?なんか顔についてる?」


軽く問いかける美晴に、日陰は曖昧に首を振る。


「いや、別に……なんでもない」


「ふーん」


美晴はそれ以上追及することなく、再び窓の外に目を戻す。


少しの沈黙が流れた後、美晴がぽつりと呟いた。


「お父さんに…会えるかな」


その声は小さく、それでいてどこか揺れていた。日陰はその言葉に息を飲む。美晴の声には、「会いたい」という気持ちと「会いたくない」という複雑な感情が入り混じっているように感じられた。


「世間的には、今はお盆休みだけど……」


日陰は恐る恐る言葉を紡ぐ。だが、それ以上続けることはできなかった。美晴が昨日話していたように、彼女の父親は仕事が忙しい人だ。家にいても、きっと疲れて寝ているのではないか――そんな想像が浮かぶ。


美晴は小さく笑いながら窓の外を眺め続けた。


「たぶん、家にいないかもね。お盆だとしても、そういう人だから」


その言葉には、どこか諦めと受け入れが混じっていた。美晴の声が淡々としているのが、日陰には余計に切なく感じられた。


「でも……もし家にいたら、どうするんだ?」


日陰が恐る恐る尋ねると、美晴は少しだけ考えるような仕草をした後、微笑んだ。


「……その時は、その時かな。お父さんに会うの、ちょっと怖いけど」


「怖い?」


日陰は思わず聞き返した。


「うん。なんかさ……もしお父さんが、私のことを忘れてたらどうしようって思うんだ」


美晴の声は小さく、けれどその言葉は日陰の胸に深く突き刺さる。


「忘れるわけ……ないだろ」


日陰は静かに言った。自分の声が意外に力強く響いたことに驚きながらも、美晴を真っ直ぐ見つめた。

美晴はその言葉に小さく笑い、頬杖をつきながら窓の外を見続けた。


「まぁお父さんからしたら私が会いに来る方が怖いと思うけどね」


いつもの調子を取り戻そうとしているのか、笑いながら冗談めいた調子で言葉を発する美晴だが、日陰はその声に微かな寂しさを感じ取っていた。


「た、確かにな…」


電車はゆっくりと速度を落とし、次第にホームが近づいてくる。アナウンスが最寄り駅の名前を告げると、美晴がふと立ち上がり、笑顔で日陰を振り返った。


「さ、着いたよ!降りよっか!」


その明るい声に、日陰も立ち上がり、彼女の後を追った。

美晴の胸の中には、不安がまだ静かに渦巻いていた。

日陰はその雰囲気を何となく感じつつ、自分も薄らと不安な気持ちが芽生えているのを感じながら、駅のホームに降り立つ美晴の後ろ姿を見つめていた。


---


駅を出て、住宅街の道を歩き始める。静かな街並みは、朝の光を浴びてどこか穏やかに見えた。通りを行き交う車も少なく、時折聞こえる風の音と蝉の声だけが耳を掠める。


「寄り道とかする?」


美晴が振り返り、軽い調子で言う。その口元にはいつもの無邪気な笑みが浮かんでいる。


日陰はその言葉に首を振った。


「……まずは家に行ってみよう」


その言葉には、普段の彼らしい曖昧さはなく、どこか決意がこもっていた。


美晴は少し目を見開いて日陰を見つめたが、すぐに微笑みを浮かべた。


「そうだね」


短く返事をすると、彼女は視線を前に向けて歩き出した。その背中には少し気持ちを切り替えたような力強さが感じられる。


二人はしばらく歩き続け、やがて美晴の言う「家」にたどり着いた。目の前に現れた家は、少し古びた印象を受けた。壁の塗装はところどころ剥がれていて、窓枠もどこか錆びついたように見える。それでも庭にはきちんと手入れされた植木があり、長年人が住んでいる気配が感じられた。

美晴は立ち止まり、じっと家を見つめた。

そして小さく息を吐きながら、ぽつりと呟く。


「だいぶ古くなったなぁ…」


日陰はその言葉を聞いて胸が詰まる感覚を覚えた。

一体、美晴がこの家に住んでいた頃から何年が経ったのか、それは日陰には分からないが美晴の声から長い年月が経っているのだと容易に想像ができてしまった。


「……お父さん、いないね」


日陰はその言葉に少し驚き、尋ねる。


「どうしてわかるんだ?」


美晴は手で家の駐車場を指差した。


「車がないから。お父さんがいる時は、必ず車がここに停まってるの」


その言葉には、安堵とほんの少しの寂しさが混ざっているようだった。日陰は何も言えず、彼女を見守ることしかできなかった。

しばらく家を眺めていた美晴は、ふっと気を取り直したように軽く飛び跳ねる。


「よし、行こうか!」


そして、門をぴょんっと軽やかに飛び越えると、透明になって玄関の窓をすり抜けた。


日陰はその様子を呆然と見つめる。すると、玄関の扉が内側から「ガチャ」と音を立てて開いた。

そこには美晴が立っていて、微笑みながら手招きをしている。


「どーぞ」


日陰は少し汗を滲ませながら苦笑いを浮かべた。


(絶対他の人の家ではやっちゃダメだぞ……いや、でも美晴なら絶対しないか)


そんなことを考えながら、頭を振って足を踏み入れる。


玄関の中は驚くほど静かだった。生活感がほとんどなく、置かれた靴も少ない。棚に並んだものも必要最低限だけで、どこか寒々しい雰囲気が漂っている。


美晴はローファーを脱ぎ、玄関を上がったところで立ち止まった。その背中は普段の彼女らしさを感じさせないほど静かで、日陰は一瞬声をかけるべきか迷う。


靴を脱いだ日陰も玄関を上がり、彼女の横に立つ。小さな声で呼びかけた。


「美晴……?」


その声に、美晴はハッとしたように振り返る。そして、少し焦ったように言葉を紡ぐ。


「あ、ご、ごめん」


そのぎこちなさに、日陰は戸惑いながらも一歩踏み出した。彼女の肩にそっと手を置くわけでもなく、ただ自分の存在を伝えるように、少しだけ前に出て顔を覗き込む。


「ひ、1人じゃないから……。お、俺もいるから。た、頼りないかもだけど」


自分の言葉が情けなく聞こえ、思わず顔を赤らめる。それでも、何とかして彼女を安心させたくて、口にした言葉だった。

美晴はその様子に気づいたのか、少し微笑みを浮かべる。


「ありがとう……日陰」


その柔らかな声と笑顔に、日陰は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。彼女の力になりたいという思いが、うまく言葉にならずに胸に宿る。

次いで無言で階段を登る美晴。

その背中を日陰はじっと見つめ、無言のまま後をついていった。階段の木製の段板は長い年月を感じさせるきしみを奏でていたが、日陰にはその音がやけに静かに響く。

二人が上りきると、美晴はすぐ目の前の扉で立ち止まった。

その様子はどこか緊張しているように見えた。日陰は一歩後ろに控え、彼女の小さな背中を見守る。


「ここ……私の部屋だったの」


美晴の小さな声が静寂を切り裂くように響く。手をゆっくりとドアノブに伸ばすが、その手はためらうように止まっていた。

日陰はその姿を見て、彼女の胸に渦巻く感情を思い描いた。

もしかしたら、自分は忘れられた存在かもしれない――そんな不安と恐怖が美晴の心を縛りつけているように思えた。

その答えが、この扉の先に待っているのだろう。日陰も思わず息を呑む。

視線をドアノブに添えたままの美晴に、日陰は意を決して手を伸ばした。美晴のドアノブを握る右手に、自分の右手をそっと重ねようとする。

しかし、手が触れる寸前でその勇気を失い、ためらいながら引っ込めた。


「俺が……開けようか?」


日陰は、抑えた声で呟いた。その声には、自分でも驚くほどの緊張がこもっていた。

美晴は一瞬、日陰の方を振り返る。その瞳に宿るのは、わずかばかりの感謝と決意だった。


「大丈夫。日陰、ありがとう」


美晴は小さく微笑むと、再びドアノブに目を戻し、ゆっくりと力を込める。ガチャ、と音がしてドアノブが回る。

そして、扉が開かれた。


開かれた部屋は、そこだけ時が止まっているようだった。床に散らばったままの服、勉強机に乱雑に置かれた教科書、棚に並ぶ本たち――どれも美晴がここで過ごしていた頃のままのようだった。

だが不思議なことに、埃一つ積もっていない。

日陰は目を見張りながら部屋を見渡した。その生活感の残る光景に、ただ驚かされるばかりだった。


「……そのまんまだ……」


美晴がぽつりと呟いた。その声は小さく震えており、まるで今にも消えてしまいそうだった。

日陰は扉のすぐ近くにある棚に目をやる。

指を伸ばして棚の上をなぞると、埃がまったく指につかなかった。それを見て、日陰は美晴の方に振り返る。


「でも、ちゃんと掃除はされているね」


日陰が指を見せながら言うと、美晴は静かに彼を見つめ、呟くように言った。


「……お父さん……かな」


その声には、確信とも戸惑いとも取れる感情が混ざり合っていた。

部屋全体をもう一度見渡す日陰。そこには、美晴が離れた時間を止めたままにしようとしたかのような痕跡があった。

そしてそれを保とうと、誰かが丁寧に掃除をしているのだと伝わってきた。

日陰はその静かな空間に立ち尽くしながら、美晴の父親が、この部屋に込めた思いを想像していた。


美晴は、少しだけ肩の力を抜くように息をつき、部屋の中を見渡した。

そして、振り返って日陰に向かってニコッと笑顔を見せた。


「あーあ。どうせ掃除するなら、この散らかった服とかも片付けといてほしかったなー!日陰がびっくりしちゃうじゃん!」


その言葉は冗談めいていて、美晴がいつもの調子を取り戻そうとしていることが日陰にも伝わった。

彼女の明るさに触れて、日陰もほっと息を吐き出した。


「別に驚いてないよ」


つい自然に口にした言葉だったが、言った瞬間、日陰の頭に警鐘が鳴った。


「あっ……」


その反応を見逃さなかった美晴は、目を大きく見開いてオーバーリアクションを取った。


「えーーー!!それどういう意味?私の部屋が汚いのは想像通りってこと?何それ!酷すぎるんですけど!!」


美晴は両手を広げて、まるで大げさな悲劇の演技をするように声を上げる。日陰はその勢いに圧倒され、慌てて手を振りながら言い訳を試みた。


「いや、あの、その……ご、ごめん!」


まるで罪を認めてしまったような謝罪に、美晴はさらに追い打ちをかけるように手を頬に添え、わざと悲しそうな声を出す。


「否定してよー!!私そんなイメージなんだー!?悲しいよーーー!!!」


大げさに言いながらも、どこか楽しげな様子の美晴。日陰はその様子を見て、ようやく安心するように力を抜き、苦笑いを浮かべた。


「……悪かったよ。でも、なんか美晴っぽいなって……」


「それ、フォローになってないよ!!」


美晴はぷくっと頬を膨らませながら、いたずらっぽい目つきで日陰を見つめる。彼女のその無邪気な姿に、日陰は心の奥からほっとした気持ちになった。


(よかった……)


美晴が部屋の中でまた笑顔を取り戻したことに、日陰は少しだけ胸の中の緊張を解くことができた。ふたりの会話は、静かな部屋の中で軽やかに響いていた。


美晴が少し安堵したように肩をすくめ、笑いながら部屋の奥へと足を踏み入れた。床に散らばる服や机に無造作に置かれた教科書、そして少しシワのある毛布。部屋全体が時間を止めたかのように、そのままの姿で佇んでいる。


「いやー、本当にそのまんまだね……」


美晴が呟きながら棚の上に手を伸ばす。その動きは慎重で、まるで大切な思い出に触れるようだった。手に取ったのは耳の部分が擦り切れた古びたぬいぐるみ。見ただけで、かつてどれほど大切にされていたのかが伝わってくる。


「これ、昔からここに置いてたなぁ……」


美晴はぬいぐるみを軽く抱きしめ、目を細める。その様子に、日陰は少し驚きながらも声をかけた。


「それ、ずっと持ってたの?」


美晴が振り返りながら微笑む。その表情には懐かしさと切なさが滲んでいる。


「うん。小学校に入る前くらいにお父さんが買ってくれたんだよね。これだけは絶対に捨てられないって決めてたの」


美晴の声は穏やかで、どこか遠い昔を思い出すようだった。その言葉に日陰は少しだけ頷き、部屋の中を見回した。机の椅子を引いて腰掛ける美晴。その目は部屋全体をじっと見つめている。その仕草からは、この空間がどれほど彼女にとって特別なものかが伝わってきた。


一方、日陰の視線は壁に貼られた数枚のポスターへと向けられていた。そこには、ある有名な女児向けアニメのキャラクターが描かれている。


「これって…初代のやつだよな?」


日陰がポスターを指差すと、美晴はそちらを振り向き、少しだけ微笑んだ。


「そうそう!私が10歳くらいだったかな?その時に始まったんだ〜!」


彼女の弾むような声に日陰はふと眉を寄せ、心の中で計算を始める。


(この作品、有名だから知ってるけど、初代って俺が生まれてない頃だよな。確か最近20周年映画とかやってなかったっけ……初代が20年前で……その時に美晴は10歳くらいだったって……)


考え込んでいた日陰は、ふいに美晴の大きな声にビクッと反応した。


「シャラープ!!日陰!」


予想外の声に驚き、反射的に彼女を見つめる。


「いや、何も言ってないけど!?」


「今、私の年齢考えてたでしょ?」


美晴が軽く頬を膨らませ、怒ったように睨む。図星を突かれた日陰は素直に頭を下げた。


「す、すみませんでした」


「もー!やめてよね!確かにあれから何年も経ってるけど、死んだ時に16歳だったんだから変わらず16歳なの!」


「ご、ごめん。失礼だったよ」


「有罪だよー!」


美晴は冗談ぽく笑いながら、空気をポンポンと叩くジェスチャーをしてみせた。その仕草に、日陰もつられて小さく笑う。


二人の間に漂っていた緊張感が、少しだけ和らいだ気がした。

それから、再び部屋を見渡す美晴。その表情が、徐々に穏やかなものへと変わっていく。


「……忘れられてなかった…のかな」


小さな声で呟く彼女。その言葉には、どこか安堵の気配が含まれていた。

日陰はその背中を見つめながらそっと頷く。

それ以上、何も言わなかった。ただ彼女の隣に立ち、同じ景色を見つめていた。

美晴がふと振り返り、静かに口を開いた。


「ちょっと……リビングとかも見てもいいかな」


その言葉に、日陰は頷いて、部屋の扉を開けた。階段を降りる美晴の後ろ姿を追いながら、日陰はどこか緊張した面持ちでついていく。

リビングに足を踏み入れると、そこはどこか懐かしさを感じさせる空間だった。家具は少し古びているものの、整頓されており、長い間この家が大切にされてきたのが分かる。


「懐かしい……な」


美晴がぽつりと呟きながら、部屋の中をゆっくりと見渡した。その言葉の響きに、日陰はそっと彼女の表情を伺う。けれど、美晴の足がピタリと止まる。視線の先を追った日陰は、彼女が見つめているものに気づいた。

そこには、仏壇があった。その中央に飾られているのは、美晴の遺影だった。紺と白のセーラー服に身を包み、優しく笑う美晴の写真。どこか今の美晴よりも幼さが残るその顔が、静かに日陰の胸を打つ。


「美晴……」


日陰の口から自然と名前が漏れた。幽霊として彼女と接している以上、死者であることは頭では分かっているはずだった。しかし、改めて目の前に遺影を見せつけられると、現実が強烈にのしかかってくる。

――ああ、彼女は本当に死んでしまったんだ。

それでも今ここにいる美晴は、あまりにも「生きている」ように見えて、彼の中の認識は曖昧なものになっていた。遺影がその事実を突きつける。胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。


「中学の卒業アルバムの写真だ。あんまり盛れてなくて嫌なんだよねこれ」


そのジョークのような一言に、日陰はハッとする。今まさに重い感情に飲み込まれそうになっていたのに、美晴は意外なほど軽い調子で話していた。


「お、おい……」


呆れたように顔を上げた日陰は、美晴の顔を覗き込む。しかし、その瞬間、息が詰まった。

美晴の頬を、涙が一筋流れていたのだ。


「美晴……?」


日陰は言葉をかけようとしたが、喉が詰まったように声が出ない。美晴はゆっくりと仏壇に近づき、その前に立つ。そして、何かに手を伸ばした。

彼女が手に取ったのは、仏壇に供えられた酢昆布だった。美晴はそれをじっと見つめ、そっと胸元に当てる。その動作は、まるで宝物を扱うように慎重だった。


「酢昆布……ちゃんと私が好きだったこと覚えてたんだね」


美晴の声は震えていて、その言葉の裏にある想いが痛いほど伝わってきた。酢昆布を大事そうに握りしめながら、彼女の瞳からまた涙がこぼれる。


「もう……食べられないようになっちゃった……」


その言葉とともに、美晴の肩が小刻みに震え始めた。涙は次から次へと溢れ、彼女の顔を濡らしていく。日陰はその姿を見て、思わず目頭が熱くなるのを感じた。しかし、日陰はなんとか涙を堪えた。

日陰が泣いてしまえば、美晴の悲しみに寄り添えなくなってしまう気がしたからだ。

しばらくその場に立ち尽くしていた美晴だが、ふと目を動かし、仏壇の横に置かれた何かを見つけた。


「……これ」


美晴が手に取ったのは、一通の白い封筒だった。封筒には「美晴へ」と綺麗な文字で書かれている。それを見た美晴は、そっと封筒を撫でるようにして、目を細めた。


「……手紙だ」


仏壇のそばには、彼女が手に取ったものと同じ白い封筒がいくつも積み上げられていた。そしてその横にはいくつかの段ボール箱があり、箱にはそれぞれ年号が書かれている。中を覗くと、そのすべてが手紙で埋め尽くされていた。


「……全部、手紙……?」


日陰が驚きながら呟く。その声に、美晴は手紙を握りしめたまま、小さく頷いた。


「うん……これ、全部お父さんが書いたのかな…」


彼女の声には、驚きと少しの動揺、そしてどこか温かいものが混じっていた。日陰は仏壇の横に積まれた手紙を見つめ、言葉を失う。


美晴はしばらくの間、手にした封筒を見つめ続けていた。そしてそっと手紙を胸に抱きしめると、涙がまた一筋、頬を伝った。


「お父さん……忘れないでいてくれたんだね、私のこと」


その言葉に、日陰はぐっと喉が詰まる感覚を覚えた。美晴がどれほど自分の存在を不安に思い、忘れられることを恐れていたのかを思い知ったからだ。


「……これ、昨日の日付だ」


ぽつりと美晴が呟いた。その声は驚きと戸惑いが入り混じっていた。日陰も美晴の手元に視線を移し、そこに記された日付に気づく。


「昨日……?」


日陰の言葉に、美晴は小さく頷いた。封筒に書かれた日付が、美晴の瞳に揺らめく。

封筒をじっと見つめたまま、彼女の瞳にはまた涙が浮かんでいた。その様子に、日陰は胸を締め付けられるような感覚を覚えた。


「……お父さん、ずっと私に手紙を書いてくれてたんだ」


美晴は封筒を大切そうに両手で持ち、少しの間じっと見つめていた。そしてふと顔を上げ、仏壇の方に視線を向ける。


「ずっと……私のことを忘れずに、こうして思っててくれたんだね」


その声には、驚きと喜び、そして深い寂しさが入り混じっていた。日陰は美晴の横顔を見つめながら、何か言葉をかけたかったが、適切な言葉が見つからなかった。ただ、美晴の気持ちに寄り添おうとそばに立ち続けた。


美晴は手紙を持ったまま、仏壇の前に座り込んだ。その仕草は、まるで何か大切なものに再び触れるような慎重さを感じさせた。


「昨日の手紙……読んでみてもいいかな?」


その問いは日陰に向けられたものだったが、日陰は黙って頷いた。これは彼女の時間であり、彼女が決めるべきことだったからだ。


美晴はそっと封筒の口を開け、中から一枚の便箋を取り出した。その指先は少し震えていたが、丁寧に、そして慎重に紙を広げていく。


日陰はその様子をじっと見守りながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。仏壇の前で手紙を読む美晴の背中が、小さく震えているようにも見えた。


---


美晴へ


美晴、今日は何の日か覚えているか?


美晴が5歳のとき、家族3人で宮城のひまわり畑に行ったんだ。覚えているかな?って毎年毎年聞き飽きたかな。そろそろしつこいかな。

でもな。それぐらい俺にとって大切な思い出なんだよ。

一面のひまわりを見て、美晴が「お日さまがいっぱい!」ってはしゃいでたこと、今でもはっきりと思い出せる。

ひまわりに囲まれた美晴の笑顔は、本当にお日さまみたいに輝いていて……お父さんもお母さんも、そんな美晴の笑顔にどれだけ救われていたか、わからないくらいだ。


あの日のひまわり畑、そして美晴の笑顔が、俺にとってどれほど大切なものだったか、言葉にするのは難しいけど……あの時間をお父さんは今でも鮮明に頭に焼き付いてて、ずっとずっと忘れられないんだ。


だけど、美晴。お父さんはその幸せを守りきれなかった。美晴が一番辛いときに、そばにいてやれなかったこと……ずっと後悔している。

本当にごめんなさい。何度謝っても許されないことをしてしまったと思ってる。


お父さんは情けないけど安月給だったから、美晴に不自由な思いをさせたくなくて、お仕事いっぱい頑張ろうって思ってたけど、美晴が本当に欲しかったのは、少しでも一緒にいる時間だったよな。

美晴のためにって、不自由させないためにって、そうやって思ってやっていたことが、逆に美晴に辛い思いをさせる事になってしまった。


今さらこんな手紙を書いても、美晴には届かないことも本当はわかってる。

それでも、毎週こうして手紙を書くことが日課になっているのは、美晴を絶対に忘れたくないからだ。


恥ずかしい事に、お父さんは最近歳のせいなのか記憶力が悪くなってきてしまった。本当に情けないよ。仕事でも怒られることも増えてしまってさ。

ボケ老人なんて言われても仕方がないと思ってる。


美晴は本当に素敵な女の子なんだよ。

どれだけ仕事で失敗して怒られても、疲れてどうしようもない時でもこうして美晴に宛てた手紙を書いてると凄く元気が出てくるんだ。

美晴の笑顔を思い出すだけで明日も頑張ろうと思えるんだ。

もし美晴が今、あのひまわり畑を思い出してくれているなら、願わくばまたあのときみたいに笑っていてほしい。どこかで美晴が笑っているなら、それだけでお父さんは幸せなんだ。


お父さんは不器用すぎてちゃんと言葉で伝えられなかった。本当にごめんな。伝えたいことはちゃんとその場で伝えないといけないよな。


美晴、俺の愛しい娘へ。いつもありがとう。ひまわりみたいな笑顔をくれて、本当にありがとう。

俺は今でも、いつまでも、美晴を誇りに思ってる。


お父さんより


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美晴は最後の文字を読み終えると、手紙をそっと膝の上に置いた。その手は小刻みに震えている。


「……遅いよ……」


ぽつりと漏らした声はかすれていて、涙で潤んだ瞳がじっと手紙を見つめている。


「生きてる時に言ってほしかった言葉ばっかりだよ……」


美晴は唇を噛み締め、こぼれそうになる涙をぐっと堪えようとする。だが、その努力は長くは続かず、頬を一筋の涙が伝った。


その姿に、日陰は胸が締め付けられる。痛々しく、けれど目を逸らせない。彼女の苦しみが、まるで自分の中に流れ込んでくるようだった。


しばらくの沈黙の後、日陰は静かに問いかけた。

「他にも読む?」


美晴は目を真っ赤にしながら顔を上げ、涙声で「読むぅう……」と小さく頷いた。そして次の手紙を掴み取り、また夢中で読み始める。


一枚、また一枚。彼女は次々と手紙を読み進める。時折笑顔を浮かべたり、また涙を流したり、感情の波が彼女の中で押し寄せているのが手に取るようにわかる。


日陰はただ黙ってその様子を見守っていた。時折こっそり時計を確認するが、時間の感覚が曖昧になるほど、美晴の姿に引き込まれている自分に気づく。


気づけば、夕暮れ紛いの柔らかな光が部屋に差し込み、空気を橙色に染めていた。


「日陰!!ごめん!!!」


突然、美晴が声を張り上げた。


「夢中になりすぎてた!」


手紙を抱えたまま、まるで小さな子どもが怒られるのを恐れるような顔でこちらを見つめている。


「いや、いいよ。それだけ夢中になれるものがあったなら」


日陰が優しく答えると、――ぐぅううう。


日陰の腹の音が静かな部屋に響き渡った。彼の顔がほんのり赤くなる。


「日陰ーー!!!ごめん!!!そりゃお腹も空くよね!」


美晴は慌てた様子でお供物の酢昆布を手にして日陰の方に差し出す。


「あ、酢昆布食べる?」


「いや……お供え物を食べる勇気はちょっと……」


日陰が遠慮がちに答えると、美晴は悪戯っぽく笑った。


「大丈夫!大丈夫!お父さんが私にくれたんだから、私がどうしようとへーき!あと、私食べられないし」


「……それなら、お言葉に甘えるよ」


日陰は苦笑いを浮かべながら酢昆布を受け取り、ひと口噛んだ。塩気が空腹を少しだけ和らげる。


「喉も渇いてるんだよな……」


ぽつりと呟いた日陰の言葉を聞き、美晴は勢いよく立ち上がる。


「ちょっと待ってて!」


彼女は軽やかにキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける音が響いた。本当にこの家に住んでいた美晴だからこそできることだろう。

やがてペットボトルの水を手にして戻ってくると、笑顔で差し出した。


「はい、どうぞ!」


「これ、いいのかな……」


日陰は一瞬ためらったが、美晴は大きく頷きながら手を押し出した。


「いいよ!いいよ!もし怒られたら私がお父さん呪っとくから!」


「……それ、幽霊じゃないとできなさそうなジョークだよな」


呆れたように日陰が答えると、美晴は明るく笑った。


「でしょ!私、役立つ幽霊だから!」


日陰は静かに水を飲み始めた。その冷たさが喉を潤し、少しだけ心も軽くなった気がする。


美晴の屈託のない笑顔を見ていると、どんなに辛い記憶も、一瞬だけど遠ざかるような気がした。

「決めた!」


手紙を読み終えた美晴が、勢いよく顔を上げた。


「私もお父さんに手紙を書く!」


声に弾む感情が乗っていて、その笑顔はまるで小さな子どもが新しい遊びを思いついた時のようだった。

日陰はその眩しさに思わず頬を緩める。


「いいじゃないか」と思う反面、ふと頭に別の考えがよぎる。

美晴が手紙を書く姿を想像して微笑んだが、すぐに眉を寄せた。


「いや、手紙もいいけど……直接伝えたほうがいいんじゃないか?」


美晴の動きが止まった。その笑顔が一瞬だけ曇り、胸がきゅっと締めつけられるような寂しげな表情が見えた――が、それもほんの一瞬。彼女はすぐに柔らかな微笑みを浮かべた。どこか遠くを見ているような目で、静かに呟く。


「……なんて言えばいいかわかんないけど、この手紙を読んでね、やっぱり会っちゃダメだなって感じたんだ」


「なんで……?」


日陰は眉を下げながら問いかけた。彼女の言葉が理解できなかった。


美晴は小さく息を吐き、視線を膝の上に落とす。両手をぎゅっと握りしめて、そのまま言葉を続けた。


「私はね、自分で決めて、この人生を諦めたの。……後悔してないって言ったら、それは嘘になるよ。今となってはすっごく後悔してる。でもね、それでも私が選んだことなの」


その声はどこか震えていて、日陰の胸に鋭く突き刺さった。言葉を返したかったが、何を言えばいいのかわからない。彼女の横顔が夕日の光を受けて、どこか儚げに見えた。


美晴はふと顔を上げ、日陰の方に目を向ける。

その瞳は優しく、少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「でもね、私は日陰のおかげで、こうしてここにいるの。……日陰がいたから、私は今ここに存在できてるんだよ」


「えっ……?」


驚きのあまり、日陰は目を丸くした。言葉の意味が掴めない。


美晴は頬を掻きながら、少し照れくさそうに言った。


「私はね、偶然で生まれた存在なの。いわば、ズルして生まれたチートキャラ! すごいでしょ?」


「……?」


日陰の頭の中は疑問符でいっぱいだった。美晴の明るい口調が逆に胸に引っかかる。


「多分ね、本来なら、死んだらもう二度と会えないはずなんだよ。でもね、だからこそ、人は生きてる間に『今』を大事にしなくちゃいけないんだと思う。伝えたいことは、いなくなる前に伝えなきゃダメなの」


彼女の声に徐々に熱がこもっていく。その言葉の一つ一つが、どこか痛々しいほどの真実味を帯びている。


「私の決断には、最後まで私自身が責任を持たなきゃいけない。だから……会っちゃダメなの。会ったら、それは私のズルになっちゃう」


彼女の言葉が、部屋の空気を凛としたものに変える。日陰はただ黙って、美晴の瞳を見つめた。そこには確かに強い意志が宿っている。


「それにね、お父さんにもちゃんと反省してほしいの。……死んじゃったら、もう二度と会えないんだよってことを、ずっと覚えていてほしいから」


彼女の手はぎゅっと握られていて、指先がかすかに震えていた。その姿を見た日陰の胸が、さらに強く締めつけられる。


「なんて……私、ちょっと強がってるんだけどね」


美晴は少しだけ自嘲するように笑う。けれど、その目には決して揺るがない決意が見えた。滲んだ涙を振り払うように、わざと明るい声で続ける。


「だから!会わない代わりに、ちょっとだけズルして手紙を書くの。ほら、それくらいなら幽霊的にも許されるでしょ? お父さんも『なんだこれ……』って震え上がるかもしれないし!」


美晴はおどけるように笑い、いたずらっぽく目を細める。

日陰はその言葉に少しだけ救われた気がして、ほんの少し微笑んだ。


「…本当に怖がりそうだよな」


「いいの!散々、悲しませられたんだからちょっと仕返しだよ!本当の幽霊からのホラーな手紙送っちゃうんだから!」


彼女の軽やかな声と、そこに秘められた覚悟。その二つが入り混じった空気の中で、日陰は何も言えずにただ彼女を見つめていた。


---


「じゃあ……」


美晴は部屋を見渡し、机の上にあった白紙の紙とボールペンを手に取ってリビングのテーブルに置き、椅子に座った。


「うーん……」


紙を前にした途端、彼女は眉を寄せ、ペン先を軽く紙に当てたまま動かない。


「いざ書くってなると、何を書けばいいか迷うね」


頬を膨らませながら、ぽつりと呟いた。


日陰はそんな彼女の様子をじっと見守り、ふと口を開く。


「素直に、お父さんの手紙に返事を書けばいいんじゃないか?」


「そっか!」


美晴は日陰の提案に、すぐに明るい顔で頷いた。


「それが一番いいかもね!」


そう言うと、手紙を書く気満々でボールペンにぎゅっと力を込めた。だが、その瞬間、外から車の音が聞こえた。


「……!」


美晴の体がピクリと反応する。次の瞬間――


「あ!お父さんの車だと思う!」


慌てた声で叫び、椅子から飛び上がった。


「仕事じゃなかったのかな」


そんな美晴の慌てた声に日陰も驚いて立ち上がり、外の音に耳を澄ます。


「やばい!どうしよう……!」


美晴は一瞬考え込み、すぐに玄関とは逆の方の小窓を指差した。


「よし!裏の窓から出よう!日陰、そっちから出て!」


「えっ……ここから!?」


日陰は指差された小窓を見て言葉を詰まらせた。

人が出入りするための窓ではない。

まるで泥棒が逃亡を図るときのような、そんな想像をする。


「大丈夫!急いで!」


美晴のせっつく声に、日陰は仕方なく窓の鍵を開けると、飛び越えるように外に出た。


外の風を浴びて一息つく間もなく、背後から美晴の声が聞こえる。


「今一番伝えたいことだけ、書いとくか!」


ちらりと振り返ると、美晴が紙に急いでペンを走らせている。


「……!」


日陰が驚いて声をかけようとした時には、彼女も窓の方へと向かっていた。


美晴は素早く窓を開けると、右手だけを透明にして窓をすり抜け、中から鍵を掛けた。


「よし!脱出成功!」


外に出た美晴は、額の汗を拭うジェスチャーをしてえっへんと胸を張る。

日陰は呆れたように息を吐いたが、次の瞬間、美晴が部屋の方を指差す。


「ほらほら、早く隠れて!」


二人は近くの木陰に身を潜め、窓から中の様子をこっそり伺った。

やがてリビングに入ってきたのは、50代後半くらいの男性だった。

所々に白髪が目立つが、柔らかな目元と穏やかな雰囲気が印象的だ。

美晴の隣でその姿を見ていた日陰は、彼女に視線をやる。


「……美晴?」


隣にいた美晴は、父親の姿を見つめながら、今にも泣き出しそうな表情をしていた――。

日陰は美晴の表情に気づきつつも、何も声を掛けなかった。ただ、再びリビングの方へ視線を戻し、美晴のお父さんの様子を静かに見守る。

隣では美晴も微動だにせず、真剣な眼差しでリビングの光景を見つめている。


美晴のお父さんは、リビングの机に置かれた紙に気づいたようだった。小さく首を傾げ、恐る恐る近づいていく。

そして紙を手に取ると、目を見開き、驚いたように辺りをキョロキョロと見渡した。


「……!」


その挙動に、思わず美晴が吹き出す。


「今、どんな感情なんだろうね」


くすくすと笑いながら、美晴が言う。


「普通に考えたら、泥棒か何かと思うよね?」


日陰はちらりと隣を見やる。先ほどの寂しげな表情はどこへやら、今はいたずらが成功した子供のように楽しげだ。


「そうかもな」と日陰が小さく返すと、美晴は「でしょでしょ」と満足げに微笑んだ。


だが次の瞬間、リビングの光景が変わった。

美晴のお父さんは手紙をじっと見つめたまま動かなくなり、やがてその場に崩れるように膝をついた。


「……!」


驚いた日陰が目を見張る。

お父さんの両手は手紙をしっかりと握りしめている。その肩がかすかに震えているのが、ここからでも分かった。涙を堪えるどころか、完全に声を上げて泣いているようだった。


「……」


美晴はその姿を黙って見つめていた。だが、口元には小さな笑みが浮かんでいる。

そして、日陰にウインクをしてみせた。


「私だってわかったのかな?」


日陰は微笑み、彼女の問いに答える。


「そうだといいな」


その言葉に、美晴は目を細めて嬉しそうに微笑む。


「お父さん大好き。いっぱいありがとうって書いておいたの」


少し照れたように言う美晴の声はどこか軽やかだった。


「……そっか、それはちゃんと伝わるよ」


日陰がそう返すと、美晴はさらに付け加えるように、からかうような調子で言った。


「あ、あとね、酢昆布と水は友達にあげたよって、小さく書いといた!」


「……そこはいるのか?」


日陰は苦笑しながら呆れたように言う。


美晴は無邪気な笑顔を浮かべて、「いらないことなんてないよ!」と胸を張った。


二人はそのまま静かに、リビングで泣き続けるお父さんの姿を見守った。夕日の光が部屋の中に差し込む中、静かな感動の時間が流れていく――。


美晴はしばらくお父さんの様子を見守っていたが、やがてふっと顔を上げた。そして、軽く手を叩いて明るい声を出す。


「さ、じゃあ帰りますか!」


日陰は驚いたように美晴の顔を見る。彼女の表情はすっかり晴れやかで、少し前までの切なさを微塵も感じさせない。


「もういいのか?」


日陰が静かに尋ねると、美晴は満面の笑みで元気よく頷いた。


「うん!お父さん、ちゃんと受け取ってくれたし、それで十分!」


その明るさに、日陰は胸の奥で小さな安堵を感じた。肩の力が抜け、自然と微笑みがこぼれる。


「それに、日陰お腹空いてるでしょ?」


突然の問いに、日陰は少し間を置いて苦笑した。

「まぁ…かなり」


「じゃあ寄り道しよ!」


美晴は嬉しそうに声を弾ませる。その笑顔はどこか解放感に満ちていて、見ているだけで日陰の心が軽くなるようだった。


美晴の提案に、日陰も「じゃあ行くか」と軽く頷き、二人は駅の方へと歩き出した。その足取りはどこか力強く、新たな道を踏み出すような印象を与える。


歩きながら、美晴が突然ぽつりと話し始めた。


「私さ、驚いちゃった」


その言葉に、日陰は首を傾げる。


「何が?」


美晴は視線を空に向けながら、どこか感慨深そうに続ける。


「お父さんも、ひまわり畑のこと覚えてたんだって。ていうか、むしろ私よりちゃんと覚えてた。日付とかね」


「あぁ……確かに。それ、すごいよな」


日陰も同意するように頷いた。ふと、美晴の顔に目をやると、彼女はどこか遠くを見るような瞳で話を続けていた。


「あとさ、もっとすごいと思ったんだけど、昨日、私たちもひまわり畑に行ったじゃない?」


「そうだな。……偶然だよな」


日陰は少し驚いたように言い、軽く頬を掻いた。


美晴はその偶然を思い返しながら、ふっと笑みを浮かべた。


「うん。びっくりしちゃった。……運命みたいだよね」


日陰もそれを受けて、しばらく無言で頷く。二人の間に、偶然がもたらす不思議な縁が静かに漂っていた。

美晴は歩きながら、ふと遠くを見るような目をして続ける。


「他にもね。私、桜を見に行く約束もしてたんだって」


その言葉に日陰は少し驚いたように眉を上げる。


「桜か……」


ぽつりと呟くその声には、どこか感慨深い響きがあった。


美晴は軽く笑いながら続ける。


「そう。お父さんが書いてたの。私がまだ小さい頃に、春になったら一緒に桜を見に行こうって約束してたんだって。でも、それも……全然覚えてなくて」


美晴の視線が少し下に落ちる。彼女の言葉に浮かぶ寂しさと自責の色を、日陰は感じ取った。


「忘れられたくないって、ずっと思ってたのに……。でも、結局、私の方が忘れてることが多くてさ。それにびっくりしちゃった。お父さんは全部覚えてくれてたのに、私は全然お父さんを理解できてなかったんだ」


その声は少し震えていて、悲しそうでもあり、でもどこか嬉しさも感じる響きがあった。日陰は隣で歩きながら、自然と拳をぎゅっと握った。


「……だから、やっぱり」


日陰は立ち止まり、慎重に言葉を選ぶようにして口を開く。


「思っていることは、言葉でちゃんと伝えないとだよな。」


その言葉に、美晴は驚いたように彼を見つめた。日陰の横顔は夕陽の中でどこか大人びて見えた。彼の言葉には、重みと優しさが同居していた。


美晴は少し黙った後、ふっと柔らかく微笑んだ。


「そうだね。伝えたいことがあるなら、伝えなくちゃね」


美晴の声は穏やかで、その瞳には感謝の気持ちが込められているようだった。


「美晴……朝、お返しをしてくれるって言ってたこと、覚えてる?」


夕焼けに照らされた背中越しに美晴へ問いかけた。


美晴は少し驚いたように目を瞬かせたあと、何かを思い出したように頬を緩ませた。


「うん!切符代を出してくれたお礼に、私が何でも言うことを聞くって言ったよね!」


美晴はにっこりと屈託のない笑顔を浮かべる。


次の瞬間、その笑顔をほんの少しだけいたずらっぽく崩し、肩を軽くすくめながらこう付け加えた。


「あ、でもごめんね?エッチなのは、まだ早いかな〜」


冗談めかしたその言葉に、日陰は一瞬、間の抜けたような顔をして、次に耳まで真っ赤に染める。


「なっ……!誰もそんなこと言ってないだろ!あとまだってなんだよ!!」


顔をそらしながら声を上げる彼の様子に、美晴はからかい甲斐があったのか、さらに声を弾ませて笑う。


「ごめんごめん!でも真っ赤になってるのがもう怪しい!」


彼女は小さく肩を揺らして、楽しそうに笑い続けた。


日陰は恥ずかしさのあまり何か言い返そうと口を開きかけたが、どうにも言葉が出てこない。ただ心の中で、そんな冗談を言う彼女に「やっぱりタチ悪い」と思わずにはいられなかった。


そのまま夕陽の空の下、日陰は深呼吸をして気持ちを整え、再び美晴に向き合う。そして改めるようにゴホンと咳払いする。


「美晴……」


日陰は言葉を紡ぐように、しっかりと彼女の目を見た。夕陽が地平線に沈みかけ、あたりを淡いオレンジ色に染めている。風が静かに吹き抜け、二人の間の空気をほんの少し揺らした。


「俺と……もっといろんな景色を見に行こう」


その言葉はまるで風に乗ったように静かに響く。だが、その中に込められた決意は確かだった。


美晴は目を丸くして驚く。そして、少しずつ表情を柔らかくしていき、女神のように優しく微笑む。


「それって……他にも意味が含まれてたりするのかな?」


彼女はニタッと笑い、日陰をからかうように視線を送る。その悪戯っぽい表情に、日陰は急に恥ずかしくなり、目を逸らした。


「そのまんまの意味だよ! 別に、他の意味なんてないから!」

声が少し大きくなり、焦りが滲み出る。


美晴はそんな彼の様子が可笑しいのか、ふふっと笑いながら首を横に振る。


「わかった、わかった! 必死だな〜」


彼女はなだめるように手を振り、優しく微笑んだ。


日陰は悔しそうに口を引き結び、ちらりと美晴の方を見たが、すぐに目をそらす。耳まで真っ赤になっているのが夕陽越しにもわかった。


そして、不意にぽつりと呟いた。


「……桜も見に行こうよ」


その言葉に、美晴はしばらく驚いたように彼を見つめた後、満面の笑みを浮かべた。


「日陰から誘ってくれると、こんなに嬉しいんだね」


彼女の声は楽しげで、どこか温かさを帯びている。その言葉を聞いて、日陰は思わず顔を手で隠したくなるような気持ちになった。海やひまわり畑は美晴から誘ってくれたからこそ行けたのだ。

自分から誘ったことが、今さらながら恥ずかしく思えてくる。


「これは絶対に叶えないとだね」


美晴はそう言って、ニコリと笑いながら右手を差し出した。その小指がまっすぐ日陰に向けられる。


「じゃあ、約束だよ」


日陰は一瞬びっくりして、その意味を理解しつつも戸惑った。彼女の差し出した小指を前に、緊張で手が固まる。ぎこちなく右手を持ち上げて、小指を彼女の小指に近づけたが、その指先が震えているのを隠すことができない。ようやく触れた瞬間、美晴は声を上げて笑い出した。


「震えすぎだよ!」


彼女はお腹を抱えて大笑いする。


「う、うるさい!」


日陰は顔を真っ赤にして抗議するように声を上げたが、指を切る力はしっかりと込められていた。


「絶対、私と桜の写真を撮ってね! 約束!」


美晴は満面の笑みで力強く言う。その瞳の輝きが、沈みかけの夕陽の光を受けて一層眩しく見えた。

日陰は彼女のその言葉と笑顔を胸に刻むように見つめながら、小さく頷いた。


---


駅に近づき、日陰は空腹を思い出して駅前を見渡しながら小さくため息をついた。


「さすがに腹が減ったな……何か軽く買おう。」


それを聞いた美晴は目を輝かせて近づいてきた。


「いいね!寄り道だ〜!あのソフトクリーム屋さん、美味しそうじゃない?」


日陰は少し首を傾げる。

「美晴、食べられないだろ?」


すると美晴は悪戯っぽく笑った。


「いいの!持つだけで十分!あと写真も撮ってね!」


半ば強引に美晴に引っ張られるようにして、2人はソフトクリーム屋の列に並んだ。並んでいる間も美晴は落ち着かず、日陰の袖を引っ張ったり、メニューを見ながら「これがいい!」「いや、やっぱりこっち!」と楽しそうにしている。


そして順番が回ってきて、日陰が注文したのはシンプルなバニラソフト。手渡された冷たいソフトクリームを受け取った瞬間、美晴の目が輝いた。


「じゃあ貸して!」


美晴は日陰の手からソフトクリームを受け取り、にっこりと笑顔を浮かべた。その顔は太陽の下でさらに輝いて見える。


「どう?私、似合ってる?」


ソフトクリームを片手に、少しだけポーズを取る美晴。その姿があまりに楽しげで、日陰もつられて笑ってしまった。


「まあ、青春っぽい感じ……かな。」


日陰はカメラを取り出し、美晴のその姿をレンズ越しに捉える。ファインダーの中で、ソフトクリームを持つ美晴が太陽の光を浴びて無邪気に笑っている。その笑顔は、ただの写真とは思えないほど鮮やかで、どこか儚さも含んでいるように見えた。


「撮るよ。動かないで。」


日陰が声をかけると、美晴はピタリと止まり、目を細める。


シャッター音が響き、写真は完璧な1枚として収められた。美晴はその音を聞くと、満足そうに肩を揺らして笑う。


「どう?撮れた?」


「……ああ、ちゃんと撮れたよ。」


日陰はカメラの画面を確認しながら微笑む。美晴の笑顔は、まさに青春の1ページを切り取ったようだった。


美晴はソフトクリームを日陰に返しながら、ふといたずらっぽく言った。


「ねえ、今度はソフトクリーム食べてる日陰を撮ってあげる!」


日陰は小さく笑って首を振った。


「いや、撮らなくていいから。俺は食べるのが目的だし。」


暗くなり始めた空の下、その場には穏やかな時間と2人だけの小さな青春が流れていた。

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